かたすみ速報

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    タグ:ソ連

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    1: ゆき ★ 2021/08/25(水) 12:49:36.26 ID:Bsj/56S/9
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    [モスクワ 24日 ロイター] - ロシアのプーチン大統領は24日、ロシアは旧ソ連時代のアフガニスタン侵攻から教訓を学んでいるとし、今回の事態を受け、同国に軍隊を派遣することはない述べた。

    プーチン氏は与党・統一ロシアの党大会で「旧ソ連はアフガニスタンで独自の経験をした。われわれは必要な教訓を学んでいる」とし、「ロシアは当然、アフガニスタンの内政に干渉しない。軍隊を派遣することもしない」と述べた。

    Reuters 2021年 8月 25日 2:47 AM JST
    https://jp.reuters.com/article/idJPKBN2FP1OY


    【【ロシア】アフガンに軍隊派遣せず 旧ソ連時代の侵攻から教訓=プーチン大統領】の続きを読む

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    1: 右大臣・大ちゃん之弼2021/07/01(木) 15:10:54.03 ID:CAP_USER
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     「米国と韓国は同盟国ではない」などの発言で数々の問題を引き起こしている光復会の金元雄(キム・ウォンウン)会長がまたも問題発言を行った。

     光復会がホームページを通じて30日に公開した内容によると、金会長は先月21日に京畿道教育庁が進める「親日残滓(ざんし)清算プロジェクト」の活動に参加した京畿道揚州白石高校の生徒らに13分の映像メッセージを送った。

     映像の中で金会長は「(解放後)韓半島は南北に分かれ北朝鮮にはソ連軍が入り、南韓には米軍がやって来た。ソ連軍は入ってから各地に布告を貼り付けたが、そこには『朝鮮人が独立と自由を取り戻したことを心からお祝いする」「朝鮮人の運命は今後朝鮮人の行動に懸かっている』『朝鮮解放万歳』などと書かれていた」と主張した。

     金会長はさらに「一方で同じ時期に米軍は南韓を占領した。マッカーサー将軍は南韓を占領する際にこのように書いた。『われわれは解放軍ではなく占領軍だ』『今後朝鮮人は私の言葉をよく聞かねばならない』『私の言葉を聞かなければ軍法会議で処罰する』『また全ての公用語は英語だ』という布告を各地に貼った」と指摘した。

     また金会長は「当時の米軍政は米国防省に『南韓を植民地として使うべきだ』という内容の非公開の報告書を上げた」とも主張した。

     金会長は「国会で統一外交通商委員長を務め、対外的に公開されていない多くの報告書を見る機会があった」「(私が見た)報告書の核心はこうだ。『南韓を日本に続いて米国の実質的な植民地として使うべきだ』(ということだ)」と述べた。

    キム・ミョンイル記者

    朝鮮日報 記事入力 : 2021/07/01 11:01
    http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2021/07/01/2021070180036.html


    【【光復会・金元雄会長】高校生に「ソ連は朝鮮解放を祝い、米国は南韓を占領」】の続きを読む

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    1: みの ★ 2021/06/26(土) 19:30:38.85 ID:JF5G9/i89

     「確かにこれは私の字だ……」。ようやく会えたその人は、自分のサインが残る米軍が作成した尋問調書の写しをじっと見つめた。私の目の前の男性(93)は終戦の5年後に米軍と海を渡り、朝鮮戦争(1950年勃発、53年に休戦協定)の戦闘に巻き込まれた。占領下の米軍基地従業員だった若者がなぜ銃弾飛び交う戦場へ向かったのか。朝鮮戦争勃発から6月25日で71年。戦争を放棄したはずの戦後日本から「従軍」した生き証人が、重い口を開いた。【西部報道部・飯田憲】

     2021年3月下旬、私は神奈川県内のある集合住宅の玄関前に立っていた。朝鮮戦争の戦地へと渡航した民間日本人の取材を始めて1年半が過ぎていた。インターホン越しに来訪を告げると薄く扉が開いた。「わざわざ九州から来たのか」。つえをついた高齢男性が目を細めた。朝鮮戦争の前線に「参戦」した生存者との初の対面だった。「まあ入ってください」。男性が匿名を希望したため、名前を伏せて「熊倉さん」と呼ぶことにしたい。

     71年前、熊倉さんは大分県別府市の在日米軍基地「キャンプ・チッカマウガ」で働く炊事係だった。朝鮮戦争が勃発してすぐ、基地で働く他の日本人従業員たちと朝鮮半島へ渡った。炊事兵としての帯同だったが、カービン銃を持たされ、戦闘にも巻き込まれた。同じ部隊から一人の日本人が行方不明になり、今も消息は不明のままだ。その人は同市出身の吉原嶺史さん(当時21歳)。私が熊倉さんの所在を追ったのは、ともに大分出身の2人が交錯する足跡を知ったからだ。その理由は後述するが、ここに至るまでの経緯を振り返ろう。

    ■米軍作成の極秘文書

     20年1月、私は米国立公文書館から「韓国における日本人の無許可輸送と使用」と題した米軍作成の極秘文書を入手した。文書は計843ページ。朝鮮戦争で米軍が帯同した在日米軍基地の日本人従業員ら60人のうち少年4人を含めた18人が米軍の尋問に戦闘へ参加したことを証言していた。敗戦間もない占領下の日本から対岸の戦地に民間人が渡り、戦闘による行方不明者や死亡者もいたという驚くべき記録だった。

    (略 会員記事)

    毎日新聞 2021年6月25日 6時01分
    https://mainichi.jp/articles/20210624/k00/00m/040/241000c


