かたすみ速報

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    タグ:大和朝廷

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    1: 新種のホケモン ★ 2022/12/04(日) 11:47:15.29 ID:iQzIj7Us
    韓国の皆さんはなぜか日本に古代朝鮮半島の影響を見るのが好きです。

    しかし、その多くは想像や願望で、時にウソをついてまで牽強付会に持論を展開します。

    韓国メディア『釜山日報』にものすごい記事が出ています。

    チェ・インホという韓国の小説家の妄想小説『第4の帝国』(2006年10月01日刊行)を基にした記事です。まず、その冒頭部分を引いてみます。


    「5世紀前半に伽倻の人が大和第2王朝『河内王朝』建てた」

    伽倻かやのことを言うのになぜ日本の三王朝交代説なのか。

    400年、高句麗南攻で金官伽耶が潰滅に近い打撃を受けながら、そのエリート層と流民の大きな流れが日本列島に移った。

    彼らが三王朝交代説とつながるということだ。

    要するに伽倻と関連する時、日本三王朝交代説は「日王(天皇:引用者注)の朝鮮半島出身説」と関連するということであり、伽倻系が日王になったという強力な主張がそれだ。

    それだけでなく、伽倻系に続いて後に百済系も日王になったという。
    (後略)

    ⇒参照・引用元:『釜山日報』「5世紀前半伽倻界、大和第2王朝『河内王朝』建てた」


    このチェ・インホさんは、韓国では有名な小説家で『失われた王国』『帝王の門』『海神』といった歴史を題材にとった著作があります。

    この人が『第4の帝国』という小説を出しているのですが、これがまあなんというか、穏やかにいっても噴飯物という内容です。この記事はそれを引いているのです。

    まず、小説、つまりはフィクションを基に『釜山日報』が「強力な主張」などと評している点が第1のばかな点です。

    上掲記事はどこから突っ込んでいいのか分からないほどの駄法螺で、「強力な主張」が聞いて呆れます。「なったという」じゃないだろ、です。

    この記事だけ読んでも何をいっているのか分からないかもしれませんが、浅学非才の身ではありますが、一応の説明をしてみます。

    まず伽倻かやについてです。

    ◆伽倻って何?

    先の記事で『三国史記』については少しだけご紹介しましたが、1145年に成立した現存する朝鮮半島最古の歴史書です。新羅・高句麗・百済の三国時代について記述されたもので、統一新羅末期までが内容に含まれています。

    (中略)

    一応、Wikiから朝鮮半島・三国時代の地図を引いてみます。

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    ↑Author:Historiographer, KEIMS

    532年には、新羅23代王・法興王(ポップンワン)によって、伽耶の中心国家であった金官伽耶は滅亡。さらに562年には、新羅24代王・真興王(チヌンワン)によって大伽耶も滅ぼされました。

    当然ですが、王族が日本に逃げ込みました、天皇になりましたなどという記述はありません。

    (中略)

    ◆小説はウソです。ウソと史実は違います

    日本のまともな歴史学者の先生方は『第4の帝国』を一笑に付されるでしょうが、韓国をみくびってはいけません。

    このような根も葉もないウソが事実と信じられるのです。また、問題なのはウソが韓国から日本へと流入して、歴史に親しまない日本人が信じ、それがまるで事実のように流布してしまいます。

    ですから、一笑に付すだけではなく、こういう話があったら(面倒くさいですが)ひとつひとつ「ウソをつくな」と潰していかなければなりません。

    実際、『韓国日報』はこの『第4の帝国』を以下のように書いています。


    (前略)
    5世紀の広開土大王の5万の大軍に追われ、日本に渡った伽倻の核心エリートが日本文明の主役だったということだ。

    (中略)

    作家はこの小説を書くために、国内の様々な博物館や王陵、日本の沖縄とさまざまな王陵、武寧大王の誕生地である各羅道、インドなどを現場に回答し、各種史料を収集・考証したという。

    そのため小説は、あたかもルポドキュメンタリーのニュアンスを漂わせる。

    ⇒参照・引用元:『韓国日報』「チェ・インホの新歴史小説『第4の帝国』」


    このような歴史的事実に基づかないウソ八百の小説がルポ、ドキュメンタリーであるかのように紹介しているのです。

    小説家はその想像力の翼を広げてとんでもないウソを書きます。想像力が一般人より大きいからこそ読者を魅了する「お話」を作れるのかもしれませんが、ウソと史実は違います。

