かたすみ速報

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    タグ:朝鮮

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    1: ハニィみるく(17歳) ★ 2021/12/12(日) 21:05:02.90 ID:CAP_USER

    イザベラ・バード
    19世紀のイギリスの旅行家イザベラ・ビショップ(イザベラ・バード・ビショップ)は、1894年から1897年まで4回にわたり韓国に長期滞在した経験を基に、『朝鮮とその隣国』という有名な旅行記を残した。本は韓国の近現代史専攻者によって隅々まで分析され、一般人の中にも読んだ者は少なくない。私は最近になって読んだのだが、旅行記的な興味よりも120数年前の朝鮮人と極東情勢に対する著者の冷静な評価が深く感じとれた。

    イザベラ・バード(韓国語の原文は “ビショップ”)は当時、アジアで唯一『文明国』の冷遇を受けた日本について全般的に友好的である。それは韓国人の読者を少々不愉快にしてしまう。例えばこのような部分である。「中国宗主国の庇護の下、朝鮮の両班(ヤンバン)は貴族的生活の風潮だった強圧と独裁の無限の機会を享受していた・・・朝鮮の農民は日本と西洋の教育を通じて、自分たちが最終収奪の対象であることが必然的な運命ではないという点と市民権、法における平等権、財産を保護できる権限を与えられた点を少しずつ悟ってきた」。

    今の韓国で市民権や法治主義、私的財産権のような近代性の基本価値を韓国に移植した主体が日本であると主張すれば、『植民地近代化論者』というレッテルをすぐさま貼られる。『土着倭寇』だと言われるかも知れない。これは今の私の言葉ではなく、清日戦争(日清戦争)を前後して朝鮮を4回も深く観察したイギリス人の主張を伝えているのである。

    イザベラ・バードの主張は続く。 「(清日戦争後の3年間で)中国との従属関係が終わり、日本が勝利することで中国の軍事力は決して崩れないという朝鮮の信頼は壊れ、政治的に腐敗した(中国と朝鮮の)二つの体制の同盟は断絶した。両班と庶民の区分は奴婢制度とともに少なくとも文書上では廃止された。野蛮的な処罰と拷問も廃止されて便利な貨幣が現金に代わり、向上した教育制度が実施されて訓練された軍隊と警察が創設された」。

    どうだろう。帝国主義の元祖国出身の旅行家が日本の帝国的野心に目を背け、法外な称賛を並べたのか。あるいはそうするかも知れない。だがしかし、清日戦争以前に朝鮮が清の属国だったこと、清日戦争後に下関講和条約を通じて、この従属関係が公式に終わったことは客観的な事実である。韓国の歴史教科書は、この事実を十分に教えていない。教科書は朝鮮の体制矛盾は目を逸らし、その結果、朝鮮を実際よりも美化している。

    韓半島(朝鮮半島)で『独立』という言葉が大衆的に使われ始めたのは、ビショップが旅行記を書いたこの頃だった。1896年に独立協会が結成され、すぐに独立新聞が発行された。中国の使臣を迎接した『迎恩門』が、現在の独立門に変わったのも1897年だった。この時の独立はもちろん、中国からの独立を指している。本来、独立していた者は独立という言葉を使う必要がない。清日戦争以前の朝鮮は、独立していたた国ではなかったのである。

    イザベラ・バードは清日戦争の後、露日(日露)が角逐する韓半島の情勢について次のように助言している。「朝鮮は自力では支えられないため、このような困難な状況が解決されなかった場合、朝鮮は日本やロシアの保護下に入らなければならないだろう」。ご存じの通り、実際にそのようになった。イザベラ・バードの次の文章が特に私の胸を打った。「使い方が分からない独立性という贈り物を朝鮮は日本から与えられた」。朝鮮は数百年間独立状態だったのだが、ある日突然、日帝に侵奪されたのではなかった。朝鮮の独立は非常に短く、それは日本が清日戦争で勝っから与えられた贈り物だった。イザベラ・バードにはそのように見えていた。

