かたすみ速報

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    タグ:倭

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    1: LingLing ★ 2022/05/11(水) 19:43:25.81 ID:CAP_USER
    [ペ・ジョンドクの歴史紀行]「任那日本府説」

    任那日本府説は、倭が4世紀中頃に伽耶地域を軍事的に征伐して「任那日本府」という統治機関を設置して、6世紀中頃まで韓半島南部を運営したという話にもならない学説だ。

    その始まりはシンゴン(神功、ジングウ)皇后だったという。そして、『日本書紀』に出てくる神功皇后は3世紀の人物だ。神功皇后の頃には、合間に韓地百済の王歴を挟み入れた。次は『日本書紀』『神功皇后記』に出てくる百済の王歴と『三国史記』に出てくる百済の王歴を比較したものである。

    『日本書紀』神功55年(CE255)百済のチョゴ(肖古)王が死んだ。 / 『三国史記』クンチョゴワン(近肖古王):CE375年王が死んだ。

    『日本書紀』神功56年(CE256)百済の王子キス(貴須)が王位についた。 / 『三国史記』クングスワン(近仇首王):CE375年王位についた。

    『日本書紀』神功64年(CE264)百済の貴須王が死んだ。王子枕流が王位についた.。/ 『三国史記』チムリュワン(枕流王):CE384年に即位した。

    『日本書紀』神功65年(CE265)百済チムリュワン(枕流王)が死んだ。叔父の辰斯が王位を奪って王になった。 / 『三国史記』チンサワン(辰斯王):枕流王の弟で、枕流王が死んだ時、太子が幼かったので叔父の辰斯が王位についた。(CE385年)

    百済の肖古王(在位CE165~214)と近肖古王(在位CE346~375)は全く別の人物だ。王子貴須(在位CE214~234)と近仇首王(在位CE375~384)も別の人物だ。枕流王(CE384)が即位したが、1年後に死んで、弟の辰斯王(在位CE385~392)が即位した事実だけが一致する。これも『日本書紀』と『三国史記』の該当年度は120年の差異がある。

    日本の学者たちは、肖古王と近肖古王、王子貴須と近仇首王を同様の人物と断定する。ここには何ら適当な根拠もない。名前が似ているから、同じ人物とみなすべきということだ。そして、神功皇后の頃に起こった出来事を、どれも120年ずつ遅らせて適用しなければならないと主張する。いわゆる「120年二周甲説」の適用だ。

    なぜなら、二周甲説を適用してこそ、4世紀中頃から始まったという任那日本府説を取り付けられる根拠を都合することが出来るからだ。日本の学者たちは、この120年二周甲説の適用を主張して、CE369年からCE562年までの約200年間、倭が韓半島南部地域を支配したという「任那日本府説」を連結している。

    広開土太王碑文の記録から、広開土太王が日本列島を焦土化した時期がCE396年とCE400年だ。また、宋書に出てくる記録を見れば、倭5王が宋国に使臣を送った時期がCE421~479年だ。この時は倭国に百済のタムロ(檐魯)があった時期であって、倭5王は百済の主タムロの王たちだった。広開土太王の日本列島侵攻時期と倭国五王の宋国朝貢記録などを見ると、CE369年から約200年間の「任那日本府説」は、いくら結びつけようとしてもできない事件だ。

    このようなことを勘案すれば、神功皇后の頃から120年二周甲説を適用するのは時期的に合わない。仮に、神功皇后が実際の人物だったとすれば、CE201~268年の期間中に大和倭朝廷が九州にいた百済分局のクダラと力を合わせて、九州にいたまた他の韓人たちの分局と戦争を行った記録と見るべきだ。

    日本の学者たちが主張してきた「120年二周甲」説の適用は全て適用できるものでもない。第21代雄略の代に至っては、年度の差異なく元に戻っている。日本の学者たちは「任那日本府説」を主張するために、神功皇后の年代を120年遅らせるべきだと張したが、120年遅らせてみても、広開土大王の日本列島侵攻時期と宋書に出てくる倭5王の朝貢記録は、任那日本府説と時期的に合わないのだ。

