かたすみ速報

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    タグ:倭

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    1: 樽悶 ★ 2019/02/20(水) 16:57:58.72 ID:/A8AQsUn9
    福岡県糸島市の潤地頭給遺跡で出土した工作用の石鋸(上2点)と石製硯の未完成品(下)=柳田康雄さん提供
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    硯の製作遺物が確認された遺跡
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     弥生時代中期中ごろから後半(紀元前2世紀末~前1世紀)に石製の硯(すずり)を製作していたことを示す遺物が、北部九州の複数の遺跡にあったことが、柳田康雄・国学院大客員教授(考古学)の調査で明らかになった。国内初の事例。硯は文字を書くために使用したとみられ、文字が書かれた土器から従来は3世紀ごろとされてきた国内での文字使用開始が300~400年さかのぼる可能性を示す貴重な資料となる。

     硯の遺物が見つかったのは、潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡(福岡県糸島市)=前2世紀末▽中原遺跡(佐賀県唐津市=同▽東小田峯遺跡(福岡県筑前町)=前1世紀=の3遺跡。既に出土していた石製品を柳田客員教授が再調査したところ、末広がりになる形状の薄い板で、表が磨かれ裏が粗いままという硯の特徴を示しながら、仕上げがされずに破損したものがあり、未完成品だった。墨をつぶす研ぎ石の未完成品や、石材を擦って切断する道具・石鋸(いしのこ)も確認され、現地で硯が製作されたと判断した。

     中国での硯の使用開始は戦国時代末(前3世紀)で、前漢時代に長方形の板石製が普及し始める。日本の弥生時代の硯は北部九州を中心に近年相次いで確認され、文字の開始を早める資料として注目されたが、国産かどうかは不明で、古くても年代は1世紀ごろまでだった。今回はさらに100年以上早くなるうえ、中国の板石製とほぼ同年代に国産の硯が作られていたことになる。

     柳田客員教授は「倭人(わじん)(当時の日本人)が使っていたとしか言いようがない。硯は文字の需要があったから作った。地元産の石を用いた可能性がある。中国製を模倣しつつ独自の形状をしており、国産化する際にモデルがあったのでは」と話している。【大森顕浩】

    ■外交や交易で文字使ったか

     西谷正・九州大名誉教授(東アジア考古学)の話 弥生時代の文字文化の定着と広がりが想像以上に古かったことを意味している。硯が国産されていたことは、中国から流入した文字が日本に定着する過程を示す。外交や交易の際に文字が使われたのだろう。

    毎日新聞 2019年2月19日 20時58分(最終更新 2月19日 21時22分)
    https://mainichi.jp/articles/20190219/k00/00m/040/236000c

    【【古代】「倭人が使っていたとしか言いようがない」 北部九州に紀元前の硯製作跡 国内の文字使用開始、300年以上さかのぼる可能性 】の続きを読む

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    1: 親日@シコリアン ★ 2018/12/28(金) 14:40:43.07 ID:CAP_USER

    2018年12月26日、韓国の東亜日報は、朝鮮半島の遺跡で初めて、日本の古墳時代(3世紀中頃~7世紀頃)を代表する遺物、人物埴輪(はにわ)が出土したと報じた。

    記事によると、出土したのは全羅南道(チョルラナムド)咸平(ハムピョン)郡にある金山里(クムサンリ)方台形古墳(5世紀末~6世紀中頃。馬韓の支配層の墓と推定される)で、馬形埴輪1点も同時に見つかった。同古墳では2014年にも、鶏などをかたどった形象埴輪が出土している。

    人物埴輪の形は鳥取県で出土したものに類似しているといい、発掘調査を行っている全羅南道文化観光財団の全羅南道文化財研究所は「古代日韓関係史の研究における新たな契機になる」と評している。今回の出土の背景については「6世紀まで百済の勢力圏に吸収されることなく、朝鮮半島南部で独自の影響力を行使した馬韓の勢力が、活発に国際交流を行っていたことを示す痕跡だ」と説明している。

    また同研究所の所長は、古代朝鮮半島南部の「任那(みまな)」に日本の統治機関があったとする「任那日本府」説を日本の一部学界が主張していることにも触れた上で、「統治権力を示す遺物や古墳群などが見つかっておらず、考古学的証拠は皆無だ」とコメントしている。