    独立という贈り物の扱い方が分からず、右往左往する朝鮮朝廷の様子をイザベラ・バードは次のように記述している。「(露館播遷で親露派が勢力を得た状況で)宮内府と王の側近は再び最も醜悪な方法で売官買職を始めた。誰も牽制しないこの悪習は最も悪辣な慣習だった。膨大な官職を掌握している王は公金を私的に流用して、自分の身近が安全で日本の干渉もなくなるとすぐさま自分の王朝の過去の弊習に復帰した」。

    毎日経済(韓国語)
    https://www.mk.co.kr/news/politics/view/2021/12/1130727/


    【【韓国】「朝鮮人に愛国心はなく、民族的本能だけがある」】の続きを読む

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    1: 昆虫図鑑 ★ 2021/10/09(土) 09:24:56.67 ID:CAP_USER
    ※韓国語の独自文字「ハングル」は韓国の自慢である。人類史上、最も新しい文字であり、ハングルが公表された10月9日は「ハングルの日」として韓国の祝日となっている。大勢の韓国人は、日本が韓国語やハングル使用を禁止したと言うが、それは「内鮮一体」時期の数年間だけの事であった。

    「ハングル」を最初に学校教育に導入して体系的に教えるようにしたのは、日本の朝鮮総督府だった。当時の朝鮮は、王宮や官僚など、一部の知識人が漢文で読んだり書いたりもしていたが、一般民衆はこれが不可能であり放置されていた。

    ハングルは15世紀に発明されたが、文字を独占していた特権階層の反対に妨げられてキチンと使用され得なかった。朝鮮のハングルを再発見して、既存の日本の「漢字-仮名混用文」に着目して「漢字-ハングル混用文」を考案したのは、日本の先覚者「福沢諭吉」(1835~1901)であった。

    その後、朝鮮総督府は小学校の段階からハングル教育用の教科書を準備して、日本が韓半島(朝鮮半島)に建てた5200か所の小学校でハングルを学べるようにした。日本は韓国人から言語を奪ったのではなくて、反対に韓国人が自らの母国語をキチンと読み書き出来るように文字を整備した。

    加えて合併当時、韓国人の平均寿命は24歳だったのだが、日本統治期間中に2倍以上に寿命が延び、人口の絶対数もまた倍増した。米の収穫量は3倍となり、餓死が根絶された。禿山には6億本の樹木が植林され、100kmであった鉄道が6000kmへと延長された。「水豊ダム」は当時、世界最大級の水力発電所であった。

    このような韓半島地域の発展に要した資金は、当時の日本政府が(日本国民の税金で)全て負担した。現在の価値で換算すれば60兆円以上の莫大な資金が当時の韓半島に投入された。本国(本土)からこのような莫大な資金を引き出して、植民地を近代化させたケースは世界的に類例がない。

    ※この記事は韓国の保守論客ファンドビルダーさんの寄稿文を日本語に翻訳したものです。韓国メディアには既に韓国語版が公開されています。翻訳の正確さに対する責任は当社にあります。

    WOW!Korea
    https://www.wowkorea.jp/news/japankorea/2021/1008/10318075.html

    【【韓国の不都合な真実】「漢字とハングルの混用」を最初に考案した人=日本人の韓国語に対する貢献】の続きを読む

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    1: 昆虫図鑑 ★ 2021/09/20(月) 08:03:39.82 ID:CAP_USER
    kr250
    太平洋戦争が終わった頃、日本に居住していた朝鮮人は190万人程であった。その内の120万人は韓半島(朝鮮半島)へ帰り、70万人ほどは日本に残留した。

    日本に居住していた朝鮮人の人口は1911年(※日韓併合の翌年)の2527人を嚆矢として、終戦直前の1944年には193万6843人に増加した。33年間で760倍以上増加したわけだ。

    この期間中、1914年にのみ在日朝鮮人の人口が前年比でマイナスを記録しただけで、残りの年度は全て前年比でプラスを記録した。1917年の場合、前年比で150%以上の増加率を記録した。

    1911年の2527人からスタートし、1944年に193万人以上の人口となったのは、全期間で毎年平均22%以上の増加率を見せたという話となる。

    特記すべきことは「3・1運動(※万歳事件)」を契機に1919年に日本政府が朝鮮人の日本への渡航を抑制する措置を取ったにもかかわらず、その後、日本へ渡って行く朝鮮人の規模は変わらず増加したという点だ。

