かたすみ速報

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    タグ:文禄・慶長の役

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    1: 蚯蚓φ ★ 2019/04/06(土) 16:25:34.47 ID:CAP_USER
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    ▲チョン・サムジョ詩人

    街路樹の桜の花がぱっと開き、通りごとに大騷ぎになる。見事な花祭りだ。この花祭りに数百回は参加すべきだろうと誓うかのように人々は花の下でそわそわする。美しい。豊かだ。

    数十万株にもなるという鎮海だけでなく、私たちの私的推薦も桜の花が多い。私的に推薦する桜の花の元祖格はどうしても泗川里(サチョンリ)城の桜だ。この桜の下で一日を飲酒・歌舞で楽しむ人々をすぐに思い出せるほど私たち地元の人々は泗川里城の桜が好きだ。

    今年も泗川里城一帯では桜祭りが開かれるという。この桜の花の豪華さと人々にあたえる喜びをしばらく後回しにしておいて、私たちの故郷、泗川里城に桜がどうして植えられることになったのかを考えてみれば、一方で苦々しい感じがするのを禁じ得ない。

    泗川里城に千本余りの桜を植えたのは日本人だという。その人は壬辰年倭乱後の丁酉災乱(慶長の乱)の時の1598年にこの泗川里城を防御して明国軍が主軸だった朝鮮と明国の朝明聨合軍をはね除け戦功をおさめた日人の子孫という。

    時は日帝強制占領期初期の1918年だと記録されている。1597年末頃、日人らは彼らの退路を心配してこの泗川里城一帯に城を築いて駐留することにしたという。恐らく周辺の多くの私たち国民が労役に動員され、彼らが計画した城なので当然、日本式城の倭城だった。この倭城の泗川里城を陥落するため、朝明聨合軍は倭軍の4倍ほどに当たる三万人以上だったが、不幸にも戦闘中、火砲の誤射による弾薬の爆発で混乱に陥って莫大な戦死者を残して敗退したという。

    この時死んだ朝明聨合軍の数が私たちの記録では八千人、倭人の記録では三万人という。この戦闘は壬辰倭乱の中で倭軍がおさめた代表的勝利とされる。そのせいか、過去の一時は日本の学生たちが我が国に修学旅でくる時、この泗川里城を訪れることがたびたびあった。泗川里城を復元しなければならないという理由の一つに日本観光客誘致の助けになるという人もいた。

    その日本学生や日本人観光客が何をしに泗川里城を訪れたのだろうか。彼らが勝った戦場を探して彼らの愛国心を鼓吹しようという意図ではなかったか。

    より一層理解できないことはこの泗川里城を復元すると言いながら倭城を復元したことだ。歴史の記録を調べれば、この泗川里城にはすでに高麗の時やそれ以前に築造した私たちの方法の土城があったという。その土城を基礎にして倭軍らが倭城を築いたのだ。

    その倭城により数多くの怨みの霊が飛び交うその場に、その怨みの霊を慰められなくとも莫大な税金を投じて、何故、倭城を築いた意図は何か。今も倭城の跡を消して派手でないかもしれないが、本来の土城形態を補完する方案を講じていかなければならないだろう。

    桜の花が日本人のどの様な精神を代弁するとしても、あえて遠ざける理由はない。それは日本人の事情であって、私たちはその桜の花を花以外の目的で使おうとする不純な意図にまきこまれてはならないという考えを泗川里城の悲劇と共に思い出してみる。

    記者注:泗川の戦い(しせんのたたかい)は、文禄・慶長の役における合戦の一つ。絶望的な戦力差があったにもかかわらず、劣勢な島津軍が勝利した伝説的な戦い(Wikipedia)。

    ニュース泗川(韓国語)
    http://www.news4000.com/news/articleView.html?idxno=31459

    【【韓国】 桜の花を見て思う壬辰倭乱~勝った倭人の子孫が泗川里城に桜を植えたワケ】の続きを読む

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    1: しじみ ★ 2019/03/28(木) 01:24:43.41 ID:CAP_USER
     豊臣秀吉(1537~98)が、武将加藤清正(1562~1611)に宛てて朝鮮出兵を命じた朱印状が見つかった。愛知県刈谷市の市歴史博物館が27日発表した。「文禄の役」で清正が出兵する直前に出されたものとみられる。