    この他、今回は扁瓶や動物の形の土器も同時に出土しており、主に日本の4~5世紀の古墳で出土している土器「須恵器」の系列と確認されたという。朝鮮半島の土器とは明らかに形状が異なるといい、韓国伝統文化大学のソ・ヒョンジュ教授は「日本人が朝鮮半島に渡ってきて焼いたのか、日本で焼いた土器が持ち込まれたのかについては、さらなる究明が必要だ」と話している。

    この記事に、韓国のネットユーザーからは「朝鮮半島から日本に渡ったものが、日本で先に発掘されたのかもしれないのに、記事の書き方がちょっと問題では?」「こっちから文化が渡ったんだ」「古代の日韓交流が、朝鮮半島から日本へという一方向だけだったはずがない。当然、日本の文化も朝鮮半島に入ってきていただろう。朝鮮半島から日本へ行った渡来人がいたように、日本から来て定着した人々もいると思う」「その時代の朝鮮半島南部が、日本と密接な関係があったというのは、事実みたいだな」などの意見が寄せられている。また、「任那日本府は本当にあったということか?」というコメントも多く見られた。(翻訳・編集/麻江)

    Record china 配信日時:2018年12月28日(金) 6時0分 

    https://www.recordchina.co.jp/b674700-s0-c30-d0144.html 
    【【倭の支配下にあった証拠】新たな1ページ?韓国で初めて日本の人物埴輪(はにわ)が出土、韓国ネットも注目「こっちから文化が渡ったんだ」 】の続きを読む

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    1: 蚯蚓φ ★ 2018/07/18(水) 12:26:18.85 ID:CAP_USER
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    ▲古代国家 伽耶の歴史は、西暦400年高句麗広開土大王が朝鮮半島南部の伽耶と倭の兵を攻略したことを基点に、洛東江下流地域を中心に繁栄した前期伽耶(左図)と内陸地域を中心に繁栄した後期伽耶(右図)に区分される=慶尚南道提供//ハンギョレ新聞社 

     「今日の慶尚南道地域を中心に繁栄した古代国家伽耶は、首露王など六兄弟が建国した六つの小さな国々で構成され、互いに連盟を結び仲が良かったが、新羅に征服された」 

     これが伽耶に関する一般的常識だ。しかし、各種の研究成果を総合してみる時、これは歴史的事実とは全く距離が遠い。六つの国が兄弟のように仲良くしていたというのは『三国遺事』の記録のために作られた虚構に過ぎないというのが、伽耶関連研究成果の総合結論だ。 

     「慶尚南道伽耶古墳群世界遺産登載推進団」は16日、『伽耶史総論』『伽耶古墳群1』『伽耶古墳群2』の三巻で構成された『伽耶古墳群研究叢書』を出した。研究叢書は「伽耶史の時期区分と空間的範囲」「伽耶古墳群の形成過程と景観の特徴」「文献で見た伽耶の対外交流」など計25章で構成され、大学・博物館・研究院など20の機関の専門家25人が一章ずつ分けて執筆した。 
    (中略) 

     韓国と日本の歴史学界の長年の論争の種である「任那日本府」について研究叢書は、倭の王権が伽耶に派遣した外交使節と定義した。任那日本府は、咸安の阿羅国に長期滞留し伽耶王らと歩調を合わせて百済と新羅に対する外交活動に参加した。阿羅国の王は彼らを通じて倭を背後勢力として確保し、百済と新羅に対抗した。 

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    ▲慶尚南道咸安郡の伽耶邑で発見された阿羅伽耶王宮跡地と推定される遺跡。阿羅伽耶は後期伽耶の中心地であった=慶尚南道提供//ハンギョレ新聞社 

     伽耶古墳発掘の結果、伽耶は死んだ権力者のために従属関係にあった人を強制的に殺して一緒に埋葬する殉葬を3世紀末から6世紀中葉までしていたことが確認された。古代朝鮮半島南部の殉葬は、3世紀末に造成された金官伽耶の古墳である慶尚南道金海市大成洞(テソンドン)古墳で初めて確認された。新羅で殉葬が施行されたより早い時点だ。 