    【【毎日新聞】米軍が帯同して朝鮮戦争に従軍した日本人 ソ連や北朝鮮の抗議に日本人いないと偽った米国】の続きを読む

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    1: みの ★ 2021/04/23(金) 10:29:13.08 ID:5C49dOmb9
    K10012991831_2104222324_2104230508_01_02
     旧ソビエトのチェルノブイリ原子力発電所の事故で、放射線の被ばくをした周辺住民などの子どもの遺伝子を調べたところ、親の被ばくの影響は子どもの遺伝子には見られなかったとする研究結果を、日本やアメリカなどの国際研究グループが発表しました。

     日本やアメリカ、ウクライナやロシアなどの国際研究グループは1986年のチェルノブイリ原発事故のあと、除染作業にあたった作業員や半径70キロの周辺住民の子ども130人の遺伝子を調べた結果を、科学雑誌「サイエンス」に発表しました。

     それによりますと、子どもたちは事故の次の年から2002年までに生まれていて、父親が受けた放射線量は平均365ミリシーベルト、最大で4080ミリシーベルト、母親は平均19ミリシーベルト、最大で550ミリシーベルトでしたが、子どもの生殖細胞などの遺伝子に変異が起きていた割合は、親の被ばく量が多くても、被ばくしていない場合と変わらなかったとしています。

    研究グループは、子どもの遺伝子には被ばくの影響は見られず、親から引き継がれる健康への影響は極めて小さいとみられるとしています。

    研究に加わった放射線影響研究所の中村典顧問は「100人以上の分析から、親の被ばくによって子どもが受ける遺伝的な影響は限定的だと示せたのは大きい。引き続き分析は必要だが、福島の人にもある程度不安の解消につながるデータと捉えてもらいたい」と話しています。

    NHK 2021年4月23日 5時08分
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210423/k10012991831000.html


    【【NHK】旧ソ連のチェルノブイリ原発事故で、被曝した住民の子供に遺伝子の異常は見られず】の続きを読む

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    1: 蚯蚓φ ★ 2021/04/22(木) 12:16:44.13 ID:CAP_USER
    kyap21
    アンカー:「原発事故情報を透明に公開せよ」「海は放射能のごみ捨て場ではない」
    福島原子力発電所汚染水の事かと思いますが、実は2,30年前、「日本」が他の国に叫んだ言葉です。他国の放射能は危険で自分の場合は大丈夫ということなのでしょうか、日本のいわゆるネロナムブル(ダブルスタンダード)の形をファクトチェック コーナー「分かってみれば」で調べてみました。

    記者:1986年、旧ソ連で起きたチェルノブイリ原発爆発事故。事故直後、日本が一番最初にソ連に要求したのは「迅速で透明な情報公開」でした。衆議院と参議院が全員一致で決議した結果です。

    [中曽根日本総理(1986年)]「国境を越えて出る放射能のようなものが出てきたので、緊急通知と援助に対しても私たちは共同行動を取らなくてはならない…」

    日本は放射能に極度に敏感な反応を見せました。毎日F-4戦闘機を出撃させて大気中放射能を採集し、旅客と手荷物まで放射能検査を実施しました。

    [日本人/航空機乗客]「大変です。(放射能)被爆者になったかと思う不安感があります。」

    放射能検知器が「飛ぶように」売れ、日本国民の86パーセントは原子力発電所に対し不安感を示しました。それだけではありません。ヨーロッパから持ってきた輸入農水産食品を対象に強化された安全基準を適用し、事故の翌年から次々輸入を禁止しました。

    チェルノブイリ近隣の東ヨーロッパはもちろん、遠くフランスやスペイン、アイルランドなど西ヨーロッパまで合計12の欧州国の食品輸入を中断しました。

    このような姿は、その後、福島近隣水産物輸入を禁止した我が国をWTOに提訴し、今月初め放射能メバルが捕えられたのに20日過ぎて出荷を禁止した最近の日本と明確に対比されます。

    1993年、日本はもう一度放射能の衝撃に包まれます。ロシアが核廃棄物を日本近海に捨てている事実が公開されたのです。「海は放射能のごみ捨て場ではない」と日本世論は沸き立ったし、日本政府はロシアと首脳会談を持って、核廃棄物投機を直ちに中止せよと要求しました。

    [ニュースデスク(1993年10月19日)]「日本外務省は昨日に続き、今晩、再び東京駐在ロシア大使を呼んで強力に抗議し、東海(トンヘ=日本海)上の核廃棄物投機を直ちに中止するよう要求しました。」

    しかし、今の日本は「福島原発は海上ではなく陸地にあるので」海上投機とは場合が異なると主張しています。この様な「ネロナムブルシク」態度は日本マスコミの報道にもそっくりあらわれます。

    日本の4大日刊紙を調査した結果、チェルノブイリなど他国の原子力発電所事故記事では、被爆や癌、白血病の様な恐ろしい病気関連用語が記事1千件当り262回使われた反面、福島関連記事では1千件当り85回で3分の1にもなりませんでした。

    [キム・ユヨン/同徳(トンドク)女子大日本語科教授]「チェルノブイリ事故は新聞で1面を占める比重が圧倒的に高かった。(福島事故は) (日本)国内で発生した事故にもかかわらず相対的にちょっと少なかった…」

    ロシアが海に核廃棄物を捨てた当時、日本がした嘆きは「もう放射能刺身を食べることになった」ということでした。しかし、今日、放射能海産物を憂慮する私たちに日本は、「原発汚染水は飲んでもかまわない水」と強弁しています。

    「分かってみれば」でした。

    MBCニュース(韓国語)
    https://imnews.imbc.com/replay/2021/nwdesk/article/6156362_34936.html