    また関東大震災が発生した1923年の在日朝鮮人の人口は8万415人であったのだが、翌年の1924年の在日朝鮮人の人口が11万8152人へと大きく増加したのも特記するに値する。

    一言で言って、日帝時代の期間中、韓半島の朝鮮人は就業、学業、新たな機会追求など、様々な事由で絶え間なく日本の地へと渡って行ったことが分かる。

    ●日本に居住する朝鮮人の人口(※出処:森田芳夫、『数字が語る在日韓国・朝鮮人の歴史』)
    1911年、2527人
    1912年、3171人(前年比増加率、25.5%)
    1913年、3635人(14.6%)
    1914年、3542人(-2.6%)
    1915年、3917人(10.6%)
    1916年、5624人(43.6%)
    1917年、1万4502人(157.9%)
    1918年、2万2411人(54.5%)
    1919年、2万6605人(18.7%)※朝鮮人の日本への渡航制限措置
    1920年、3万189人(13.5%)
    1921年、3万8651人(28.0%)
    1922年、5万3722人(39.0%)
    1923年、8万415人(49.7%)※関東大震災発生
    1924年、11万8152人(46.9%)
    1925年、12万9870人(9.9%)
    1926年、14万2798人(10.7%)
    1927年、16万5286人(14.9%)
    1928年、23万8102人(44.0%)
    1929年、27万5206人(15.6%)
    1930年、29万8091人(8.3%)
    1931年、31万1247人(4.4%)
    1932年、39万543人(25.5%)
    1933年、45万6217人(16.8%)
    1934年、53万7695人(17.8%)
    1935年、62万5678人(16.4%)
    1936年、69万501人(10.4%)
    1937年、73万5689人(6.5%)
    1938年、79万9878人(8.7%)
    1939年、96万7591人(21.0%)
    1940年、119万444人(23.0%)
    1941年、146万9230人(23.4%)
    1942年、162万5054人(10.6%)
    1943年、188万2456人(15.8%)
    1944年、193万6843人(2.9%)※朝鮮人への徴用開始
    ●朝鮮人青年の日本軍志願入隊の現況
    1938年:400人の募集に2900人余りが志願(競争率、7.2対1)
    1939年:600人の募集に1万2300人余りが志願(20.5対1)
    1940年:3000人の募集に8万4400人余りが志願(28.1対1)
    1941年:3000人の募集に14万4700人余りが志願(48.2対1)
    1942年:4500人の募集に25万4300人余りが志願(56.5対1)
    1943年:5330人の募集に30万3400人余りが志願(56.9対1)

    1940年(競争率、28.1対1)の場合、志願したが脱落して日本軍に入隊出来なくなったことを悲観した江原道横城郡のある青年(李某)が自殺する事件が発生した。

    ※この記事は韓国の保守論客ファンドビルダーさんの寄稿文を日本語に翻訳したものです。韓国メディアには既に韓国語版が公開されています。翻訳の正確さに対する責任は当社にあります。

    WOW!Korea
    https://www.wowkorea.jp/news/japankorea/2021/0919/10315634.html

    【日帝当時、「渡日」や「日本軍へ志願」した朝鮮人の規模=韓国が隠したい歴史資料】の続きを読む

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    1: 蚯蚓φ ★ 2021/09/17(金) 21:12:54.50 ID:CAP_USER
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    ▲日帝強占期、大田(テジョン)地域初の独立運動である3・16忍冬市場独立万歳運動の再現.
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    ▲過去の忠南道立医療院の1962年の姿.日帝がたてた病院や朝鮮人の利用はきわめて低調だった。(写真=忠南道歴史文化研究員提供)

    コロナ19パンデミックと比べられる1910年代スペイン風邪流行時、日帝強占期の忠清(チュンチョン)南・北道で2万人余りが亡くなり、コレラ患者も1728人発生したことが調査された。

    全世界を席巻したスペイン風邪が3.1運動と直・間接的に関連性がある、という分析が継続的に提起される中、忠清圏の大流行と被害規模を究明して注目される。

    大田(テジョン)示唆編纂委員会が歴史文化学術大会の一環で開催した「大田の医療と衛生」セミナーでファン・サンイク、ソウル大医科大学名誉教授が医学史次元でパンデミックを分析した。