     朱印状は縦21・5センチ、横125・5センチで軸装されている。竜のようなマークが特徴の秀吉の朱印があることや書状の紙質・形状などから本物と断定した。

     清正に対し、「(第1軍の)小西行長らに朝鮮出兵を命じたので、お前も出陣せよ。異国の者はそんなに強くないと思って、決して油断しないように」と伝える。また、「先に行った者たちが道中で詰まっているので、皆で相談してスムーズに進めるように」という趣旨の秀吉らしい細かい指示もある。3月23日の日付があり、文禄の役で第2軍を率いて4月に出兵した1592年のものと推測される。

     博物館によると、内容自体は福岡藩の黒田家に伝わる古文書に引用されている黒田長政ら3人の大名宛ての同日付の朱印状と同じで、同様の命令書が中国や九州の大名へ広く出されたと推測されていた。だが、3月23日付の命令書の実物が見つかったのは初めてという。

     秀吉の文書に詳しい名古屋市博物館分館蓬左(ほうさ)文庫の鳥居和之文庫長は「一次史料が発見されたことで黒田家文書の内容が事実だとわかる。また、清正の後、加藤家が断絶したため清正の資料は散逸しており貴重だ」と評価する。

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    朝日新聞
    https://www.asahi.com/articles/ASM3V4RDDM3VOBJB003.html

    【【歴史】秀吉から清正へ「朝鮮出兵の命令書」、本物発見】の続きを読む

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    1: 右大臣・大ちゃん之弼 ★  2019/03/27(水) 11:40:50.81 ID:CAP_USER
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    「罪のない民が犠牲になる歴史が繰り返されてはなりません」 

      24日、日本・京都の「耳墓」前で北郷民(北朝鮮が故郷である人、脱北者)青年A氏が黙祷した後このように話した。A氏は「国力の重要さを新たに感じた」とも話した。 

      耳塚は壬辰倭乱(文禄・慶長の役)で倭軍が切って行った朝鮮人12万人余りの耳と鼻が埋められている場所だ。耳塚を作った主犯である豊臣秀吉の神社の隣にある。北郷民B氏は「このような残酷なことを犯した豊臣秀吉の神社の隣に耳塚があるとは腹立たしい。この歴史をもっと知らせて記憶しなければならない」と力説した。 

      同日、北郷民の青年らが生まれて初めて抗日の歴史の現場を訪れたのは国会外交統一委員会所属の宋永吉(ソン・ヨンギル)共に民主党議員が企画したプログラムによるものだ。宋議員は北郷民の青年24人と2泊3日の日程で日本・大阪と京都などの抗日の遺跡を訪れた。宋議員は「不慣れな韓国の地に定着した北郷民が韓国人と同質感を感じ、よく適応することを願う思いから今回の日程を用意した」と話した。 

      23日の最初の日程は大阪城内に位置する陸軍衛戍刑務所跡地だった。尹奉吉(ユン・ボンギル)義士が虹口公園の義挙後、約1カ月間収監された場所だ。宋議員は北郷民の青年に「尹奉吉義士の義挙について蒋介石は『百万の大軍ができないことを朝鮮人の青年がやり遂げた』と敬意を示した」と説明した。続けて「蒋介石が大韓民国臨時政府を一流国家と認定しながら公式に独立運動資金を支援、武官学校を設立することができた」と付け加えた。 

      探訪団は京都では尹東柱(ユン・ドンジュ)・鄭芝溶(チョン・ジヨン)詩人が通った同志社大学今出川キャンパスを訪問した。キャンパス内にある2人の詩人の詩碑の前で黙祷した。次の日程が耳塚訪問だった。宋議員はそこで「大韓民国で権力は指導者から出るのではなく国民から出るもの」とし、「国家は価値の共同体であり、国民個々人は皆大切だ」と話した。続けて「南と北が抗日闘争の歴史を共有し共に記憶しなければならない」と強調した。 