    【【韓国報道】 放射能汚染水の「ネロナブル」…旧ソ連のチェルノブイリ事故や核廃棄物投棄の時、日本は?】の続きを読む

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    1: みの ★ 2021/04/10(土) 08:28:01.48 ID:qlahmiM29
    K10012966481_2104092118_2104100010_01_02
     1973年に行われた当時の田中総理大臣とソビエトのブレジネフ書記長との首脳会談を前にソビエト政府は、日ソ共同宣言に基づく歯舞群島と色丹島の引き渡しを日本が受け入れない場合は、これに加えて国後島や択捉島への日本漁船の寄港などを認めるという提案も検討していたことが、ソビエトの外交機密文書で明らかになりました。

     1973年、当時の田中総理大臣とソビエトのブレジネフ書記長は、モスクワで首脳会談を行いましたが、ソビエト側は、北方領土の帰属の問題などには踏み込まず、日本側にとって厳しい交渉だったとされています。

     しかし、ソビエト政府は、会談を前に北方領土問題をめぐって具体的な提案を検討していたことがロシアの国立公文書館で見つかったソビエトの外交機密文書で明らかになりました。

     それによりますと、ソビエトは「1956年の日ソ共同宣言の規定を実行し、歯舞群島と色丹島の引き渡しを定める項目を条約に含めることに合意できる」として2島の引き渡しを「第1の立場」としています。

     さらに、日本がこれを受け入れない場合を想定し「予備の立場」として2島の引き渡しに加え、国後島や択捉島について日本の漁船が寄港する権利を与えることや、複数の海域で漁業権をしかるべき料金で日本人に提供することなどが記されています。

     一方、この案でも合意できない場合は、3つめの案に切り替え「領土の画定問題に触れない善隣協力条約の締結を検討するよう提案する」としていたことが明らかになりました。

     この条約をめぐっては、一緒に保管されていた別の文書に「事実上、この問題を消し去ることを意味する」と領土問題の幕引きをねらう意図が明記されています。

     3つの提案については、会談の2か月前に当時のブレジネフ書記長などが署名した指令書にもほぼ同じ内容が記されているとロシアの歴史家が指摘していて、今回の文書はこの指令書に基づいて作成されたとみられます。

     ただ、これらの案は結局、実際の会談では詳しくは日本側に提起されませんでした。

    (略)

    NHK 2021年4月10日 6時31分
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210410/k10012966481000.html


    【【NHK】1973年の日ソ首脳会談で、ソ連は2島返還+αを提示する準備をしていた 日本側に提起されず】の続きを読む

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    1: ばーど ★ 2021/04/08(木) 13:33:30.54 ID:JtPPb8ih9
    千島列島

    ウラジーミル・メディンスキー・ロシア大統領補佐官は学術円卓会議「日ソ中立条約締結80周年にむけて 歴史と現在」の席上演説を行い、日本の歴史の教科書の第2次世界大戦についての記述は史実を改ざんしており、ソ連側の行為に不正確な評価を行っていると指摘した。ロシアのマスコミが報じている。

    メディンスキー大統領補佐官は、日本の教科書は1941年4月13日に調印された日ソ中立条約および1945年8月の条約破棄について不正確な評価を行っていると指摘した。

    メディンスキー大統領補佐官は次のように発言している。「今、日本の歴史の教科書は、ルーズベルトがソ連が対日戦に参戦する代償としてスターリンに南サハリンおよびクリル諸島の日本の領域を渡し、このためソ連は中立条約を破棄し、日本に攻撃して満州を侵略したと記述している。」メディンスキー氏はさらに、先日日本がクリル諸島の地位に関する教科書の記述を修正したことを指摘した。

    「地理、社会の教科書ではクリル諸島は日本固有の領土であるものの、ロシアがこれを占拠していると書かれている。」メディンスキー氏はこう述べている。

    メディンスキー氏は、日本側は1945年8月、ソ連の参戦は予期せぬ出来事だったと断定しているが史実はこれとは?み合わないと付け加えている。メディンスキー氏は日本政府がヤルタ協定についても、日本がこの時期までに軍事行為を止めない場合、ソ連が連合国を支持する意向であったことも知っていたことに注意を促した。

    メディンスキー氏はまた、ソ連政府は極東での連合国の戦いに合流する意向を日本政府にあらかじめ警告していたと強調している。メディンスキー氏は「狡猾も裏切りも一切なく、公式的にソ連は対日戦を宣戦した」と指摘し、「米大統領は日本の真珠湾攻撃の時から戦時中一貫して、なんとかして早く日本を降参させようとスターリンを執拗に説得し続けていた」と語った。

    2021年04月08日 09:50 スプートニク
    https://jp.sputniknews.com/politics/202104088296311/

    【【ロシア大統領補佐官】日本の教科書は世界大戦の史実改ざんの道を辿っている】の続きを読む

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    1: みの ★ 2021/03/20(土) 20:29:09.91 ID:SgYVczBY9
    kamisisuka
     南樺太(現ロシア・サハリン)からの引き揚げ者らでつくる全国樺太連盟の北海道事務所長、森川利一(としいち)さん(91)は終戦後、旧ソ連の占領下の樺太で、命を奪われそうになる恐怖を体験した一人だ。連盟は3月末に解散するが、記憶は今も鮮やかな像を描き出す。

     1945年8月、15歳の旧制中学3年生だった森川さんと父母の一家3人が暮らしていたのは、南樺太北部の上敷香(かみしすか、レオニードボ)。木材関係の仕事の傍ら、農業で軍に野菜などを納めていた父は兵役を免れていた。8月9日に旧ソ連軍の侵攻を受け、緊急疎開するように声がかかったのは17日だった、と記憶している。