    ファン名誉教授は日本内務省が1922年発行した「流行性感冒」を分析し、1918年秋から1919年1月までスペイン風邪が韓半島でも大きく流行し死傷者が大きく発生したと明らかにした。スペイン風邪は1918年、第一次世界大戦末である1918年、米国とヨーロッパで発生して世界的に2000万~5000万人の人命被害を招いた20世紀最悪のパンデミック伝染病だ。

    ファン教授は「流行性感冒」に記録された患者と死亡者統計を通じて1918年秋から翌年1月まで全国で朝鮮人13万9137人、日本人1297人が亡くなったと分析した。当時、朝鮮人人口1670万人中74万人が感染したほど大流行し、死亡率と致命率が忠南で特に高かった。

    忠南・北の朝鮮人人口184万人中99万人がスペイン風邪患者であり、このうち1万8926人が命を失った。人口1000人当り死亡者数は忠南で13人に達し、患者100人当り2人が亡くなるほど致命率がとても高かったと分析した。

    また、3.1運動の熱気が依然として残っていた1919年8月からは韓半島に再びコレラが荒れ狂って1万6617人の患者が発生し、1万1339人が亡くなったと集計した。この時、忠南は1919年612人、1920年483人など合計1095人がコレラで命を失った。

    ファン教授は続く発表で日帝強占期に朝鮮人が保健・医療面で深刻な差別を受け、保健医療体系に費用を当てても恩恵は受けられなかったと主張した。朝鮮人の法定伝染病死亡者が朝鮮にいる日本人より大幅に縮小統計されているが、日帝当局は朝鮮人法定伝染病患者と死亡者の研究を正しくしなかったからだ、と分析した。

    ファン名誉教授は「朝鮮人に関する法定伝染病統計は日帝が朝鮮人伝染病問題を徹底して放置した事実を知らせてくれる」と明らかにした。また、日帝は日本本土とは異なり植民地では伝統医師を区分して差別したが、1913年、医生規則を制定して伝統医師を医師でない医生という名称で養成を抑制し自然減少するようにした。

    朝鮮総督府統計年譜を引用して忠清南北道の場合、1940年から1943年まで医生1人当り健康をみるべき住民は6000人余りもなったと分析した。特に、日帝は強占期に官立・道立医院を増設し、1943年には道立医院が全国47個まで増えたが、医師はほとんど日本人(81%)で、朝鮮人病院長は一人もいなかった点も資料調査を通じて明らかにした。

    朝鮮総督府統計を通じて道立医院を利用する患者は日本人が圧倒的に多かったし、朝鮮人利用者は非常に微小で、時間が過ぎてもほとんど増えなかった。

    ファン名誉教授は「日帝は自分たちが良い統治をして朝鮮の発展をもたらし、朝鮮が近代化され、文明国家に発展し始めたと主張するが、保健医療の側面からも道立医療機関設置と運営のための費用を負担しただけで、恩恵はほとんど享受されなかった。日本人のための医療機関にすぎなかった」と明らかにした。

    イム・ビョンアン記者

    中都日報(韓国語)
    http://m.joongdo.co.kr/view.php?key=20210917010003758

    【【また韓国の嘘】3.1運動後、スペイン風邪が大流行~日帝は保健医療で朝鮮人差別、病院は建てても日本人用】の続きを読む

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    1: 右大臣・大ちゃん之弼  2021/07/14(水) 17:33:20.34 ID:CAP_USER
    kr250
     
     ハイヒールは本来、ファッション用品ではなかった。『風俗の歴史』を書いたドイツの歴史学者エドゥアルト・フックスは、「ハイヒールは排せつ物を避けるために考案された」と説明した。下水処理施設がない各家庭から窓の外に捨てられる排せつ物を踏んでしまわないように、と作られた履物だった。そのうち16世紀になって、水槽にためた水を流す方式の水洗便器が英国で登場して町の様子が変わり、ハイヒールも今のような用途で使われるようになった。