    ペ・ジョンドク歴史コラムニスト

    蔚山第一日報(韓国語)
    http://www.ujeil.com/news/articleView.html?idxno=303426

    【【嘘つく韓国】「任那日本府説」 倭が4世紀中頃に伽耶地域を軍事的に征伐…話にもならない学説だ】の続きを読む

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    1: 蚯蚓φ ★ 2021/08/24(火) 21:20:05.31 ID:CAP_USER
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    ▲1991年、長鼓(チャンゴ)墳で初めて内部構造を明らかにした全南咸平新徳古墳。典型的な日本式古墳(長鼓墳あるいは前方後円墳)と分かって学界の関心を集めた。しかし発掘調査報告書は出なかった。|国立光州博物館提供

    「いやこれは…。」 1991年3月26日、全南(チョンナム)咸平(ハムピョン)新徳古墳を調べた国立光州(クァンジュ)博物館調査チームは目の前に繰り広げられた光景に話す言葉を失ってしまった。古墳の原形部西側に盗掘口が見えたのだ。さらにこの盗掘口はわずか数日前に作られた跡が明らかだった。
    (中略:盗掘犯は2年半後に逮捕。以下長文につき、日本関連のみ抄訳。元記事に出土物など写真多数)

    国立光州博物館などは4月から40日以上、本格発掘を行った。発掘が終わると学術資料蓄積のために通常は発掘調査報告書を出す。ところが、同博物館は苦心の末、新徳古墳発掘報告書をださないことにする。行政報告書を作っただけだ。なぜこんなことが起きたのか。新徳古墳が初めて公式に調査されたいわゆる長鼓墳だったからだ。

    日本では「前方後円墳」という。「前は四角(前方) 後ろは丸(後円)」の形から名付けられた墓(墳)だ。韓国では「長鼓(チャンゴ)」に似ているとして「長鼓墳」という。西暦3世紀中葉~6世紀後半にかけて日本で流行し、日本全域に2000基以上分布している。日本古代国家形成期の日王墓は全部この形だ。最も有名な長鼓墳は399年に死亡したニントク(仁徳)日王の墓だ。

    新徳古墳が初めてではない。日帝強占期に日本の学者が、その後も1972年に韓国の学者二人が「忠南扶余に長鼓墳がある」と主張した。韓国考古学界は蜂の巣を突付いたように沸き立った。緊急文化財委員会が招集されて二人の発表を聴取した。しかし、文化財委員の反応は冷たかった。雲をつかむような話だけに発掘調査する必要はない、と一蹴した。

    その12年後、1983年6月、カン・イング嶺南大教授がさらに一歩出る。「慶南固城(コソン)などと、全南羅州・霊岩・務安・咸平など様々な場所に長鼓墳が見える」と主張したのだ。国内学界では特に注目しなかった。もちろんカン教授は「‘前方後円墳’(長鼓墳)は日本の固有墓ではなく、韓半島から渡って発展したもの」と主張した。国内学界は特別な反応を見せなかった。

    日本学界は二つに分かれた。元老学者は主に日王家系で神聖視される墓の形態が韓半島に存在するはずがないと首を横に振った。しかし「韓半島長鼓墳」を任那日本府と連結する人々が現われた。一部は長鼓墳が特に固城など伽耶地域で確認されるというカン教授の主張に興奮した。それこそ任那日本府の決定的な証拠ではないか。

    そのような状況でもう一つの長鼓墳として知られた新徳古墳が初めて正式発掘された。果たして日本の古墳形式という長鼓墳だった。墓内部にも日本色が見えた。天井と4壁、扉の内側は全部朱漆がされていた。赤く塗られていたという事だ。出土した大型刃物は取っ手の穴が船山古墳(熊本県)の遺物と類似の形だ。墓では武寧王陵で使われたコウヤマキ製の棺の跡が見えた。金銅冠と金銅履き物の破片も数点出土した。

    このような状況で報告書をだしても日本の学界に利用されるだけではないか。実際、1994年5月20日の日本朝日新聞1面主要記事で「韓国光州の明花洞(ミョンファドン)古墳で前方後円墳に似た古墳が発掘された。日本文化もまた韓半島に流入したことを立証する」と報道している。

    朝日新聞の記事が報道された翌日(21日)、明花洞古墳を発掘した国立光州博物館に大統領府教育文化首席が電話してきて「私たちがあちら(日本)の支配を受けたという事か?何か対策が必要ではないか」と注文したのだ。当時は日本の近・現代史歪曲のために死にそうな時だった。

    イ・キファン京郷新聞選任記者

    京郷新聞(韓国語)
    https://m.khan.co.kr/culture/culture-general/article/202108240500001