     母を先に送り出すと、父と2人で疎開船が出る大泊(コルサコフ)を目指した。多くの人が同じように南へと歩いていた。

     道すがら、凄惨(せいさん)な現場に立ち会った。夜が更け、寝泊まりをさせてもらおうと空き家を訪ねた。この時期、樺太全域で一斉に疎開が始まり、空き家があちこちにあった。友人の父子と4人で入った家で休んでいると、2階に上がった友人が「森川、だめだ、ここは」と顔色を変えて降りてきた。白装束の夫婦が刺し合って自害している、と説明された。

    (略)

    朝日新聞 2021年3月19日 12時19分
    https://www.asahi.com/articles/ASP3L6V6NP2VIIPE019.html


    【【朝日新聞】ソ連兵に銃口を押し付けられた時、父は土下座して息子の命乞いをした 全国樺太連盟が解散へ】の続きを読む

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    1: 昆虫図鑑 ★ 2021/03/08(月) 07:37:27.38 ID:CAP_USER
    kr250
    2021年3月1日、澎湃新聞は、「韓国はどのように建国されたか」とする記事を掲載した。以下はその概要。

    第2次世界大戦中だった1943年11月のカイロ会談で、米、英、中の3カ国首脳は日本の敗戦後に朝鮮半島を独立させることで意見を一致させた。しかしソ連は自身の東アジア権益を守るため、中国東北部さらには朝鮮半島への出兵を宣言した。米国はソ連が朝鮮半島を独占することを防ぐため、北緯38度を境界として米ソ両国による分割統治を提案。ソ連はこの提案に同意した。

    終戦後の朝鮮半島の分割統治に際し、米ソは両国を主とする委託管理政府の樹立を想定していたが、朝鮮半島の民衆はこれに反対した。その後米ソ両国はイデオロギーで対立し、冷戦へとエスカレートさせたことで、この案は実現することはなかった。

    そして46年5月10日、米国人の画策により南朝鮮で憲法制定会議が開かれて李承晩(イ・スンマン)が大統領に選出されると、同8月15日に大韓民国政府樹立が宣言された。これに対し、ソ連側も同9月9日の金日成(キム・イルソン)による北朝鮮人民共和国設立を支援することで、朝鮮半島の政治的軍事的バランスを保とうとした。

    韓国建国後、中国大陸の内戦で国民党軍が劣勢に立たされる中、米国は韓国の戦略的地位を重視し始め、韓国を通じてソ連の勢力拡大を抑え込むことを考えた。そして50年6月25日に北朝鮮軍が韓国に進攻して朝鮮戦争が始まると、米国はこれを第3次世界大戦の開始と考えて朝鮮半島に出兵、攻勢を仕掛けて一時失われていた韓国の領地を挽回した上、中国国境付近にまで逆に攻め入った。

    すると、米軍が国境付近まで迫ったことに危機感を覚えた中国が志願軍を結成して北朝鮮を支援、米軍を38度線にまで撤退させた。その後戦況はこう着し、53年7月27日に休戦協定が結ばれた。

    このように、韓国の独立と解放は他人の力に頼ったものであり、自ら艱難辛苦を経て勝ち取った結果ではない。もし自ら独立を勝ち取った国であれば、自民族の傑出した人物をリーダーとする政治団体が作られるのが普通だ。一方で大国に頼って独立した国の政治家は、大国との間に「文句ひとつ言えない、切りたくても切れない利害関係」が必然的に生じる。それでは、真の独立自主を得ることは難しいのである。(翻訳・編集/川尻)

    Record China
    https://www.recordchina.co.jp/b872915-s25-c30-d0193.html

    【【中国メディア】韓国の独立は他人の力に頼ったもの、自ら勝ち取った結果ではない】の続きを読む

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    1: 記憶たどり。 ★ 2020/11/22(日) 21:38:55.03 ID:Eq3bZ4IB9

    【モスクワ共同】1973年にモスクワで3日間行われた田中角栄首相とブレジネフ・ソ連共産党書記長の首脳会談のソ連側記録が22日までに判明した。
    共同声明に「(北方領土の)4島の問題」を盛り込もうと連日食い下がる田中氏に対し、ソ連側が要求を一蹴したやりとりが克明に記されている。
    声明の「未解決の諸問題」には4島の問題が含まれるとブレジネフ氏が口頭で事実上認めていたことも裏付けられた。

    機密解除されたソ連共産党政治局の公文書をロシアの歴史研究家マキシメンコフ氏が入手した。
    日本外務省は会談録を公表していない。


    1973年10月、モスクワでソ連首脳と対面する田中角栄首相(左から2人目)。
    ソ連側は右からグロムイコ外相、コスイギン首相、ブレジネフ共産党書記長(UPI=共同)
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    神戸新聞
    https://www.kobe-np.co.jp/news/zenkoku/compact/202011/0013884628.shtml 

    【【北方領土】田中角栄首相、「4島」明記迫る。ソ連側は一蹴。73年の首脳会談のソ連側記録が22日までに判明】の続きを読む

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    1: 樽悶 ★ 2020/09/15(火) 23:15:40.81 ID:iJeGh7BH9
    第五方面軍司令官として北海道防衛の策を練る樋口季一郎(樋口隆一氏提供)
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    樋口季一郎中将の記念館を見学する孫の樋口隆一氏(右)ら親族=15日、北海道石狩市の同館(寺田理恵撮影)
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     ナチスの迫害から多くのユダヤ人を救出した旧陸軍の樋口季一郎中将(1888~1970年)の功績を伝える記念館が15日、北海道石狩市・五の沢地区に開館した。戦後75年を経て足跡を知る人が少なくなっており、運営法人の三上武樹理事長(57)は「功績を世界に発信したい。記念館があること自体が発信になる」と話している。