    (吉田ハンチング@dcp)
    https://money1.jp/archives/94811

    【【韓国】『釜山日報』「日王の朝鮮半島出身説」、伽倻系が日王になったという強力な主張】の続きを読む

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    1: LingLing ★ 2022/12/01(木) 20:53:19.49 ID:WPNP1P5f
    「5世紀前半 伽耶系、ヤマト第2王朝『河内王朝』建てた」[目覚める伽耶史]
    [目覚める伽耶史] 6.日本3王朝交替説
    ・高句麗の南征に打撃 伽耶流民
    ・列島渡って新たな王朝を建設
    ・日本最大の前方後円墳築造

    ・鉄器など技術革新時代開いて
    ・その後、百済系第3王朝として交代

    伽耶史を語るのに、なぜ日本の3王朝交替説なのか。400年、高句麗の南征で金官伽耶が壊滅に近い打撃を受け、そのエリート層と流民の大きな流れが日本列島に渡った。彼らが3王朝交替説とつながっているというのだ。要するに、伽耶史と関連した時、日本3王朝交替説は「日王の韓半島出身説」と関連があるということであり、伽耶系が日王になったという強力な主張がそれだ。それだけでなく、伽耶系を継いで後に百済系も日王になったという。

    韓半島と日本列島を合わせた二大軸での「高句麗-新羅」の2国同盟より、「百済-伽耶-倭」の3国同盟は非常に緊密に互いに作用した。結局、後者の同盟は伽耶系と百済系日王の登場につながったということだ。3王朝のうち、第2王朝は伽耶系王朝であり、第3王朝は百済系王朝だったという鮮明な主張がある。

    まず「3王朝交替説」は、日本で第2次大戦後の古代史研究の最大学説に挙げられる。日王が一つの血統で降りてきたという「万世一系」を覆し、互いに異なる血統の3系王朝が交替したという大胆な主張だ。最初に主張が提起された後、相当な波紋が起きたが、その後、大いに納得する学説になった。

    まず、「3王朝交替説」の根拠は、712年に編纂された日本の<古事記>に登場するヤマト政権の1~33代天皇のうち18名は仮想人物であり、15名だけが実在したというものだ。実在した15名の系譜を見ると、3系王朝に分類できるということだ。だから、単一ヤマト政権の歴史的実状は第1~3次ヤマト政権に分かれるという声だ。第1王朝のスジン(崇神)王朝(10~14代)、第2王朝のニントク(仁徳)王朝(16~25代)、第3王朝のケイタイ(継体)王朝(26~33代)がそれだ。現在の日王は第3王朝の継体王朝の後孫だ。

    この中で問題的である王朝は第2王朝だ。韓半島南部から渡った伽耶系あるいは騎馬民族系が九州を手に入れた後、5世紀前半に奈良、京都、大阪地方を征服し、河内地方に王朝を開いたということだ。第2王朝を「河内王朝」とも言う。

    チェ・インホは歴史小説<第4の帝国>で、小説的虚構にとどまらない非常に強い歴史推理を出した。彼の推理によると、100年間ほど続いた河内王朝は伽耶系王朝だというのだ。伽耶系王朝の礎石を築いたのは15代日王のオウジン(應神)で、彼は大韓海峡を渡った「伽耶版モーセ」と称された。應神は7年間東征伐に乗り出し、彼を継ぐ16代仁徳が金官伽耶壊滅以降である約30年後の433年、大阪の平原に河内王朝を開いたというのだ。5世紀前半に築造された應神王陵と仁徳王陵は6kmほど離れて大阪平原の同じ緯度上にある。仁徳王陵は長さ486mで、日本最大の前方後円墳だ。

    チェ・インホの歴史推理にさらに従っていくと、第2王朝は即位8年目に暗殺される25代目の武烈を最後に幕を下ろし、507年百済系の第3王朝の継体王朝に交代する。継体日王は古代国家成立期の大きな転換点を成したが、「ケイタイ」は「体系、王界を受け継ぐ」という意味だ。