    中央日報 2019年03月27日 11時14分 
    https://s.japanese.joins.com/article/j_article.php?aid=251743&servcode=a00&sectcode=a10 

    耳塚・鼻塚wiki
    https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%E5%A1%9A
    ※ 2万人分の耳と鼻が埋められている。
    【【北朝鮮嘘をつく】「日本・耳塚、非常に腹立たしい。抗日の歴史、南北共に記憶しなければ」…北郷民青年の怒り 】の続きを読む

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    1: きゅう ★ 2018/12/30(日) 07:41:52.92 ID:CAP_USER
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    【平壌12月29日発朝鮮中央通信】過去、日本の侵略者は朝鮮の学問と技術分野の人材を拉致して経済、文化の発展を甚しく阻害する特大型の犯罪を働いた。

    壬辰祖国戦争時期(1592年―1598年、文禄・慶長の役)に日本が働いた蛮行をもってそれについて説明することができる。

    一名、壬辰倭乱と呼ばれるこの戦争期間に、日本の侵略者は朝鮮の文化財を大量に破壊、略奪したし、数多くの朝鮮人を島国へ連れ去った。

    戦争の期間、日本の侵略者が最も価値ある「戦利品」としたのが人であった。

    日本侵略者の首かいである豊臣秀吉の命令によって、戦争の初期から朝鮮人に対する一大「狩り戦」「拉致戦」が繰り広げられて、建築、陶磁工芸、活字鋳造・印刷、紡織など、学問と技術分野において10余万に及ぶ人材と平民が日本に連れて行かれた。

    日本の性理学と仏教、医学、文学、陶磁工芸、紡績業はまさに、拉致された朝鮮人によって大きく発展した。

    特に、現在日本で国宝とされる陶磁器である有田焼、薩摩焼などは、壬辰倭乱の時に朝鮮で拉致した陶工らの血の涙と苦役の汗によってつくられたものである。

    日本の伊万里市には、朝鮮から連れてきた陶工800人の墓が現在も存在しており、日本の有名な陶磁器技術者の系図を調べればみんなが朝鮮陶磁器技術者の子孫である。

    壬辰祖国戦争は1598年11月、朝鮮人民の勝利に終わったが、数多くの人々が日本に連れて行かれたことによって、人材と労働力の不足で戦後、朝鮮の科学と技術の発展は甚しく阻害された。

    実に、日本が壬辰祖国戦争の時に朝鮮民族に働いた蛮行は、人類史にその類のない特大型の国家犯罪である。---

    朝鮮中央通信(北朝鮮語)
    http://www.kcna.kp/kcna.user.article.retrieveNewsViewInfoList.kcmsf

    【【北朝鮮】壬辰祖国戦争時期に強行された日本の人材拉致犯罪】の続きを読む

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    1: 蚯蚓φ ★ 2018/12/22(土) 18:29:10.21 ID:CAP_USER
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    イ・ヨンホ議員と南原市(ナムォンシ)南原社会奉仕団体協議会は20日午後2時、南原市庁大講堂で「万人義士追悼および宣揚方案摸索政策討論会」を開催した。

    この日の討論会は南原市民300人余りが参加した中で文化財庁と全羅北道(チョルラブクト)南原市の学界と市民団体が出て丁酉災乱(慶長の乱)当時の歴史的事実を考証し、「鼻墓」の日本文化財指定解除と国内移葬を中心に国内外の公論化および協力方案を議論した。

    この日、最初の発表者のヤン・ウニョン円光(ウォングァン)大名誉教授は「豊臣秀吉は1597年8月13-15日、南原城の戦いで鼻を証拠として直接確認し、部隊長らに感謝状をおくった」とし、「その内容に照らしてみれば、万人義塚に埋められた義士1万人のうち815人の死体には鼻がない計算になる」と分析した。