    【【韓国】 30年前「隠蔽」された日本式古墳「長鼓墳(前方後円墳)」…もう話せる】の続きを読む

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    1: LingLing ★ 2021/08/13(金) 20:20:16.51 ID:CAP_USER
    「単独」 30年ぶりに任那日本府の亡霊から脱した新徳古墳
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    「咸平新徳1号墳は、倭人ではなく地域首長墓の可能性が高い」
    ●30年未公開発掘調査の結果、今月末に発表
    任那日本府説に利用される恐れから、30年間公開されることがなかった三国時代「新徳1号墳」の発掘調査結果が今月末に発表される。東亜日報が事前入手した発掘調査報告書によると、古墳出土遺物からは百済と倭の文化が混在した様相が確認された。調査結果を分析した韓日考古学者らは、20、30代の男性と推定されるこの墓の主人を、地域の首長である可能性が高いという結論を下した。これは、韓半島に進出した倭人が埋められたという任那日本府説の見方と反するものだ。

    1991年3月、盗掘の痕跡が発見され、初めて調査が行われた新徳1号墳は、日本の古代墓でよく発見される鍵穴模様の典型的な前方後円墳(前方は四角く、後方は丸い封墳を持つ墓)だ。新徳1号墳は、このような封墳の形のため、古代日本が韓半島南部を支配したという任那日本府説の根拠に使われる可能性があるという憂慮が提起された。しかし、調査の結果、副葬遺物から百済と倭文化が混合されていて、彼らと交流した栄山江一帯の支配勢力が墓を作った可能性が大きいと分析された。

    ●墓の主人は20、30代男性
    国立光州博物館が日本の研究者たちまで立ち合わせた「新徳1号墳発掘調査報告書」を電撃発刊することにしたのは、6世紀の栄山江一帯の支配勢力の独自性が見える多様な考古学証拠が最近発見されたことによるものだ。任那日本府説の限界が明らかになったということだ。先立って、博物館はこの墓を1991年から2000年まで4回調査したが、当時は調査結果を公開してなかった。キム・ナクチュン全北大教授(考古学)は、「6世紀前葉、栄山江流域の現地勢力が重要な役割を果たした事実が明らかになって、任那日本府説によって歪曲解釈される余地が減った。新徳1号墳発掘調査報告書の発刊に日本の学者たちまで立ち合わせたのは、国内学界の自信感が反映された結果」と話した。

    報告書によると、神徳1号墳からは、墓の主の高い身分を示す金銅冠、金銅飾履、練理文玉、重層ガラス玉、大刀、鎧、兜、青銅雲珠などの様々な副葬品が出土した。墓から出土した歯6点の大きさと摩耗程度を分析した結果、20代後半から30代半ばの男性が埋められたものと推定された。

    キム・サンウン記者

    東亜日報(韓国語)
    https://news.naver.com/main/read.naver?mode=LSD&mid=sec&sid1=103&oid=020&aid=0003375015

    【【韓国】 30年ぶりに任那日本府の亡霊から脱した新徳古墳…地域の首長が埋められた可能性高く、副葬遺物には百済と倭の要素】の続きを読む

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    1: 樽悶 ★ 2021/08/02(月) 22:34:00.47 ID:kJ7ttiNV9
    富を蓄えた北部九州に対抗するために、三世紀初頭の奈良盆地に人びとが集結し、ヤマト勢力が出現した。邪馬台国の卑弥呼は、勃興する強敵・ヤマト勢力に対抗するために、策を講じる――。邪馬台国こそ日本列島を代表する「ヤマト」である――卑弥呼は魏に対して嘘の報告をしたのだ。

    ■倭人の王の外交デビュー

    『漢書』地理志(一世紀ごろ成立)に、弥生時代の日本の様子が記されている。

    ※省略

    このころ、朝鮮半島南部の鉄を取りに、穢(わい)・倭・馬韓の人びとが群がっていたとあり、奴国の海人たちも、こぞって進出していたのだろう。そして、富を蓄えた上での、朝貢ということになる。

    ※省略

    改めて確認しておくが、ヤマトの纒向(まきむく)に人びとが集まりはじめたのは3世紀初頭のことで、ヤマトが国の中心となったのは、3世紀半ばから4世紀にかけてのことだ(絶対年代は確定していない。幅がある)。また、邪馬台国がヤマトと同一かどうかは、ハッキリわかっていない。

