かたすみ速報

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    タグ:日清戦争

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    1: 昆虫図鑑 ★ 2024/03/01(金) 18:44:41.25 ID:l8L8IneE
     今から130年前に日清戦争(1894年)が、120年前に日露戦争(1904年)が朝鮮半島で繰り広げられた。京都大学の山室信一名誉教授は、「連鎖」という観点を通じて、日本と世界、アジアが関係を結ぶ方式と意味について研究してきた。山室教授は『日露戦争の世紀』でも特有の連鎖という視点で、どうして日本がロシアと戦うことになったのかという歴史的な背景について、立体的に探っている。山室教授は、開港後に日本がどのような国際体制または状況のもとに置かれたのか、どのように対処したため、日清戦争を経て日露戦争、さらには太平洋戦争に突入することになったのかについて、世界史的な見解で眺望する。

     1855年に江戸幕府とロシア帝国は和親条約を結ぶ。条約締結のために訪問したロシアの特派大使プチャーチンが乗船した軍艦のディアナ号が東海近海で事故により沈没すると、日本はロシアと協力してその代わりとしてヘダ号を建造する。この船舶は日本が作った最初の洋式帆船だった。日露国交樹立150周年を記念する行事で、プーチンはこの事件が両国の長きにわたる友好関係を証明すると述べた。しかし両国は、和親条約のわずか半世紀後に戦争を行った。

     アマゾンの蝶々の羽ばたきが米国のテキサスでハリケーンの原因になるように、1891年にロシアがフランスから借款を得て建設を始めたシベリア横断鉄道は、日本に強い恐怖をもたらした。当時世界一の強力な陸軍を保有していたロシアが、英国の制海権の影響を受けない陸路を利用してモスクワからウラジオストクまで移動できるという事実は、日本はもちろん、東アジアさらには国際秩序にも大きな変動と衝撃をもたらしうる事件だった。日本は、シベリア横断鉄道が完工する前に、ロシアとの一戦を繰り広げることを計画し、綿密に準備した。

     1905年、すべての予想を覆して日本がロシアに勝利し、アジア各国の植民地解放運動勢力は、日本の勝利をともに祝った。しかし戦後、米国と日本が結んだ桂・タフト協定と日英同盟が象徴するように、日本は西欧と互いの植民地利権を保障する代わりに、アジアの民族独立運動勢力を圧迫するもう一つの帝国主義国家になった。一時は日本の勝利を称賛したインドのネルーも同様に「一握りの侵略帝国主義集団にもう一つの国を付け加えたに過ぎない」と批判した。日本はアジアで、朝鮮だけでなくインド、ベトナム、中国、フィリピンの敵になった。それから40年が流れた1945年8月、日本はロシアと朝鮮半島でふたたび激突した。

     山室教授は、自ら軍国主義の道に向けて進んだ日本の対応と変化について、鋭い批判を加え、これを通じて反省を促す。しかし、これらの反省や省察とは関係なく、私たちの立場からみると、日清戦争から日露戦争、太平洋戦争、そして朝鮮戦争にいたる4回の戦争のうち、3回は日本が起こし、残りの1回の戦争も日本がその原因の提供者だった。不幸にもその4回の戦争で、私たちは常に被害者だった。世界情勢が揺れ動いている近頃、私たちは自らに問わなければならない。どうしてこの4回の戦争を避けることができなかったのか。今の私たちは、これから差し迫ってくるかもしれない危機に、十分に備えているのか。

     当時の朝鮮のエリートは国際関係に暗く、既得権に安住して変化を恐れた。高宗皇帝は初めは清に依託して外勢を引き込み、その次はロシア、最後には米国に頼った。しかし、ただの一度も民衆と手を取り合うことはなかった。

    チョン・ソンウォン|「黄海文化」編集長

    ハンギョレ 2024-03-01 08:48 修正:2024-03-01 10:00
    https://japan.hani.co.kr/arti/culture/49307.html


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    1: 昆虫図鑑 ★ 2021/01/08(金) 08:29:56.37 ID:CAP_USER
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    朝鮮半島をめぐって日本と清との間で起こった日清戦争。大国であった清を相手に日本が勝利したことは世界中に大きな衝撃を与えた。当時の清は国内の改革で日本に先んじていたはずだが、なぜ日本に敗れたのだろうか。中国メディアの百家号は3日、この理由について分析する記事を掲載した。

     記事はまず、当時の清国内では太平天国の乱の後、洋務運動が始まって西洋の武器を学び、工業の近代化に着手したと紹介。日本ではこれに少し遅れて明治維新が始まったと伝えた。ところが、30年後の日清戦争で先に改革をスタートさせていたはずの清が日本に負けたと悔しそうに述べている。

     また、日清戦争時の清軍は西洋式の軍服を身にまとい、西洋式の銃を持ち、ガトリング砲などの連射火器も装備していたと紹介。ドイツ軍から顧問を招聘してドイツの戦術も学んでおり、どこからどう見てもアジア最強の軍隊だったはずだが、「それは表面的なものに過ぎなかった」と指摘した。

     具体的には、清の精鋭軍はその内部が「腐敗と無知で満ちていた」と分析。士官は基本的に軍事教育を受けていない人ばかりで、士官選抜の基準は「弓矢に秀でて勇猛」という昔ながらの基準だったという。これは北洋艦隊も同様で、最新の装備を持っていたものの、相応する戦術と思考が足りなかったと指摘。「盲目的に表面を真似た」だけで、西洋の「制度」を採用せず、「既得権益を手放せなかった」ことが敗戦の大きな要因だったと論じた。

     こうしてみると、日本が清に勝利したことは必然の結果だったとも言えそうだ。「表面的に真似る」というのは、パクリが横行する現代中国でもやはり見られる傾向であり、歴史から教訓を学べてないのかもしれない。(編集担当:村山健二)


    サーチナ
    http://news.searchina.net/id/1695862?page=1

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