    次の提案を引き受けた『南原城』の著者コ・ヒョングォンは「南原城の戦いは敗戦と記録されているが、『民・官・軍が総力で戦って勝った戦闘』という再評価が必要だ」とし、「遺骸送還問題として『鼻墓』はその中心にあるにもかかわらず、多くの人々がよく知らず探すこともない。これを広く知らしめることが南原の現課題」と主張した。

    続く討論でチョン・ヨンホ文化財庁国立羅州(ナジュ)文化財研究所学芸研究室長は「韓日両国が相互協力的な関係を結びながら前に進むためには従軍慰安婦、独島(ドクト、日本名:竹島)問題とともに「鼻墓」も共に議論され解決しなければならない重要な課題」として、「国家指定文化財は解除が非常に複雑で困難なだけに『鼻墓』日本文化財指定解除と帰国措置のためには何よりも関連研究を徹底しなければならない」と明らかにした。

    ヒョン・ジャンウ南原社会奉仕団体協議会会長は「『万人精神宣揚会 』結成など南原市をはじめとする関係当局の協力下に公式に鼻墓関連活動および政策を推進できるようにしなければならない」と主張した。チェ・キュホ南原市文化芸術と学芸研究家もやはり「持続的で安定した政策推進が可能なように『万人精神宣揚会』のような機構を構成、推進ロードマップを構築しなければならない」と提案した。

    イ・ヨンイル全羅北道文化遺産と学芸研究官は「万人義士追悼のための民・官・学連係事業主体構成、鼻墓に対する持続的な学術調査研究事業推進、記念日制定および全国単位の追悼行事開催が必要だ」と明らかにした。キム・イルス南原文化大学関係者(元山内中学校校長)は去る11月、京都鼻墓参拝当時のエピソードを紹介して南原移葬の正当性を説明した。

    イ・ヨンホ議員は討論会を終えて「一部の人々は鼻墓を『嫌悪施設』と主張するが、これはそのような問題ではない。私たちの家族と子供の身体の一部が遠い他の領域にあるなら、心情はどうだろうか」として、「これから結果は分からないが鼻墓に対する真実を明らかにし、歴史歪曲を正す過程それ自体が重要だ」と明らかにした。

    また、イ議員は「南原市が中心になって今日の討論会で出た内容を公式推進できる機構を構成する必要がある」とし、「私もやはり『鼻墓』を慰安婦、独島問題とともに歴史歪曲事例および外交懸案として公論化するために着実に問題提起して国会次元で政策的努力を続けさせる」と付け加えた。

    一方、丁酉災乱(慶長の乱)当時、豊臣秀吉は朝鮮人の鼻を切り取ってこさせて個数により褒賞を下したと伝えられる。そうして作られた「鼻墓」は日本各地で多数発見されており、代表的な墓が京都にある豊臣秀吉神社近隣の「ミミズ カ(耳 墓)」という名称で日本文化財に指定されている。墓の名称変更(鼻を耳にした理由)について野蛮性を縮小する目的という分析が多い。

    ソース:時事ニュース(韓国語) イ・ヨンホ「「鼻墓」、慰安婦・独島(ドクト)とともに歴史歪曲事例および外交懸案で扱われなければ」
    http://www.sisa-news.com/news/article.html?no=116433

    引用元:http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/news4plus/1545470950/ 【【歴史歪曲してるのは韓国】 『鼻墓(耳塚)』は慰安婦・独島と並ぶ歴史歪曲事例および外交懸案~韓国議員、日本文化財指定解除と国内移葬を主張 】の続きを読む

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    1: 右大臣・大ちゃん之弼 ★  2018/11/06(火) 13:09:58.61 ID:CAP_USER
      「私が死ぬ前に望みがあるとすれば、この窯を復元して朝鮮の茶碗を作ることだ。実現すれば500年間余り途切れた朝鮮茶碗の真の再現となるだろう」。 

      3日、慶尚南道昌原市鎮海(チンヘ)の熊川(ウンチョン)陶甕址展示館で会った崔熊鐸(チェ・ウンテク)沙器匠(64)は2002年に発掘された6つの窯跡を眺めながらこのように語った。この日午後、後輩の学者と共に、忘れられた朝鮮陶工125人の第19回追悼祭をした直後だった。 