     樋口中将はハルビン特務機関長だった昭和13(1938)年、ナチスに追われソ連・満州国境に逃れてきたユダヤ難民を満州国に受け入れ、脱出ルートを開いた。救出した人数は2万人など諸説がある。

     多くのユダヤ人を救った外交官の杉原千畝(ちうね)氏になぞらえ、「もう一人の杉原」と呼ばれる。

     また、先の大戦の終戦当時、千島列島のシュムシュ島(占守島)や樺太での旧ソ連軍との自衛戦闘を司令官として指揮し、「北海道への侵攻を阻止した」との再評価が進んでいる。

     記念館の名称は「偉大なる人道主義者 樋口季一郎記念館」。古民家の蔵を改修し、北海道防衛策を練った机や北海道小樽市で新たに見つかった資料など約20点を展示している。23日から一般公開される。

     15日の開館式には、樋口中将の親族や石狩市の加藤龍幸市長ら約30人が出席した。孫の樋口隆一・明治学院大名誉教授(74)は「祖父は『人として当たり前のことをした』と言っていた。北海道防衛では周到に準備したにもかかわらず、数多くの犠牲者を出さざるを得なかったことは忘れてはいけない」とあいさつの言葉を述べた。

    9/15(火) 20:45配信 ヤフーニュース
    https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200915-00000620-san-hok

    【【北海道】もう一人の杉原千畝、樋口季一郎中将の記念館開館 「ナチスの迫害から多くのユダヤ人を救出」「旧ソ連の北海道への侵攻阻止」】の続きを読む

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    1: 蚤の市 ★ 2020/09/15(火) 15:45:51.43 ID:ZBAXR54I9

    nomonhan
     第2次世界大戦は、欧州ではなく極東アジア・モンゴルの草原で始まった――。日本と旧ソ連が衝突した1939年の“ノモンハン事件”について、こうした新たな見方が欧米で広がりつつある。歴史家らは、そこにソ連の独裁者、スターリンの思惑を見る。

     「ノモンハン事件は、規模としては主要な戦いとは言えない。しかしその影響は絶大だった」

     こう指摘する英国の著名な歴史作家、アントニー・ビーヴァー氏は、文筆活動の集大成といえる第2次大戦の通史を、ノモンハン事件から書き起こした。「それは、ユーラシア大陸の東と西を初めて結びつけた戦いだった。そして欧州戦線の分岐点となった独ソ戦の行方も左右した」と語る。

     モンゴル東部を流れるハルハ河の一帯には、80年余が過ぎた今も“大戦の発火点”と呼ぶべき跡が生々しく残されている。

     規則正しく並ぶ円形の壕(ごう)は、39年8月20日早朝、ソ連軍が日本の関東軍に総攻撃を仕掛ける際に物資を蓄えた拠点の跡だ。国境に近いこの周辺は現在も航空機の接近が禁じられているが、一帯の戦跡を継続的に調べている「ノモンハン事件日蒙共同調査団」(岡崎久弥団長)に対して2019年、ドローンによる撮影が認められた。

     欧州では当時、ポーランドに領土の割譲を求めるドイツのヒトラーと、対抗する英仏とが、それぞれソ連を味方にしようと激しい外交戦を繰り広げていた。その矢先、関東軍は東京・参謀本部の制止を振り切り、満州国軍警備隊とモンゴル軍騎兵部隊の国境をめぐる小競り合いを、モンゴルに駐留するソ連・機械化部隊との局地戦に広げた。

     スターリンは、欧州の戦乱から自国を当面は局外に置くためドイツと手を結ぶ一方、“背後の敵”日本をたたく決断を下す。それによりドイツは英仏と戦い、ソ連はドイツと日本からの挟み撃ちを回避できるという思惑に基づいていた。

     ソ連・モンゴル連合軍の司令官はゲオルギー・ジューコフ将軍。スターリンの指令を受け、周到な準備のもとで日本軍と満州国軍を圧倒的な物量で包囲し、壊滅的な打撃を加えた。1939年8月20日の総攻撃は2日間で大勢が決する。同23日に独ソは不可侵条約を締結。これには両国でポーランドを分割する密約があった。

     そしてドイツは9月1日、ポーランドへ侵攻。これが一般的な第2次大戦の始まりとされるが、ノモンハン事件はそこに至るまでの“流れ”の中にある。英仏は同3日、ドイツに宣戦布告。一方、ソ連もノモンハンで16日に日本と停戦を成立させると、17日にポーランドへ侵攻した。

     後に独ソ戦を勝利に導いて英雄となるジューコフが、最初に指揮した大規模な戦闘がノモンハン事件だった。8月20日の関東軍総攻撃の作戦図は、スターリングラード攻防戦で彼がドイツ軍を包囲・殲滅(せんめつ)した“天王星作戦”と酷似する。

     米国の歴史研究者で「ノモンハン 1939」の著者、スチュアート・ゴールドマン氏は「『第2次大戦の起源』という複雑なジグソーパズルで、ノモンハン事件は小さくはあるが、大切なピース。そのピースをはめると、全体の図柄が非常にわかりやすく見えてくる」と評した。


     関東軍はそうと知らずに第2次大戦のスイッチを押してしまったのか――。この問いにゴールドマン氏は「その通り」と答えた。「彼らは、4千マイルも離れた欧州の外交と自分たちがモンゴル国境でやっていることに関連があるとは思いもしなかったでしょう。しかし結果は重大でした」(天野みすず、編集委員・永井靖二)

