かたすみ速報

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    タグ:ノモンハン事件

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    1: 蚤の市 ★ 2020/09/15(火) 15:45:51.43 ID:ZBAXR54I9

    nomonhan
     第2次世界大戦は、欧州ではなく極東アジア・モンゴルの草原で始まった――。日本と旧ソ連が衝突した1939年の“ノモンハン事件”について、こうした新たな見方が欧米で広がりつつある。歴史家らは、そこにソ連の独裁者、スターリンの思惑を見る。

     「ノモンハン事件は、規模としては主要な戦いとは言えない。しかしその影響は絶大だった」

     こう指摘する英国の著名な歴史作家、アントニー・ビーヴァー氏は、文筆活動の集大成といえる第2次大戦の通史を、ノモンハン事件から書き起こした。「それは、ユーラシア大陸の東と西を初めて結びつけた戦いだった。そして欧州戦線の分岐点となった独ソ戦の行方も左右した」と語る。

     モンゴル東部を流れるハルハ河の一帯には、80年余が過ぎた今も“大戦の発火点”と呼ぶべき跡が生々しく残されている。

     規則正しく並ぶ円形の壕(ごう)は、39年8月20日早朝、ソ連軍が日本の関東軍に総攻撃を仕掛ける際に物資を蓄えた拠点の跡だ。国境に近いこの周辺は現在も航空機の接近が禁じられているが、一帯の戦跡を継続的に調べている「ノモンハン事件日蒙共同調査団」(岡崎久弥団長)に対して2019年、ドローンによる撮影が認められた。

     欧州では当時、ポーランドに領土の割譲を求めるドイツのヒトラーと、対抗する英仏とが、それぞれソ連を味方にしようと激しい外交戦を繰り広げていた。その矢先、関東軍は東京・参謀本部の制止を振り切り、満州国軍警備隊とモンゴル軍騎兵部隊の国境をめぐる小競り合いを、モンゴルに駐留するソ連・機械化部隊との局地戦に広げた。

     スターリンは、欧州の戦乱から自国を当面は局外に置くためドイツと手を結ぶ一方、“背後の敵”日本をたたく決断を下す。それによりドイツは英仏と戦い、ソ連はドイツと日本からの挟み撃ちを回避できるという思惑に基づいていた。

     ソ連・モンゴル連合軍の司令官はゲオルギー・ジューコフ将軍。スターリンの指令を受け、周到な準備のもとで日本軍と満州国軍を圧倒的な物量で包囲し、壊滅的な打撃を加えた。1939年8月20日の総攻撃は2日間で大勢が決する。同23日に独ソは不可侵条約を締結。これには両国でポーランドを分割する密約があった。

     そしてドイツは9月1日、ポーランドへ侵攻。これが一般的な第2次大戦の始まりとされるが、ノモンハン事件はそこに至るまでの“流れ”の中にある。英仏は同3日、ドイツに宣戦布告。一方、ソ連もノモンハンで16日に日本と停戦を成立させると、17日にポーランドへ侵攻した。

     後に独ソ戦を勝利に導いて英雄となるジューコフが、最初に指揮した大規模な戦闘がノモンハン事件だった。8月20日の関東軍総攻撃の作戦図は、スターリングラード攻防戦で彼がドイツ軍を包囲・殲滅(せんめつ)した“天王星作戦”と酷似する。

     米国の歴史研究者で「ノモンハン 1939」の著者、スチュアート・ゴールドマン氏は「『第2次大戦の起源』という複雑なジグソーパズルで、ノモンハン事件は小さくはあるが、大切なピース。そのピースをはめると、全体の図柄が非常にわかりやすく見えてくる」と評した。


     関東軍はそうと知らずに第2次大戦のスイッチを押してしまったのか――。この問いにゴールドマン氏は「その通り」と答えた。「彼らは、4千マイルも離れた欧州の外交と自分たちがモンゴル国境でやっていることに関連があるとは思いもしなかったでしょう。しかし結果は重大でした」(天野みすず、編集委員・永井靖二)

    朝日新聞 2020年9月15日 15時00分
    https://www.asahi.com/articles/ASN9H2DZ2N99PLZU001.html

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    1: 右大臣・大ちゃん之弼 ★  2019/09/04(水) 23:01:01.28 ID:CAP_USER
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    【ウラジオストク=小野田雄一】1939年にモンゴル国境付近で旧ソ連軍と日本の関東軍が衝突したノモンハン事件から80年となったのに合わせ、ロシアのプーチン大統領は3日、モンゴルの首都ウランバートルを訪問し、同国のバトトルガ大統領と会談した。プーチン氏は会談後の記者会見で「ソ連軍とモンゴル軍は80年前、肩を並べて戦い、侵略者に手痛い反撃を与えた」と指摘。事件を日本による侵略とした上で、ロシアとモンゴルの共闘と友好関係を誇示した。

     近年のプーチン政権は、第二次大戦での対ドイツ戦と日ソ中立条約を破っての対日参戦を「ナチズムとの戦い」と一くくりにし、北方領土占拠の正当化を図る傾向を強めている。

     5日に露極東ウラジオストクで安倍晋三首相との日露首脳会談を控え、プーチン氏には、ノモンハン事件を日本による一方的な侵略と位置付けることで日本を牽制(けんせい)する狙いがありそうだ。

     露メディアによると、両首脳はウランバートルの宮殿内に設けられたモンゴルの伝統的な天幕家屋で会談した。

    モンゴルではノモンハン事件について「(モンゴルは)日ソ両国の犠牲になった」との解釈もあるが、プーチン氏は「ハルハ河会戦(事件の露側呼称)がソ連とモンゴルを結びつけた」と力説した。バトトルガ氏も「両国の友情の下でモンゴルの独立と主権を守った勝利は神聖なものだ。80年の節目にプーチン氏と会えたことは非常に喜ばしい」と述べた。

     両首脳は3日、恒久的な友好協力関係をうたった新たな基本条約に署名した。



    ■ノモンハン事件

     1939年5月、モンゴル国境付近で、旧ソ連の影響下にあったモンゴルと、日本の傀儡(かいらい)だった旧満州国の国境をめぐって起きた大規模戦闘。日本の関東軍は大本営の戦闘不拡大方針に反して攻勢をかけたが、モンゴルを支援したソ連軍の総攻撃を前に大敗を喫した。9月15日の停戦成立までに計4万人を超す死者が出たとされる。事件を機に日本では対ソ開戦論が後退し「南進論」が優勢になった。

    産経ニュース 2019.9.3 22:51
    https://www.sankei.com/world/news/190903/wor1909030025-n1.html


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