      熊川宝賠山井谷にある熊川陶甕址の窯跡は1500年代初めから低品質の茶碗を焼いていたところだ。生活に使う茶碗で、高麗青磁から朝鮮時代の白磁、または粉青沙器として作られた。 

      しかし1598年、100年を満たすことなくここは閉窯となった。丁酉再乱(慶長の役)が終わる頃、熊川陶甕址の陶工とその家族125人が退却する日本軍に強制的に連行され、窯跡の火が消えて命脈が途絶えたのだ。 

      朝鮮茶碗は壬辰倭乱(文禄の役)前後の16世紀後半から日本で注目された。当時壬辰倭乱を起こした豊臣秀吉が朝鮮から持ち帰った茶碗を「井戸茶碗」と呼んで茶会を開き、その時に使った茶碗が日本国宝26号に指定された「喜左衛門井戸茶碗」だ。当時から朝鮮の茶碗は井戸茶碗と呼ばれ、その後、連行された朝鮮陶工らが長崎平戸島など各地で作った。井戸茶碗は今でも日本で最高の茶碗として評価されている。 

      この茶碗をおよそ500年ぶりに朝鮮陶磁器の由来地の一つ、熊川で再現し、朝鮮沙器匠の脈を受け継いでいるのが崔熊鐸氏だ。豊臣秀吉が絶賛した井戸茶碗も熊川で作られたものと崔氏らは推定している。 

      崔氏は鎮海宝賠山の近くで生まれた。幼い頃から山のふもとのあちこちに落ちている陶片に接して育った。そして30余年前から宝賠山のふもとに「熊川窯」を作って朝鮮陶磁器の脈を継いでいる。崔氏は「山に埋まっている陶片が師であり、私の学習の場だった」とし「日本に渡った先祖とその子孫が作った作品を見ながら再現している」と話した。 

      崔氏はほとんど毎日、宝賠山に登る。茶碗に使われる最も重要な材料の三白土(白色・黄色・赤色)を手に入れるためだ。崔氏は「ほかの地域の土で作れば熊川陶磁器ではない」と語った。 

      三白土を松の枝にのせ、その上に雨水を注いで濾過した後に熟成させれば粘性を持つ粘土となる。この粘土を轆轤に乗せて茶碗を制作した後、牡蠣の殻で作った釉薬を塗る。朝鮮陶工の方法を同じだ。 

      客を迎える崔氏の応接室には宝賠山で発掘した陶片が並んでいる。陶芸を学んだことがない崔氏にとってその陶片は唯一の師だった。崔氏は「この陶片を見ながら土、釉薬、成形、火の強さなど茶碗を作る方法を習った。言葉のない師匠」と話した。 

      熊川茶碗といえば自然の美しさと素朴さだ。崔氏が作る茶碗にもその特長がそのまま表れている。轆轤にのせられた粘土を成形する時に素朴さを残し、一年に3、4回ほど窯焚きをする。1000点ほどの茶碗が窯に入るが、生き残るのはわずか10点ほどだ。残りはすべて割れて土に埋められる。 

      これまで崔氏の弟子は10人ほどいる。一部は崔氏と共に、一部は独立して熊川陶窯の脈を受け継いでいる。 

      崔氏には最後の夢がある。発見された窯跡のうち原形が残っているところで朝鮮陶磁器をを再現することだ。「土から茶碗を作る人に欲などない。最後の望みがあるとすれば、先祖の窯跡で昔のやり方で朝鮮茶碗を焼くことだ」。

    https://s.japanese.joins.com/article/j_article.php?aid=246814&servcode=400&sectcode=400
    中央日報2018年11月06日 08時52分

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    壬辰倭乱当時に日本に連れて行かれた熊川の陶工125人の追悼祭をする崔熊鐸氏。写真下は井戸茶碗(中央フォト)
    【【再現できないと思う】豊臣秀吉の目に留まった朝鮮茶碗、日本に渡って国宝に】の続きを読む