    3王朝交替は、日本古代史が韓半島古代史、特に伽耶-百済と驚くほど緊密につながっていて、大きな激動を繰り広げていたという点を力説する。400年金官伽耶の壊滅以降、第2渡来人時代、技術革新時代を迎えた5世紀、日本列島の古代史は急流に乗った。当代の日本列島はヤマト倭王権と各地域の大首長の緩い連合体から強い連合体へと進んだ。日本古代史が3王朝交替を経験し、次第に自らの体を治めていったということだ。

    (つづく…)

    チェ・ハクリム記者

    釜山日報(韓国語)
    https://n.news.naver.com/mnews/article/082/0001186117

    【【韓国の妄想】 5世紀前半、韓半島南部から渡った伽耶系がヤマト第2王朝『河内王朝』を建てた…日本最大の前方後円墳築造】の続きを読む

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    1: 樽悶 ★ 2021/10/13(水) 22:56:52.74 ID:USn6T2Yk9
    ヤマト王権は西の勢力が打ち立てた――長い間、日本の史学界ではそう考えられてきた。しかし、纒向遺跡の発掘調査と研究によって、その常識は打ち破られつつある。ヤマト建国の背景には、東の文化(縄文)が色濃くあることがわかってきたのである。

    ※省略

    ヤマト建国は三輪山麓の扇状地・纒向遺跡(奈良県桜井市)で始まった。3世紀初頭、それまで何もなかった場所に巨大人工都市が出現したのだ。各地から土器が集まり、前方後円墳が誕生し、この独自の埋葬文化を各地の首長が受け入れ、造営した(造営の許可をヤマト政権が出したのだろう)。

    ※省略

    「北部九州の邪馬台国が東に移動してヤマトは建国された」という考えは、もはや通用しないのである。それどころか、ヤマト建国前後の人の流れは、かつての常識を嘲笑うかのように、東から西なのだ。

    ヤマトや近畿地方の人びとが、大挙して北部九州に押し寄せている。これは考古学が示す客観的な事実だ。ここに大きな謎が横たわる。

    弥生時代後期の北部九州は、鉄器の保有量で、他の地域を圧倒していた。この時代の鉄は朝鮮半島南部(のちの伽耶の地域)が主な産地だった。倭人だけでなく、周辺の人びとが鉄を求めて群れ集まっていたことは、中国の歴史書に記録されている。

    そして、ヤマトの発展を恐れた北部九州は、鉄を東に回さない策に出たようだ。出雲や吉備と手を組み、関門海峡と明石海峡を封鎖した気配がある。そのため、近畿地方は鉄の過疎地帯となった。

    近畿地方は困窮したが救世主が現れる。日本海側の但馬や丹波(これをタニハと呼んでおく)が鉄を含めた先進の文物を、独自のルートを使い、近畿地方、近江、東海に流し始めたのだ。一帯は次第に富を蓄え、その後ヤマトに集結した。

    これが、纒向遺跡誕生の筋書きであり、あわてた吉備と出雲は北部九州との盟約を反故にして、あわてて纒向にやってきたのだ。北部九州の土器がヤマトにやってこなかったのは、むしろ当然のことだった。そしてヤマト連合は、大挙して北部九州に押しかけたわけである。

    ■縄文への「揺り戻し運動」

    史学者の多くは、邪馬台国論争にばかり気をとられているから、近江と東海の動きを見誤っていたのだ。ヤマト建国のヒントは、目の前にぶら下がっていたのに、「邪馬台国の敵・狗奴国は近江や東海」という、誤った見識が邪魔をしていたのだ。

    そして、ここがもっとも大切なところなのだが、ヤマトの纒向に集まってきた地域が、「ほぼ銅鐸文化圏」だったのである。彼らは、銅鐸の中に、縄文的な意匠を描いていた。ここを無視することはできなくなってくる。

    ※省略

    ヤマト建国とは「縄文的な社会への揺り戻し運動」だったのではないかと思えてくる。主導したのは、もちろん、銅鐸文化圏の人びとである。「ありえない」と、反発を受けそうだが、考古学者はすでにそう考えているのではないかと思える節がある。

    縄文時代を通じて、西日本は東日本に比べて人口が少なかったが、寒冷化した縄文後期は、西日本の人口が増えている。一部は、東日本から人の流入があったようだ。人口密集地帯だった関東から、北陸・東海、関西、中国、四国、九州へと人の流れがあったことはすでに触れている。