    邪馬台国は2世紀後半から3世紀にかけて日本のどこかに存在した倭国の首都だ。邪馬台国は倭国の王が住む国で、卑弥呼と台与(とよ=壱与〔いよ〕)の2人の女王が立てられたが、この間にも中国では、動乱が続き、勢力図はめまぐるしく変化していった。

    西暦265年に、魏は晋(西晋)に変わり、280年に南方の呉が滅び、晋が国土を統一すると、翌年11月、倭人が来朝し、方物を献上している。王の名は記されていないが、卑弥呼の宗女・台与と思われる。

    邪馬台国の2人の女王は、『日本書紀』に登場せず、中国側の史料に現れるだけだ。しかも台与は、このあと歴史からフェイドアウトしてしまう。行方がわからないのだ。ここにも大きな謎が隠されている。

    倭国は北部九州と考えた方が理にかなっている。拙著『ヤマト王権と古代史十大事件』(PHP文庫)の中で述べたように、邪馬台国は北部九州の山門県(やまとのあがた:福岡県みやま市)にあったと思う。

    奈良盆地にヤマトが出現したのは、富を蓄えた北部九州に対抗するためで、多くの人びとがヤマトに集結した。逆に窮地に立たされた北部九州は、朝鮮半島に進出してきた魏に、すばやく使者を送り、「われわれが日本列島を代表する邪馬台国(ヤマト)」と偽りの報告をして、卑弥呼は「親魏倭王」の称号を獲得してしまったのだろう。

    江戸時代に本居宣長が唱えた「邪馬台国偽僭(ぎせん)説」の考えに近い。本居宣長は、「天皇が中国にへりくだるはずがない」という発想から偽僭説を思い浮かべたが、そうではなく、虎の威を借りることで、ヤマトを牽制する目的があったのだろう。親魏倭王のヒミコを倒せば、ヤマトは魏の敵になる。

    また、この時北部九州は一枚岩ではなく、沿岸部の奴国と西隣の伊都国(いとこく・福岡県糸島市と福岡市西区の旧怡土郡)は、それぞれがヤマトと邪馬台国、別々の勢力と通じていたと思われる。

    奴国はヤマトと手を組み、伊都国は邪馬台国と魏の間をとりもったのだろう。考古学は三世紀初頭にヤマトや山陰勢力が奴国周辺に押しかけていたことを突きとめているが、奴国はヤマトを北部九州に誘い入れた人たちだ。

    ※省略

    北部九州は朝鮮半島の鉄を大量に入手することで栄えた。もちろん、鉄の代償となる何かを輸出していただろう。

    つまり、この記事にある行程は、邪馬台国と朝鮮半島をつなぐ最大のルートだったはずで、それにもかかわらず、交易の道が「本当に歩けるのか」と訝しむほどであるはずがない。ここに大きな意味が隠されている。

    伊都国と奴国は、「海の道」の終着点となる天然の良港を備えていたから栄えたのだ。とすれば、末盧国から伊都国まで魏の使者を歩かさなければならない特別な理由があったと考えねばならない。

    答えは簡単だと思う。邪馬台国と伊都国は、ヤマトに通じていた奴国に、魏の使者の到来を悟られてはならなかったのだろう。奴国は海人の国でもあり、奴国の海人たちは伊都国や末盧国の近辺を普段から船に乗って往来していただろう。だから、魏の使者を船に乗せて末盧国から伊都国に連れて来れば、見つかってしまう恐れもあったのだ。

    ならばこのあと、ヤマトと邪馬台国の関係はどうなったのだろう。

    ※省略

    ただ、勝利を収めたのはヤマトだったこと、邪馬台国にしろヤマト建国にしろ、九州を中心とした海人たちが暗躍し、鍵を握っていたということは間違いない。(続きはソース)

    関裕二(歴史作家)

    7/31(土) 11:52配信 ヤフーニュース
    https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20210731-00010000-php_s-bus_all


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    1: LingLing ★ 2021/07/12(月) 06:54:00.08 ID:CAP_USER
    瑞山市第12回七支刀刀匠工追慕文化祭開催

    百済の神剣七支刀と刀匠工を追慕するための民主導型村祝祭
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    ▲忠清南道(チュンチョンナムド)瑞山市地谷面(チゴクミョン)桃星里(トソンリ)の地域住民たちが、七支刀刀匠工追慕文化祭を開催している。
    =プレシアン(ペク・スンイル)