     水洗式トイレの歴史は、スコットランドで1万年前の遺跡が発見されるほどに長い。韓国も雁鴨池付近で、8世紀の統一新羅の、排せつ物を水で押し流す水洗式トレイが出土した。フランス南部の都市ビエンヌには、ローマ帝国時代、冬場に臀部(でんぶ)が冷えないように暖房装置まで備えた水洗式トイレもあった。だが、水洗式は水因性疾病のまん延を防ぐことはできず、むしろ悪化させた。1860年代、英国ではコレラにより数万人が命を落とした。調査の結果、排せつ物を浄化する過程がないままテムズ川に流していたことが原因と判明した。欧州の公衆衛生は、トイレの衛生改善の歴史だ。

     景福宮で150年前に作られ、土に埋もれていた公衆トイレの遺跡が8日に公開された。水洗式である上に浄化施設まで備えていた。水の入り口よりも出口の方が高く、しばらく滞留させる方式で排せつ物の自然発酵を促進するという科学的構造だ。しかし、これは宮殿内部でのみ享受できる恩恵だった。1894年に朝鮮の地を踏んだ英国人イザベラ・バード・ビショップは「漢陽は世界で北京に次いで汚い都市」と記した。人々は通りに排せつ物をそのまま捨てていた。

    「トイレが不潔な国」だった韓国は、1988年のソウル・オリンピックとワールドカップを契機に、トイレ先進国へと飛躍した。オリンピックを前に、旧来のトイレを水洗式へと大挙更新した。ハードウエアの改善に続き、2002年のワールドカップの際には「トイレを清潔に使う」というソフトウエアの跳躍も実現した。1999年から毎年「美しいトイレ」公募展など、さまざまなキャンペーンを繰り広げて努力したおかげでもある。外国人は今や、韓国のトイレを見て感嘆する。スマートフォンで内部を撮っていくほどだ。

     昨年「美しいトイレ」大賞を授与された、水原・華城行宮に近い「美術館横のトイレ」は、所持品を置く棚、防水コンセント、動作感知センサーとLEFD(発光ダイオード)照明、女性のための授乳室や乳幼児用ベッドまで備えた施設だ。市民の利用態度も先進国レベルだ。今も世界の人口の4割は、きちんとしたトイレがないまま疾病にさらされて生きている。20世紀の中盤までは、韓国もそんな国だった。「漢江の奇跡」がトイレでも起きたわけだ。

    金泰勲(キム・テフン)論説委員

    朝鮮日報 記事入力 : 2021/07/14 13:56
    http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2021/07/14/2021071480093.html


    【【朝鮮日報】景福宮の水洗式トイレ 1894年 イザベラ・バード・ビショップ「漢陽は世界で北京に次いで汚い都市」】の続きを読む

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    1: ハニィみるく(17歳) ★ 2021/06/22(火) 09:08:27.43 ID:CAP_USER

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    ▲ 1936年9月23日付の毎日新報に掲載された、『大学目薬』広告に出たチェ・スンヒ。
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    チェ・スンヒ(崔承喜=さいしょうき)は100年に1人出るか出ないかの傑出した舞踊家だった。1911年生まれなので今年で生誕110周年になる。本人はソウルで生まれたと話し、記録も残っているというが、「江原道(カンウォンド)洪川(ホンチョン)諸谷里(チェゴクリ)で生まれてソウルに行ったと親戚が証言した」という食い違った主張がある。チェ・スンヒは1926年に日本に留学して日本の現代舞踊の第1世代である石井漠を師事した後、1929年に韓国に戻った。翌年2月、毎日新報の主催でチェ・スンヒ舞踊研究所・第1回創作舞踊公演を開いた。まだ20歳にも満たない年齢だった。