    朝日新聞 2020年9月15日 15時00分
    https://www.asahi.com/articles/ASN9H2DZ2N99PLZU001.html

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    1: 記憶たどり。 ★ 2020/08/13(木) 21:42:08.85 ID:r6eujXje9

    ロシア中央銀行は11日、旧ソ連軍による1945年のクリール諸島(北方領土と千島列島) 上陸作戦を記念する5ルーブル(約7円)硬貨を12日に発行すると発表した。

    ロシアの前身であるソ連は45年8月に日ソ中立条約を破って対日参戦。
    日本のポツダム宣言受諾後に千島列島に侵攻し、北方領土を占領した。
    記念硬貨発行は侵攻を正当化しており、日本側の反発を招きそうだ。

    硬貨には極東カムチャツカ半島にある「クリール諸島の解放者」として
    ソ連兵をたたえる記念碑が描かれた。発行枚数は200万枚。 


    ロシア中銀が発行する旧ソ連軍のクリール諸島上陸作戦に関する記念硬貨(ロシア中銀提供)
    rocoin


    ヤフーニュース
    https://news.yahoo.co.jp/articles/46e5a583512feb4c0028f1bece56920d040284e8 

    【【解放でなく占領】ソ連の千島列島侵攻で記念硬貨200万枚を発行。「クリール諸島の解放者」としてソ連兵を称える記念碑描く。ロシア中銀】の続きを読む

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    1: 朝一から閉店までφ ★ 2020/06/05(金) 00:37:37.10 ID:Czr5eW8J9
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    2020年06月03日 13時53分

     第二次世界大戦中、旧ソ連の駐ウラジオストク総領事代理を務めた根井三郎さん(一九〇二~九二年)が、ナチスドイツの迫害から逃れたユダヤ人難民に発給した日本通過ビザが初めて発見された。
    根井さんが独断でビザを発給したとの証言記録は二〇一七年にロシアで見つかっており、この調査に携わった大学教授は「証言を裏付ける重要な資料」とみる。
    ユダヤ人難民を救った「命のビザ」は駐リトアニア領事代理の杉原千畝(ちうね)が有名だが、「根井ビザ」の発見者は「陰の功労者にも光を当ててほしい」と話している。 (高野正憲)

    (略)

    東京新聞
    https://www.tokyo-np.co.jp/article/33038

    【【他にもいた】杉原千畝の他にも「命のビザ」 ユダヤ難民に日本人外交官 現物見つかる】の続きを読む

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    1: 右大臣・大ちゃん之弼 ★  2019/09/04(水) 23:01:01.28 ID:CAP_USER
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    【ウラジオストク=小野田雄一】1939年にモンゴル国境付近で旧ソ連軍と日本の関東軍が衝突したノモンハン事件から80年となったのに合わせ、ロシアのプーチン大統領は3日、モンゴルの首都ウランバートルを訪問し、同国のバトトルガ大統領と会談した。プーチン氏は会談後の記者会見で「ソ連軍とモンゴル軍は80年前、肩を並べて戦い、侵略者に手痛い反撃を与えた」と指摘。事件を日本による侵略とした上で、ロシアとモンゴルの共闘と友好関係を誇示した。

     近年のプーチン政権は、第二次大戦での対ドイツ戦と日ソ中立条約を破っての対日参戦を「ナチズムとの戦い」と一くくりにし、北方領土占拠の正当化を図る傾向を強めている。

     5日に露極東ウラジオストクで安倍晋三首相との日露首脳会談を控え、プーチン氏には、ノモンハン事件を日本による一方的な侵略と位置付けることで日本を牽制(けんせい)する狙いがありそうだ。

     露メディアによると、両首脳はウランバートルの宮殿内に設けられたモンゴルの伝統的な天幕家屋で会談した。

    モンゴルではノモンハン事件について「(モンゴルは)日ソ両国の犠牲になった」との解釈もあるが、プーチン氏は「ハルハ河会戦(事件の露側呼称)がソ連とモンゴルを結びつけた」と力説した。バトトルガ氏も「両国の友情の下でモンゴルの独立と主権を守った勝利は神聖なものだ。80年の節目にプーチン氏と会えたことは非常に喜ばしい」と述べた。

     両首脳は3日、恒久的な友好協力関係をうたった新たな基本条約に署名した。



    ■ノモンハン事件

     1939年5月、モンゴル国境付近で、旧ソ連の影響下にあったモンゴルと、日本の傀儡(かいらい)だった旧満州国の国境をめぐって起きた大規模戦闘。日本の関東軍は大本営の戦闘不拡大方針に反して攻勢をかけたが、モンゴルを支援したソ連軍の総攻撃を前に大敗を喫した。9月15日の停戦成立までに計4万人を超す死者が出たとされる。事件を機に日本では対ソ開戦論が後退し「南進論」が優勢になった。

    産経ニュース 2019.9.3 22:51
    https://www.sankei.com/world/news/190903/wor1909030025-n1.html


    【【プーチン大統領】モンゴルと対日共闘を誇示 ノモンハン事件80年】の続きを読む

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    1: 記憶たどり。 ★ 2019/01/13(日) 10:02:06.95 ID:zLoQCHEp9

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    ロシア国防省は12日までに、第2次世界大戦中に旧ソ連の主力戦車として投入された「T34」型戦車の30両が東南アジアのラオスからロシア極東部のウラジオストクに到着したと発表した。

    近くモスクワへ移送される予定。同型戦車は1940年に旧ソ連軍に初めて引き渡されていた。
    最近までラオス軍では実戦配備されていた。

    ロシア国防省によると、ラオスからの今回の引き取りはロシア各都市で予定される「戦勝記念パレード」に登場させるのが目的。
    この他、博物館での展示品の一新や「大祖国戦争」に関する映画製作にも使われるとした。