    第12回七支刀刀匠工追慕文化祭が、忠清南道瑞山市地谷面桃星里3区の公民館で11日、開催された。

    この日の行事は、百済の神剣・七支刀と刀匠工を追慕するため、地谷面桃星里の地域住民たちが、七支刀文化祭推進委員会(委員長 パク・ジョンソプ)を作って、毎年開催してきている民主導型文化行事だ。

    七支刀は日本の国宝で、日本奈良県天理市の石上神宮で所蔵される百済時代の鉄製枝形の刀だ。

    全長74.9㎝で刀身は66.5㎝で、製作時期は百済近肖古王時代と推定している。

    パク・ジョンソプ委員長は、「七支刀と刀匠工文化行事は、桃星里(トソンリ)地域だけの文化コンテンツではなく、瑞山市全体の行事として開催するべきだ」と話した。

    石南洞(ソンナムドン)に住むチェさんは、「前回の民選6期市長の時は七支刀関連の学術セミナーなども開催していたが、民選7期に入って文化財団まで作られたにもかかわらず、一度も開催されたことがない」とし、「いったい瑞山市や瑞山文化財団は、何のせいで、このような貴重な文化コンテンツをおろそかにしているのか分からない」と叱咤した。

    プレシアン(韓国語)
    https://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=102&oid=002&aid=0002199215


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    1: 蚯蚓φ ★ 2020/02/06(木) 00:06:44.35 ID:CAP_USER
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    ▲広開土大王水軍対馬上陸を主張したナム・チャンヒ仁荷(インハ)大政治外交学科教授

    仁荷(インハ)大は韓日葛藤をそそのかす日本右翼勢力の歪曲された歴史観を無力化する重大学説を政治外交学科ナム・チャンヒ教授が提示したと発表した。広開土大王の水軍が対馬に上陸した可能性が70%以上という政治-軍事シミュレーションゲーム(PolMil game)の結果を公開した。

    研究結果は『韓日関係2千年-和解の糸口』という本を通じてすでに学界に報告されている。高句麗水軍渡海作戦の歴史的事実が明らかになれば、韓日関係で癌になっている様な要素も同時に除けるとナム教授は主張する。

    壬辰倭乱から1910年韓国強勢占領まで日本の韓半島侵奪の思想的根拠は古代歴史書『日本書紀』の任那日本府説だったという。伝説の神功皇后が新羅を征伐して古代4世紀末から200年間設置したという任那日本府は韓半島侵略の名分になった。古代に日本の影響圏下にあったので1910年強制併合は本来の状態に戻ったに過ぎないというのが朝鮮総督府植民史観の核心論理であった。

    満州集安市の好太王碑渡海遠征の文面も日本軍参謀本部が恣意的に解釈したという容疑が絶えなかった。400年前後に高句麗水軍が対馬の倭軍前進基地を攻撃したとすれば論理的に慶尚道(キョンサンド)に任那日本府は立つ場所がなくなる。軍事強国高句麗がかまえる韓半島に日本勢力が割り込む余地がないからだ。

    このように任那日本府説と広開土大王水軍の対馬上陸説は両立できない競合学説という。

    ナム教授が提示した高句麗水軍渡海説の根拠は三つだ。最初に、好太王碑に400年新羅を困らせ、背を向けて後退する倭軍を高句麗軍が任那加羅まで追撃したという内容が出てくる。『日本書紀』崇神天皇65年条に任那加羅の位置を示す明確な記録が出てくる。福岡から北側の海2千里に任那があるという。

    中国史書『三国志』魏志東夷伝に福岡から海路2千里に対馬があるとある。中国と日本の資料を総合すれば任那加羅は対馬を意味する。

    また『日本書紀』に任那の北側は海で阻まれているという記録もある。任那は韓半島の地名ではなく大韓海峡の島という事だ。さらに任那は慶州から航路で西南方向であるが、古代に対馬に行く港である巨済島(コジェド)は慶州と見る時、西南方向が合う。
    (2番目と3番目は>>2-5あたり)

    今回の研究結果が日本学界に紹介されれば悪化の一途の韓日関係を復元する契機になるだろうと学界は展望する。徴用工賠償問題で輸出規制という無理を強いた安倍政権の背後に右翼団体日本会議があることは良く知られている。同団体の韓半島に対する時代錯誤的な優越意識の根元には『日本書紀』の任那日本府説がかくれている。