    チェ・スンヒは1930年代に日本や中国、ヨーロッパ、米国、南米にまで進出した韓流の元祖中の元祖だった。1936年に世界の舞台に進出したチェ・スンヒは草笠童(チョリプドン)、僧舞(ソンム)、花郎舞(ファランム)、長鼓踊り(チャングチュム)など韓国伝統の舞踊を披露して、一気に東西洋の人々を虜にした。石井から現代舞踊を学んだが、創作の韓国舞踊で世界を制覇したのである。画家のパブロ・ピカソと小説家のジョン・スタインベックも公演を見て、チェ・スンヒに夢中になった。 俳優のロバート・テイラーは、ハリウッド映画の出演を斡旋した。チェ・スンヒは1938年、ベルギーのブリュッセルで行われた第2回・世界舞踊コンテストで審査委員を引き受け、米国NBCと提携して米国全域を縦断しながら公演し、中南米の舞台にも上がった。米国ニューヨークで公演した後、『世界の10大舞踊家』という評価を得た。

    チェ・スンヒは、数十年前までは口には出せなかった。チェ・スンヒが越北した事実と、越北した理由の一つとして数えられる親日行跡からである。今でも軽率に、「チェ・スンヒの越北と親日問題を芸術的業績と分離すべきだ」と主張するのは容易でない雰囲気だ。チェ・スンヒが日本軍や北韓(北朝鮮)軍の前で慰問公演をした事実を知ればなおさらだ。

    チェ・スンヒは舞踊の実力だけでなく、美貌も優れていた。日本の美人コンテストで入賞したという説もある。170cmの長身と西洋的な容貌を持つチェ・スンヒの名声は、最近で言えばキム・ヨナを凌いでいたはずだ。今の業界とは比較できないが、当時の広告業界と映画界はチェ・スンヒのような『大魚(テオ)』を放っておくはずがなかった。チェ・スンヒは現在の人気芸能人のように映画や歌劇にも出演して、数多くの化粧品やお菓子、薬、歯磨き粉、文具の広告モデルとして活動した。『味の素』、『森永製菓』、『大学目薬』、『クラフ歯薬』、『ピカソクリーム』、『明色美顔水』、『ヘチマコロン』などの広告に出演した姿を見つけることができる。特に最近では、1935年の日本の雑誌『主婦の友』に掲載された松板屋百貨店の広告で、水着を着て全身を撮影した姿が公開された(チェ・スンヒ研究家=チョ・ヂョンフィPD)。 上の大学目薬の広告には、『半島の踊り子、チェ・スンヒ嬢』と書かれている。

    ソウル新聞(韓国語)
    https://www.seoul.co.kr/news/newsView.php?id=20210621030002&

    【【韓国】キム・ヨナを凌ぐ広告モデル、チェ・スンヒ】の続きを読む

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    1: 名無しさん@おーぷん 21/04/04(日)21:29:11 ID:euTr

    【【歴史的】1912年の韓国のカラー動画www【貴重】】の続きを読む

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    1: 昆虫図鑑 ★ 2021/01/29(金) 13:32:27.00 ID:CAP_USER
    753年(新羅景徳王12年)1月1日、唐の蓬莱宮では新年を祝う儀式が挙行された。ところが式場に出席した新羅の使臣と日本の使臣の間で争いが生じた。どちらが序列が高い位置に立つかをめぐってだ。当初、唐の朝廷は西班の序列1位に吐蕃の使臣、2位に日本の使臣、東班の序列1位に新羅の使臣、2位に大食国の使臣を配置した。ところが日本の使臣の大伴古麻呂は「新羅は昔から日本に朝貢する国だが、日本の使臣より上の位置に立つのは受け入れられない」と唐の官吏らに抗議した。唐の朝廷の責任者、呉懐実はあたふたと日本の使臣と新羅の使臣の位置を入れ替えた。唐の朝廷から誰がより高く待遇されるかをめぐり新羅と日本の使臣が争ったことを「争長事件」と呼ぶ。

    争長事件で注目されるのは日本の使臣が新羅を自分たちの朝貢国と規定した事実だ。いわば、日本は「皇帝国」であり、新羅は皇帝に頭を下げる「蕃国」ということだ。このように自国を高めて新羅を見下げる意識は『日本書紀』を通じて公式化された。『日本書紀』仲哀天皇9年条には「仲哀天皇が死去しての神功皇后が新羅征伐に動くと、新羅の王が日本を神国、日本の王を天皇、日本の兵士を神兵と呼んで降伏した後、永遠に朝貢することを誓った」という説話がある。新羅の王の口を借りて日本を持ち上げるこの内容は、今日では日本の史学者も明白に伝説だと評価するが、以後の韓日関連史に及ぼした影響は非常に大きく深刻だった。日本人が韓半島(朝鮮半島)を蔑視する認識の出発点になったからだ。