    軍事専門サイト「militaryfactory.com」は、T34中型戦車の一連のモデルほど第2次世界大戦を行方を決めた戦車はないとした。
    2次大戦終結前まで約5万7000両が製造された。製造は冷戦時代にも続き、合計8万両以上となった。数千両が輸出に向けられたという。

    旧ソ連やロシアはその後、新型戦車も開発していたが、T34はロシア国民に強烈な印象を与えた戦車とされている。
    今回、ラオスから取り戻したのもその人気にあやかり、国威発揚を狙ったものとの指摘もある。

    ロシアでは最近、旧ソ連軍兵士とT34を題材にした映画「T34」が公開され、興行成績で新記録を打ち立てていた。

    CNN
    https://www.cnn.co.jp/world/35131210.html

    【【おそ露】ロシア、旧ソ連時代の主力「T34」型戦車30輌をラオスから回収。「戦勝記念パレード」に登場させ国威発揚を狙う目的 】の続きを読む

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    1: ばーど ★ 2019/01/11(金) 09:33:25.20 ID:gntmZylo9
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    【1月10日 AFP】ロシアの歴史学者と考古学者のチームが、ナチス・ドイツ(Nazi)の爆撃機パイロットが撮影した写真を手掛かりに、旧ソ連時代に独裁者ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)の秘密警察によって射殺された人々の遺体が大量に埋められた場所を特定した。

     モスクワ南西部コムナルカ(Kommunarka)地区にある遺体の大量埋葬地の存在が初めて公になったのは、旧ソ連崩壊の直前、ソ連国家保安委員会(KGB)が文書記録を公開したときだった。そこは、スターリンの秘密警察だった内務人民委員部(NKVD)が、1930年代にモスクワで使用していた3か所の処刑場の一つだった。

     歴史学者らは、1937~41年の間に少なくとも6609人が射殺され、コムナルカの集団埋葬地に遺体が埋められたと考えている。

     周囲から区切られたこの地域の森林はかつて、NKVD長官だったゲンリフ・ヤゴーダ(Genrikh Yagoda)氏が別荘地として使っていた。だがヤゴーダ氏自身もスターリン政権と衝突し、1936年に解任、38年に射殺された。その遺体もコムナルカに遺棄された可能性が高い。

     最近まで、遺体の大量埋葬地は、犠牲者の遺族が追悼碑を建てた森林内の一画にあると考えられていた。だが、歴史学者らは現在、埋葬場所は誤認されていたと考えている。

     グラグ(Gulag)と呼ばれる強制労働収容所の歴史を扱う「グラグ歴史博物館(Gulag History Museum)」の館長で、今回の調査を共同で指揮したロマン・ロマノフ(Roman Romanov)氏によると、コムナルカに関する本格的な考古学調査はこれまで全く行われたことがなかった。「(コムナルカには)何もなかった。みんながキノコ採りをするくらいだった」

     スターリン時代のさらに大きな処刑場だったモスクワのブトボ(Butovo)地区に比べると、コムナルカでの調査規模は小さい。だが、コムナルカに新たな追悼施設を設置するにあたり、歴史学者らは、遺体が埋められている正確な場所を突き止めたかったとしている。

    ■ナチスの写真が手掛かりに

     調査の鍵となったのは、ナチスの戦闘機パイロットによる1942年のモスクワの空撮写真だった。埋葬場所がまだ「出来たて」のころだ。この写真によって、当時の付近一帯の木の高さが確定できた。

     歴史学者は、これらの木の一部は、遺体が埋められたばかりの場所に植えられたと結論付けた。NKVDが処刑の痕跡を消すためによく使っていた手段だ。次は、犠牲者の遺体が実際に埋められた穴の特定に移った。

     スターリン時代の犯罪について記録や実証を行っている人権団体「メモリアル(Memorial)」の幹部、ヤン・ラチンスキー(Yan Rachinsky)氏によると、1937~38年のスターリンによる「大粛清」では、モスクワだけで約3万人が射殺されたと推計されている。

     1980年代ペレストロイカ(改革)時代に短期間だが情報が開示され、KGBがスターリン時代の犠牲者に関する資料を、ジャーナリストやメモリアルに送ってきたと同氏は語る。

     射殺され、その後すぐにコムナルカに埋められた人々の中には、政府高官や科学者も含まれていた。「モンゴル政府(の関係者)はほぼ丸ごと、そこに埋められた」と、ラチンスキー氏は言う。当時、モンゴルはソ連の衛星国だった。

     また、バルト三国のエストニア、リトアニア、ラトビアの政府関係者の多くも、1940年代ソ連に占領された後、そこで処刑された。

     だが、ラチンスキー氏によると、ロシアの治安当局が旧ソ連時代の資料公開をやめたため、コムナルカに遺棄されたと考えられている1000人以上が身元不明のままだという。「(ロシア当局は)突然、われわれにファイルを送るのをやめた」。現在のロシア当局は、ソ連時代の犯罪暴露には無関心だと同氏は非難する。

     一方、グラグ歴史博物館のロマノフ館長は、もっと楽観的だ。先ごろ、モスクワ中心部に政治弾圧の犠牲者を追悼する施設ができたときに、ウラジーミル・プーチン(Vladimir Putin)大統領が、式典に出席していたためだ。

     ロマノフ氏は、モスクワ以外の地域もコムナルカの「前向きな先例」に続いて、スターリン時代の犠牲者の大量埋葬地の「正確な位置」を特定してほしいと語る。

    一方、グラグ歴史博物館のロマノフ館長は、もっと楽観的だ。先ごろ、モスクワ中心部に政治弾圧の犠牲者を追悼する施設ができたときに、ウラジーミル・プーチン(Vladimir Putin)大統領が、式典に出席していたためだ。