    古代韓国が卑屈に朝貢を捧げる諸侯国という歪曲された歴史認識は日本政界の誤った韓国観と不可分の関係という。歴史歪曲の出発点を訂正することが退行的な日本の右翼勢力復活を遮断する特効薬になるという診断だ。

    ナム教授は任那日本府説だけ除去されれば韓日両国は本当に和解できる基礎ができると話す。さらに進んで北朝鮮核問題を含めて両国が協力しながら東北アジア平和繁栄の主役になることができる潜在力を生かすことができると指摘する。

    教授新聞(韓国語) 
    https://www.kyosu.net/news/articleView.html?idxno=47687

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    1: 樽悶 ★ 2019/02/20(水) 16:57:58.72 ID:/A8AQsUn9
    福岡県糸島市の潤地頭給遺跡で出土した工作用の石鋸(上2点)と石製硯の未完成品(下)=柳田康雄さん提供
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    硯の製作遺物が確認された遺跡
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     弥生時代中期中ごろから後半(紀元前2世紀末~前1世紀)に石製の硯(すずり)を製作していたことを示す遺物が、北部九州の複数の遺跡にあったことが、柳田康雄・国学院大客員教授(考古学)の調査で明らかになった。国内初の事例。硯は文字を書くために使用したとみられ、文字が書かれた土器から従来は3世紀ごろとされてきた国内での文字使用開始が300~400年さかのぼる可能性を示す貴重な資料となる。

     硯の遺物が見つかったのは、潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡(福岡県糸島市)=前2世紀末▽中原遺跡(佐賀県唐津市=同▽東小田峯遺跡(福岡県筑前町)=前1世紀=の3遺跡。既に出土していた石製品を柳田客員教授が再調査したところ、末広がりになる形状の薄い板で、表が磨かれ裏が粗いままという硯の特徴を示しながら、仕上げがされずに破損したものがあり、未完成品だった。墨をつぶす研ぎ石の未完成品や、石材を擦って切断する道具・石鋸(いしのこ)も確認され、現地で硯が製作されたと判断した。

     中国での硯の使用開始は戦国時代末(前3世紀)で、前漢時代に長方形の板石製が普及し始める。日本の弥生時代の硯は北部九州を中心に近年相次いで確認され、文字の開始を早める資料として注目されたが、国産かどうかは不明で、古くても年代は1世紀ごろまでだった。今回はさらに100年以上早くなるうえ、中国の板石製とほぼ同年代に国産の硯が作られていたことになる。

     柳田客員教授は「倭人(わじん)(当時の日本人)が使っていたとしか言いようがない。硯は文字の需要があったから作った。地元産の石を用いた可能性がある。中国製を模倣しつつ独自の形状をしており、国産化する際にモデルがあったのでは」と話している。【大森顕浩】

    ■外交や交易で文字使ったか

     西谷正・九州大名誉教授(東アジア考古学)の話 弥生時代の文字文化の定着と広がりが想像以上に古かったことを意味している。硯が国産されていたことは、中国から流入した文字が日本に定着する過程を示す。外交や交易の際に文字が使われたのだろう。

    毎日新聞 2019年2月19日 20時58分(最終更新 2月19日 21時22分)
    https://mainichi.jp/articles/20190219/k00/00m/040/236000c

    【【古代】「倭人が使っていたとしか言いようがない」 北部九州に紀元前の硯製作跡 国内の文字使用開始、300年以上さかのぼる可能性 】の続きを読む

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    1: 親日@シコリアン ★ 2018/12/28(金) 14:40:43.07 ID:CAP_USER

    2018年12月26日、韓国の東亜日報は、朝鮮半島の遺跡で初めて、日本の古墳時代(3世紀中頃~7世紀頃)を代表する遺物、人物埴輪(はにわ)が出土したと報じた。

    記事によると、出土したのは全羅南道(チョルラナムド)咸平(ハムピョン)郡にある金山里(クムサンリ)方台形古墳(5世紀末~6世紀中頃。馬韓の支配層の墓と推定される)で、馬形埴輪1点も同時に見つかった。同古墳では2014年にも、鶏などをかたどった形象埴輪が出土している。

    人物埴輪の形は鳥取県で出土したものに類似しているといい、発掘調査を行っている全羅南道文化観光財団の全羅南道文化財研究所は「古代日韓関係史の研究における新たな契機になる」と評している。今回の出土の背景については「6世紀まで百済の勢力圏に吸収されることなく、朝鮮半島南部で独自の影響力を行使した馬韓の勢力が、活発に国際交流を行っていたことを示す痕跡だ」と説明している。