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    1: 右大臣・大ちゃん之弼 ★ 2018/10/26(金) 08:55:47.69 ID:CAP_USER
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    豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592~98年)の際、秀吉子飼いの武将・加藤清正が虎狩りをした様子が、当時の朝鮮人の日記に記述されていたことがわかった。「清正の虎退治」については朝鮮から虎の肉を届けた清正に秀吉が宛てた感謝状など、事実を裏付ける史料はわずかしか残されていない。専門家は「虎狩りの日付や様子、理由をほぼリアルタイムに伝える貴重な史料だ」と評価する。

     日記は、朝鮮王朝時代の在野の文化人・呉希文オヒムンが、秀吉軍の侵攻から1601年までの9年間、避難生活のなかでつづった「瑣尾さび録」。1962年に韓国で出版されたもので、名古屋市千種区の元中学教諭栗本伸子さん(85)らが8年かけて翻訳、自費出版し、虎狩りの記述が見つかった。

     1595年3月4日付の日記は、呉希文が郡役所の報告書や知人の「趙希軾」から入手した情報として、2月24日に「賊」が軍を総動員して虎狩りに出掛け、虎2頭を捕らえた、という内容。同3月12日付では、この虎狩りについて、「賊将清正」が大事にしていた愛馬を食い殺されて激怒し、軍勢を出して虎を捕らえた、などと詳しく記していた。清正は当時、釜山の北東約30キロの西生浦城を守備しており、虎狩りはその付近で行われたとみられる。

     朝鮮出兵時の虎狩りを巡っては、秀吉の側近が秀吉の薬用に虎の肉や内臓を塩漬けにして送るよう武将らに指示した書状や、虎の肉が届くたびに秀吉が武将らに宛てた感謝状が残されている。清正宛ての感謝状も1通あるが、捕獲手段や時期、場所などは不明だった。

     当時の秀吉軍は明・朝鮮連合軍に対し劣勢だった。清正が持ち帰ったと伝えられる虎のあごの骨を所蔵する名古屋市秀吉清正記念館の朝日美砂子学芸員は「将兵に厭戦えんせん気分が広がり、『太閤たいこう秀吉様のため』とは言いづらく、『愛馬の敵討ち』と偽ったのだろう」と話す。

     清正宛ての感謝状は4月12日付で、瑣尾録にある虎狩りの約50日後にあたる。朝鮮出兵に詳しい九州大学の中野等教授(日本近世史)は「瑣尾録に記された虎が秀吉に届けられた可能性が高い」とした上で、「武将たちは各地で虎の被害に遭っていた。秀吉に献上するだけでなく、駆除目的の虎狩りもあったのではないか」と話している。

     

     ◇清正の虎退治 後の初代熊本藩主・加藤清正(1562~1611年)が朝鮮出兵の際、馬や小姓をかみ殺されたことに怒って虎を捜しだし、自ら仕留めたという伝承。江戸時代後期の「絵本太閤記」で紹介されたほか、浮世絵や芝居などで盛んに取り上げられ、勇猛果敢な清正像が定着した。

    読売オンライン 2018年10月25日
    https://www.yomiuri.co.jp/chubu/news/20181025-OYTNT50000.html


    【【文禄・慶長の役】清正の虎退治 朝鮮側に記録】の続きを読む

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    1: 蚯蚓φ ★ 2018/10/17(水) 20:59:15.82 ID:CAP_USER
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    【南原聯合ニュース】世界の陶磁器文化を紹介する展示イベント「南原国際陶芸キャンプ」が、19日から21日まで韓国南部、全羅北道・南原の春香テーマパークで開催される。

     7回目の今回は「朝鮮陶工、韓流を夢見る」をテーマに、韓国や米国、インド、ギリシャなど13カ国の陶芸家約110人の陶磁器を展示する。伝統陶磁器製作のデモンストレーションや陶芸体験なども実施する。