     ロマノフ氏は、モスクワ以外の地域もコムナルカの「前向きな先例」に続いて、スターリン時代の犠牲者の大量埋葬地の「正確な位置」を特定してほしいと語る。

    「そのような場所は今も秘密のままだ。どこに遺体があるのかさえ知られていない。大きな森の中にそのような場所がある、ということしか分かっていない」

    2019年1月10日 16:27
    AFP
    http://www.afpbb.com/articles/-/3205879

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    1: Ψ( ̄∇ ̄)Ψ ★ 2018/08/18(土) 17:16:57.90 ID:CAP_USER9
    ソ連旗
     
    ◆終戦 性暴力 語り始めた女性たち
    2018年8月15日 13時00分 NHK

    終戦直後、旧満州や朝鮮半島から祖国を目指し、引き揚げてきた女性たち。その中には、性的暴行を受けて妊娠したまま日本にたどり着き、当時違法だった中絶手術をひそかに受けた人も数多くいました。

    ソ連兵や現地の男性は、祖国に引き揚げようとする日本人女性に対し、性的暴行を繰り返しました。

    九州大学のほかに、今のソウルにあった京城大学から引き揚げた医師たちも、人道的な観点から女性を助けたいと福岡県筑紫野市にあった施設で、中絶手術を行っていました。
    ある医師の調査では、手術を受けた女性は、合わせて少なくとも800人に上ると推定されています。当時のカルテなどはほとんど残されず、わずかな手がかりは医師たちの証言。

    (略)

    NHK
    https://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2018_0815.html


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    1: アルカリ性寝屋川市民 ★ 2018/06/01(金) 23:42:58.89 ID:CAP_USER9
     【モスクワ共同】ロシア落下傘部隊連盟のボストロティン会長は1日、旧ソ連によるアフガニスタン侵攻で1980年代にアフガン上空で撃墜された航空機に搭乗し、行方不明になった元飛行士の生存をアフガンで確認したと発表した。ロシアメディアが報じた。

     アフガン退役兵連盟によると、ソ連のアフガン侵攻従軍者にはさまざまな理由で現地に残った元兵士が多く「彼らにとってアフガンが新たな祖国で(ロシアに)戻ることはない」と説明した。

     79年に始まったソ連のアフガン侵攻では、89年の撤退完了までに125機のソ連軍機が撃墜されたとされる。


    共同通信 2018/6/1 22:39
    https://this.kiji.is/375277745648878689

    【【国際】アフガニスタンで元ソ連兵生存 80年代から行方不明 】の続きを読む

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    1: みつを ★ 2018/02/17(土) 18:46:33.88 ID:CAP_USER9

    2018.02.17 Sat posted at 11:30 JST
    (CNN) 冷戦時代にソビエト連邦が米国のスペースシャトルに対抗して製造した宇宙船「ブラン」は、わずか1度飛行した後に使用停止となった。当時、ソ連が進めていたブラン計画の遺物が、今もカザフスタンの草原に放置されている。

    現在、シャトル2機とロケット1機が使用されなくなった格納庫に保管されているが、一般公開はされていない。この格納庫はモスクワの南東約2400キロに位置するバイコヌール宇宙基地内にあり、近くにはブランの初飛行時に使用された発射台もある。

    スペースシャトルにそっくり?

    ロシア語で「吹雪」を意味するブランのデザインは、米国のスペースシャトルに酷似していた。それは決して偶然ではない。「ソ連はスペースシャトルと同等の最大積載量を求めていたため、スペースシャトルと似た寸法の宇宙船が必要だった」と語るのは、ソ連の宇宙開発の歴史を研究しているバート・ヘンドリックス氏だ。

    米航空宇宙局(NASA)が開発したスペースシャトルは、基本的に国防総省の依頼で大きな貨物を軌道まで運ぶ「宇宙トラック」だった。国防総省はスペースシャトルを使って複数の軍事衛星を配備する計画だった。

    「スペースシャトルがもたらす軍事的脅威を認識したソ連は、ブランの開発を決断した。米国がスペースシャトルを開発していなければ、ソ連がブランを開発することもなかった。ソ連にとってブランは軍拡競争の一環にすぎなかった」(ヘンドリックス氏)

    構造的な違い

    スペースシャトルとブランは全く同じというわけではない。外見は似ているが、一見しただけでは分からない大きな構造的違いがいくつかあった。第一に、スペースシャトルのオービターは宇宙を飛行するためのエンジンを備え、大型ロケットは燃料タンクとして使用していた。一方、ブランのオービターにエンジンはなく、エネルギアと呼ばれる、より大型の本格的なロケットに取り付けられているだけだった。しかし、これによりソ連は宇宙へのより柔軟な貨物輸送が可能になった。

    またブランには、非常時に脱出するための射出座席が乗員全員分備えられていたが、米国のスペースシャトルはこのような装置を備えていなかった。さらに、スペースシャトルには設計上の欠陥があり、それが原因でチャレンジャー(1986年)とコロンビア(2003年)の2機が飛行中に爆発する事故が起きたが、ブランには大規模な事故につながる欠陥はなかった。

    (略)

    CNN
    カザフスタンの倉庫に放置されたソ連の宇宙船「ブラン」
    no title

    1988年11月、バイコヌール基地から打ち上げられるブラン
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    30年分のほこりをかぶったブランだが、保存状態は良好だという
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    【【カザフスタン】忘れ去られたソ連版「スペースシャトル」、カザフの草原に眠る 】の続きを読む

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