    また同研究所の所長は、古代朝鮮半島南部の「任那(みまな)」に日本の統治機関があったとする「任那日本府」説を日本の一部学界が主張していることにも触れた上で、「統治権力を示す遺物や古墳群などが見つかっておらず、考古学的証拠は皆無だ」とコメントしている。

    この他、今回は扁瓶や動物の形の土器も同時に出土しており、主に日本の4~5世紀の古墳で出土している土器「須恵器」の系列と確認されたという。朝鮮半島の土器とは明らかに形状が異なるといい、韓国伝統文化大学のソ・ヒョンジュ教授は「日本人が朝鮮半島に渡ってきて焼いたのか、日本で焼いた土器が持ち込まれたのかについては、さらなる究明が必要だ」と話している。

    この記事に、韓国のネットユーザーからは「朝鮮半島から日本に渡ったものが、日本で先に発掘されたのかもしれないのに、記事の書き方がちょっと問題では?」「こっちから文化が渡ったんだ」「古代の日韓交流が、朝鮮半島から日本へという一方向だけだったはずがない。当然、日本の文化も朝鮮半島に入ってきていただろう。朝鮮半島から日本へ行った渡来人がいたように、日本から来て定着した人々もいると思う」「その時代の朝鮮半島南部が、日本と密接な関係があったというのは、事実みたいだな」などの意見が寄せられている。また、「任那日本府は本当にあったということか?」というコメントも多く見られた。(翻訳・編集/麻江)

    Record china 配信日時:2018年12月28日(金) 6時0分 

    https://www.recordchina.co.jp/b674700-s0-c30-d0144.html 
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    1: 蚯蚓φ ★ 2018/07/18(水) 12:26:18.85 ID:CAP_USER
    no title

    ▲古代国家 伽耶の歴史は、西暦400年高句麗広開土大王が朝鮮半島南部の伽耶と倭の兵を攻略したことを基点に、洛東江下流地域を中心に繁栄した前期伽耶(左図)と内陸地域を中心に繁栄した後期伽耶(右図)に区分される=慶尚南道提供//ハンギョレ新聞社 

     「今日の慶尚南道地域を中心に繁栄した古代国家伽耶は、首露王など六兄弟が建国した六つの小さな国々で構成され、互いに連盟を結び仲が良かったが、新羅に征服された」 

     これが伽耶に関する一般的常識だ。しかし、各種の研究成果を総合してみる時、これは歴史的事実とは全く距離が遠い。六つの国が兄弟のように仲良くしていたというのは『三国遺事』の記録のために作られた虚構に過ぎないというのが、伽耶関連研究成果の総合結論だ。 

     「慶尚南道伽耶古墳群世界遺産登載推進団」は16日、『伽耶史総論』『伽耶古墳群1』『伽耶古墳群2』の三巻で構成された『伽耶古墳群研究叢書』を出した。研究叢書は「伽耶史の時期区分と空間的範囲」「伽耶古墳群の形成過程と景観の特徴」「文献で見た伽耶の対外交流」など計25章で構成され、大学・博物館・研究院など20の機関の専門家25人が一章ずつ分けて執筆した。 
    (中略) 

     韓国と日本の歴史学界の長年の論争の種である「任那日本府」について研究叢書は、倭の王権が伽耶に派遣した外交使節と定義した。任那日本府は、咸安の阿羅国に長期滞留し伽耶王らと歩調を合わせて百済と新羅に対する外交活動に参加した。阿羅国の王は彼らを通じて倭を背後勢力として確保し、百済と新羅に対抗した。 

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    ▲慶尚南道咸安郡の伽耶邑で発見された阿羅伽耶王宮跡地と推定される遺跡。阿羅伽耶は後期伽耶の中心地であった=慶尚南道提供//ハンギョレ新聞社 

     伽耶古墳発掘の結果、伽耶は死んだ権力者のために従属関係にあった人を強制的に殺して一緒に埋葬する殉葬を3世紀末から6世紀中葉までしていたことが確認された。古代朝鮮半島南部の殉葬は、3世紀末に造成された金官伽耶の古墳である慶尚南道金海市大成洞(テソンドン)古墳で初めて確認された。新羅で殉葬が施行されたより早い時点だ。 