     6世紀に造成された大伽耶古墳の慶尚北道高霊郡芝山洞(チサンドン)44号墳では、40人余りの殉葬者が確認された。これは古代朝鮮半島で確認された最大規模の殉葬事例だ。 

     慶尚南道伽耶古墳群世界遺産登載推進団は「今回出した研究叢書は、伽耶古墳群世界遺産登載のための基礎資料として活用するために、最近の研究成果を集約し専門性を備えつつ一般教養書水準で整理したものだ。伽耶に関連した多くの研究成果を、初めて一堂に集め整理したという点に研究叢書の価値があると見る」と明らかにした。 

     だが、急いで出版したために、研究叢書は所々誤字が残り、筆者どうしが使う用語も一部統一できなかった。またそれぞれ異なる研究結果を提示するなどの問題点も抱えている。850ページを超える膨大な分量の学術書籍であるのに、索引が付いていないなど、物足りなさも残る。 

    ハンギョレ新聞<「古代国家 伽耶、6カ国でなく12カ国以上で構成」> 
    http://japan.hani.co.kr/arti/culture/31136.html
    【【韓国】「任那日本府、倭が阿羅伽耶に派遣した使節だった」~伽耶(カヤ)古墳群世界遺産登載推進団「研究叢書」発刊】の続きを読む

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    1: ダーさん@がんばらない ★ 2018/03/05(月) 10:19:07.28 ID:CAP_USER
    任那日本府は任那国史の名称が日本書紀の完成過程で改変されたと推定

    「温祚系百済と沸流系倭の軍事的比較で優れた朝鮮半島支配説は事実ではない」

    国内歴史学界や言論界は「任那日本府はない」という、防御的歴史観で一貫して発表するが、これは韓日間の正しい歴史を正しく解明できなかったせいで生まれたハプニングなのです。

    任那日本府説は、日帝京城帝国大学の日本人歴史学者であった末松保和が彼の本、任那興亡史でAD 4C~6Cに倭が韓半島南部の伽耶地方を統治したと一方的に主張する植民史観の一つの仮説です。

    しかし、AD 4C中葉、当時、遼西百済から近肖古王時代には温祚系百済勢力が沸流系勢力(倭)を制圧すると、彼らは韓半島に逃避するようになります。

    沸流系勢力が慶尚北道高霊を中心に任那伽耶をしばらく止めて抵抗して百済に敗れて、倭列島に逃げたわけで百済が政治的優位にあったのが実情でした。

    このため、当時温祚系百済が沸流系倭との軍事的比較で優れていたため、倭が韓半島に来て支配したという説は事実ではなくなります。

    逆に温祚系百済勢力が倭列島に追われた沸流系百済倭を監督管理するための政府機関として、任那国史(任那國司、桓檀古記)、日宮府(日宮府、日本書記)、任那之倭宰(任那之倭宰、続日本紀)などの名称が存続されました。

    韓国の記録には任那国史は対馬にあったとされています。百済が現地指導のために派遣した任那王と軍令城主の統制下、倭から派遣された将帥と外交使節が一緒にいた機関が間違いなく任那国史でした。

    百済武寧王が7年(507年)に倭を担当する政府部門として日宮府を設置して、日本書紀に武寧王の息子である純陀を倭国に君(君、現地総督)として派遣したという記録が出てきます。

    百済聖王時代(544年)には、任那伽耶地域に侵入する新羅真興王勢力を防ぐために慶尚南道咸安地域に設置した任那之倭宰の機関名が続日本期出てきます。

    百済軍令城主の統合指揮の下、百済軍と倭から派遣された兵士たちが合同で新羅軍を守る百済と倭の連合軍指揮司令部の性格を持つようになります。

    全般的に温祚系百済が沸流系倭国を支配するために任那伽耶地域(韓半島南部)、対馬、九州北部(大分県)などに倭国を統治するため、むしろ百済が主導して設置した監督管理官庁が任那日本府の正体だったのです。おそらく670年の日本建国の後、720年に日本書記が完成される過程において、任那国史などの名称が任那日本府に変更されたのではないかと推定されます。

    *筆者/ホンスンジュ。歴史学者。失われた韓国古代史研究会会長。成均館転校(歴史担当)。コラムニスト。

    ブレーキニュース 2018/03/02 [16:46](韓国語)
    http://breaknews.com/563418

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