    やがて弥生時代になると、西側から水田稲作の文化が流れ込み、弥生化が始まる。また、弥生前期を代表する遠賀川式土器が盛行していったのだ。

    ところが、紀元前4~3世紀からあとの瀬戸内や近畿では、文様を排した遠賀川系の土器に代わって、土器に櫛などの道具を用いて文様を刻む風習が戻ってきたのだ。これが、弥生時代中期後半の紀元前1世紀ごろまで続く。縄文中期の全盛期の土器に似ているのだ。

    弥生前期の終わりごろから、分銅形土製品(フィギュア)が瀬戸内海を中心に登場する。これは、縄文時代晩期末に西日本で作られた土偶が起源だ。やはりこれも、縄文回帰現象といえる。

    ※省略

    纒向は「東側から来た人間がヤマトを支配するにはもっとも都合のよい場所」であり、いまだはっきりと固まっていない新政権のもとで、いざというときは東側の山や高台に陣を構えることも可能だったし、東に逃れ、あるいは東からの援軍を呼び込める場所だったのである。(関裕二 歴史作家)

    https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20211009-00010000-voice-pol

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    1: 右大臣・大ちゃん之弼 ★  2019/12/05(木) 20:49:01.27 ID:CAP_USER
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    百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群(大阪府)の世界文化遺産登録を受けて、構成資産の仁徳天皇陵古墳=大山(だいせん)古墳、堺市=をはじめ、規模の大きな墳墓に特徴的な「前方後円」の墳形が改めて注目されている。前方後円墳は、日本だけではなく、韓国南西部でも確認されている。韓国で研究の最前線を取材した。(大阪本社編集委員 関口和哉)

    交易を担った倭人か、大和政権に敗れた九州人か…被葬者で諸説

     商店やマンションに囲まれた市街地の一角。韓国南西部の光州にある2基の前方後円墳、月桂洞1号墳、2号墳を訪れた。この古墳からは円筒埴輪(はにわ)約100基が出土。周辺の栄山江流域では14基の前方後円墳が確認されている。

     反日感情が根強い韓国では、日本との関連がテーマになる前方後円墳に関心を寄せる研究者は長年、限られていたという。1980年代後半に、ようやく注目され始めた。

     栄山江流域の古墳は一時、「日本の前方後円墳のルーツではないか」との説も浮上したが、築造時期はいずれも5世紀後半~6世紀前半。日本で前方後円墳の築造が始まった3世紀より後であることが判明してからは、関心は築造理由や被葬者に移った。

     月桂洞1、2号墳から東へ車で約20分。出土品などを展示している全南大博物館に林永珍(イム・ヨンジン)館長を訪ねた。林館長は93~97年の発掘調査を担当。月桂洞古墳の築造時期、周辺は「馬韓(ばかん)」と呼ばれ、百済と倭(わ)(日本)が支配を競った。

     被葬者については、▽倭の影響を受けた百済人▽倭と結びついた馬韓人▽百済に仕えた倭人――など諸説あるが、林館長は「被葬者は磐井の乱(527年)で大和政権に敗れ、国外脱出した北部九州の倭人」と主張する。

     近年、石室や副葬品の調査が進み、より詳しい実態がわかってきた。洪●植(ホン・ボシク)・公州大副教授は「墳形や石室には日本の影響がうかがえる。一方、土器は朝鮮半島の特徴を持つ。武人的要素が少ない副葬品から被葬者は交易を担った倭人ではないか」と説く(●は「さんずい」に「普」)。

    「前方後円」以外でも…倭系の特徴

     「前方後円」以外の墳形も重視されるようになった。その一つ、咸平(ハムピョン)の金山里方台形古墳からは、鳥や人物などの形象埴輪が韓国で初めて出土し、石が敷かれた墳丘にも「倭系」の特徴が表れている。李■起(リ・ブンキ)・全南文化財研究所長は「将来は石室の発掘も目指している。被葬者像や日本との関係を解き明かしてくれるはず」と期待を寄せた(■は「金」の右に「凡」)。

     井上主税(ちから)・関西大准教授は「日韓の研究者が協力して比較、検討することで、日韓の歴史に新たな光を当てられるだろう」と話している。

    12/5(木) 12:11配信 ヤフーニュース(読売新聞)

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