     6世紀に造成された大伽耶古墳の慶尚北道高霊郡芝山洞(チサンドン)44号墳では、40人余りの殉葬者が確認された。これは古代朝鮮半島で確認された最大規模の殉葬事例だ。 

     慶尚南道伽耶古墳群世界遺産登載推進団は「今回出した研究叢書は、伽耶古墳群世界遺産登載のための基礎資料として活用するために、最近の研究成果を集約し専門性を備えつつ一般教養書水準で整理したものだ。伽耶に関連した多くの研究成果を、初めて一堂に集め整理したという点に研究叢書の価値があると見る」と明らかにした。 

     だが、急いで出版したために、研究叢書は所々誤字が残り、筆者どうしが使う用語も一部統一できなかった。またそれぞれ異なる研究結果を提示するなどの問題点も抱えている。850ページを超える膨大な分量の学術書籍であるのに、索引が付いていないなど、物足りなさも残る。 

    ハンギョレ新聞<「古代国家 伽耶、6カ国でなく12カ国以上で構成」> 
    http://japan.hani.co.kr/arti/culture/31136.html
    【【韓国】「任那日本府、倭が阿羅伽耶に派遣した使節だった」~伽耶(カヤ)古墳群世界遺産登載推進団「研究叢書」発刊】の続きを読む

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    1: ダーさん@がんばらない ★ 2018/03/05(月) 10:19:07.28 ID:CAP_USER
    任那日本府は任那国史の名称が日本書紀の完成過程で改変されたと推定

    「温祚系百済と沸流系倭の軍事的比較で優れた朝鮮半島支配説は事実ではない」

    国内歴史学界や言論界は「任那日本府はない」という、防御的歴史観で一貫して発表するが、これは韓日間の正しい歴史を正しく解明できなかったせいで生まれたハプニングなのです。

    任那日本府説は、日帝京城帝国大学の日本人歴史学者であった末松保和が彼の本、任那興亡史でAD 4C~6Cに倭が韓半島南部の伽耶地方を統治したと一方的に主張する植民史観の一つの仮説です。

    しかし、AD 4C中葉、当時、遼西百済から近肖古王時代には温祚系百済勢力が沸流系勢力(倭)を制圧すると、彼らは韓半島に逃避するようになります。

    沸流系勢力が慶尚北道高霊を中心に任那伽耶をしばらく止めて抵抗して百済に敗れて、倭列島に逃げたわけで百済が政治的優位にあったのが実情でした。

    このため、当時温祚系百済が沸流系倭との軍事的比較で優れていたため、倭が韓半島に来て支配したという説は事実ではなくなります。

    逆に温祚系百済勢力が倭列島に追われた沸流系百済倭を監督管理するための政府機関として、任那国史(任那國司、桓檀古記)、日宮府(日宮府、日本書記)、任那之倭宰(任那之倭宰、続日本紀)などの名称が存続されました。

    韓国の記録には任那国史は対馬にあったとされています。百済が現地指導のために派遣した任那王と軍令城主の統制下、倭から派遣された将帥と外交使節が一緒にいた機関が間違いなく任那国史でした。

    百済武寧王が7年(507年)に倭を担当する政府部門として日宮府を設置して、日本書紀に武寧王の息子である純陀を倭国に君(君、現地総督)として派遣したという記録が出てきます。

    百済聖王時代(544年)には、任那伽耶地域に侵入する新羅真興王勢力を防ぐために慶尚南道咸安地域に設置した任那之倭宰の機関名が続日本期出てきます。

    百済軍令城主の統合指揮の下、百済軍と倭から派遣された兵士たちが合同で新羅軍を守る百済と倭の連合軍指揮司令部の性格を持つようになります。

    全般的に温祚系百済が沸流系倭国を支配するために任那伽耶地域(韓半島南部)、対馬、九州北部(大分県)などに倭国を統治するため、むしろ百済が主導して設置した監督管理官庁が任那日本府の正体だったのです。おそらく670年の日本建国の後、720年に日本書記が完成される過程において、任那国史などの名称が任那日本府に変更されたのではないかと推定されます。

    *筆者/ホンスンジュ。歴史学者。失われた韓国古代史研究会会長。成均館転校(歴史担当)。コラムニスト。

    ブレーキニュース 2018/03/02 [16:46](韓国語)
    http://breaknews.com/563418

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