     このイベントは南原の陶磁器文化を紹介し、各国の伝統陶芸文化を学び合う目的で開催されている。

     世界にも知られる日本の薩摩焼の陶芸家、沈壽官家の初代・沈当吉は朝鮮王朝時代の1598年、丁酉再乱(慶長の役)の際に南原から鹿児島に連れていかれ、直系子孫が420年にわたり代々薩摩焼をつくり続けている。

     陶芸キャンプの主催側はイベントについて「日本に連れていかれた陶工を追悼し、朝鮮陶磁器の源流である南原の立ち位置を確認する場になる」と説明した。


    朝鮮日報
    http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2018/10/17/2018101702622.html
    【【追悼することはないのだが】 世界の陶磁器文化に触れる展示イベント「南原国際陶芸キャンプ」~日本に連れていかれた陶工を追悼する場】の続きを読む

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    1: 蚯蚓φ ★ 2018/09/29(土) 11:49:03.76 ID:CAP_USER

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    ▲「日本の松」と呼ばれるコウヤマキが移植された後の李舜臣将軍ゆかりの祠堂「顕忠祠」=韓国忠清南道、顕忠祠提供
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    ▲李舜臣将軍ゆかりの祠堂「顕忠祠」から別の場所に移設されたコウヤマキ=韓国忠清南道、顕忠祠提供

     16世紀に豊臣秀吉の朝鮮出兵を迎え撃ち、韓国で「救国の英雄」と呼ばれる李舜臣(イスンシン)将軍をまつる祠堂「顕忠祠(ヒョンチュンサ)」(忠清南道牙山〈チュンチョンナムドアサン〉市)の境内から、「日本の松」と呼ばれてきたコウヤマキ(高野槙)が姿を消した。顕忠祠の関係者が明らかにした。韓国では文在寅(ムンジェイン)政権になってから、日本の統治時代に関係するものを見直す動きが進んでおり、その一環とみられる。

     関係者によると、顕忠祠の境内にあるコウヤマキは、1970年に朴正熙元大統領が記念植樹したとされる。これに対し、市民団体は、「抗日の象徴的な場所に、日本の植民地統治の歴史に関わる『日本の松』があるのはふさわしくない」と撤去を求めていた。

     顕忠祠の関係者によると、コウヤマキは今月17日、境内から人目につきにくい場所に移されたという。顕忠祠を所管する韓国文化財庁は「木が高く育ちすぎて、景観を害しているため」と説明している。

     だが、朴氏の娘で保守系の朴槿恵(パククネ)政権下では、移設要求は再三退けられてきた。一方、文政権は今年になって、1937年の日本統治時代に記念日となった「鉄道の日」を9月から6月に移すなど、「日帝残滓(ざんし)の清算」を理由に、日本統治時代に関わる文物の見直しを進めている。そのため韓国メディアでは、コウヤマキの移植も「政権交代が影響した」と指摘している。(ソウル=武田肇)

    朝日新聞
    https://www.asahi.com/articles/ASL9X3VCSL9XUHBI017.html

    【【島津に鎧袖一触された将軍】「救国の英雄」李舜臣将軍ゆかりの祠堂「顕忠祠」境内から「日本の松」コウヤマキ消える 】の続きを読む

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    1: ニライカナイφ ★ 2018/07/14(土) 08:53:10.63 ID:CAP_USER
    ◆なぜ金正恩は中国を"千年の宿敵"と呼ぶか
     ~ルーツは"秀吉の朝鮮出兵"にあった

    アメリカと中国の間で上手に立ち回りながら、北朝鮮の現体制の存続をはかる金正恩・朝鮮労働党書記長。
    中国の習近平・国家主席に「偉大なる指導者」とリップサービスをしながら、中国の支配下に入ろうとはしない。
    そのふるまいの陰には、あの「秀吉出兵」時に朝鮮王朝が味わった、当時の宗主国・明による血も涙もない「属国扱い」の記憶がある――。

    秀吉の朝鮮出兵の際、明から朝鮮に派遣された応援の軍隊(古い中国の絵巻物の一部)
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    ■「依存」と「不信」の交錯した感情 
    金正恩・朝鮮労働党委員長はもともと、中国を憎み、「千年の宿敵」と呼んでいました。 
    しかし、トランプ政権が誕生し、アメリカの圧力が強まるなか、北朝鮮は中国に接近。 
    米朝首脳会談の前に2度、会談のすぐ後にさらにもう一度、金委員長は訪中し、習近平国家主席と会談しています。 

    3度目の訪中の際、金委員長は習主席との会談で、習主席を「偉大なる指導者」と呼び、持ち上げたようです。 
    米朝会談の会場となったシンガポールに行くための飛行機を中国に借り、会談後早々に習主席に状況報告をするとは、過去69年の中朝交流の歴史でも類のない蜜月ぶりです。 

    とはいえ、「千年の宿敵」と「偉大なる指導者」という、金委員長の相反する2つの言葉には、北朝鮮が中国に対して抱く、「依存」と「不信」の交錯した感情がよく表れています。 
    国際社会から経済制裁や武力行使の脅しをかけられている現状は、北朝鮮から主観的に見れば「国難」的状況といえます。 

    その国難の中で北朝鮮は、長い半島史のなかで彼らの父祖が抱いた中国への複雑な思いを再体験しているかもしれません。 
    その歴史的記憶の一つが他ならぬ、北朝鮮でいう「壬申祖国戦争」、つまり日本の豊臣秀吉による文禄・慶長の役での、中国(当時は明)の対応です。 

    ■李舜臣を抜擢した男 

    秀吉の軍勢が朝鮮に侵攻した際、絶妙なバランス感覚で国難を救った朝鮮王朝の宰相がいました。 
    この宰相の名を柳成龍(リュ・ソンニョン)と言います。 
    藤堂高虎たちが率いた日本側の水軍に打撃を与えたことでよく知られている、李舜臣(イ・スンシン)を将軍に抜擢したのは柳成龍です。 

    秀吉の命を受けた小西行長や加藤清正は、朝鮮半島に上陸後、破竹の勢いで進軍。開戦からたったの21日で都の漢城(ソウル)を落とし、さらに北上して平壌(ピョンヤン)も落とします。 
    第14代朝鮮王の宣祖(ソンジョ)は民を捨てて、漢城から平壌へ逃げ、さらに平壌から中朝国境の義州へ逃げました。 

    その義州も安全ではないことがわかると、宣祖は中国の明(みん)へ亡命しようとします。 
    しかし、ここで宰相の柳成龍は、「今、朝鮮を一歩離れれば、朝鮮を失ってしまいます」と反対しました。 

    柳成龍は明に援軍を要請する一方、王が明に逃げてしまえば、明の傀儡(かいらい)に堕すると警戒したのです。 
    明の属国であった朝鮮は、秀吉軍の襲来という大きな国難を前に、宗主国の明に頼らざるを得ませでした。 

    しかし、「王が中国に身を預けるようなことをすれば、朝鮮王朝は終わってしまう」と柳成龍は考えたのです。 
    属国なりの矜持といえるでしょう。 

    ■「支援」とは名ばかりの明の援軍 

    朝鮮半島に侵攻した秀吉軍は16万でした。 
    柳成龍らの要請に応え、宗主国であった明は援軍を派遣しましたが、その数はたったの5万でした。 
    しかも、派遣軍の兵糧の負担は朝鮮側持ちというケチぶりです。 

    明軍はケチな上に悪辣でした。 
    朝鮮は飢えに苦しんでおり、明の莫大な兵糧の要請に応えられませんでした。 

    そのため、明軍は兵糧調達と称して、現地で手当たり次第の略奪に出ます。 
    さらに明の将軍の李如松(り・じょしょう)は、朝鮮側が兵糧提供の義務を果たさないことを「約束が違う」と激怒し、柳成龍ら朝鮮の大臣を呼び出し、ひざまずかせ、怒鳴り上げました。 

    柳成龍たちは泣きながら、李如松に許しを請ったといいます。これが明の「支援」の実態でした。 


    PRESIDENT Online 2018.7.13
    http://president.jp/articles/-/25610


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