    (略)

    古代から日本が神国、天皇の国を自負したのは、中国とは対等であり、韓半島より一等級上の国であることを示すためだった。さらに壬辰倭乱以降、日本は自国を「武威の国」と、朝鮮を「武備がない虚弱な国」と規定した。半面、朝鮮は自分たちが中国と最も親しく、中国に次ぐ文明国という事実を日本に対する優越意識の根拠として前に出した。日本は朝鮮を「中国の虚弱な属国」と見なした一方、朝鮮は日本を「中華文明を知らない野蛮国」と罵倒した。

    このようにお互いを眺める根源的な内心は違ったが、壬辰倭乱後の200年余り、朝鮮と日本は平和な関係を維持した。しかし19世紀以降、西欧列強の軍事的脅威に危機感を強めた日本の知識人はまた天皇を呼ぶことになった。代表的な人物が吉田松陰(1830-59)だ。吉田松陰はロシアとの貿易で失ったものを朝鮮と中国を征服して埋めなければいけないと主張した。吉田松陰は「天皇が治めた古代は韓半島が日本に朝貢したが、その後は傲慢だった」とし、神功皇后と豊臣秀吉の偉業を継承して朝鮮を占領すべきだと強調した。朝鮮を征服して天皇にひざまずかせることこそが本来の国体を回復する道だと力説した。いわゆる征韓論を露骨に表したのだ。

    吉田松陰は夭折したが、征韓論は弟子の伊藤博文(1841-1909)らによって行動に移された。韓半島侵略の象徴的な人物である伊藤博文は自らを豊臣秀吉の生まれ変わりと考えた。伊藤らが韓国を侵略して保護国にし、最終的には植民地として奪取する過程は、過去に神功皇后や豊臣秀吉が掲げた「神国の偉業」を実現したということだ。

    実際、1910年8月29日、明治天皇は「東洋の平和と帝国日本の安全を保障するために韓国を日本帝国の保護の下に置く」という内容で、いわゆる併合詔書を出した。そして同日、朝鮮の純宗を昌徳宮(チャンドックン)李王、高宗を徳寿宮(トクスグン)李太王とする詔書も出した。8世紀以降、自らを神国・皇国と称して韓半島に皇帝として振る舞うことを望んだ「千年の願い」が実現する瞬間だった。

    同年11月、韓国を強制的に併呑したことを記念するために発行された雑誌『歴史地理朝鮮号』の編集者は、感激のあまり発刊の辞を書いた。「韓国併合は古代以来の日本の歴史的懸案が解決されたもの」ということだ。

    こうした歴史を振り返ると、解放以降、韓国人が日本の国王を天皇と呼ぶのは簡単でなかった。韓国政府が1998年から外交的には「天皇」を公式用語といて使っているが、内部では「日王」と呼ぶべきだという主張が少なくない。先日、新任駐日大使が日本に赴任した直後「天皇陛下」という呼称を使ったことをめぐり、また論争が生じている。天皇をめぐる葛藤が1000年以上累積してきた韓日間の特別な歴史と、日本との友好を維持すべき最近の現実の間で、果たしてどこに重心を置くべきなのだろうか。

    ハン・ミョンギ/明知大史学科教授

    中央日報
    https://japanese.joins.com/JArticle/274987

    【【韓国コラム】日本の韓蔑視、1300年続く傲慢と偏見…「朝鮮は我々の臣下」】の続きを読む

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    1: 蚯蚓φ ★ 2021/01/07(木) 00:05:50.67 ID:CAP_USER
    日帝強制占領期間、日本は朝鮮を永久に植民地化しようと東洋拓殖会社を筆頭に農業移民政策を展開した。

    全北(チョンブク)井邑市(チョンウプシ)禾湖里(ファホリ)は政策初期移住地に選ばれ、多くの日本人が移住して大規模農場が開設された。開墾された多くの農地と大地の所有権はクマモト・リヘイ(熊本利平)等日本人に移転され、自営農だった土着民は小作農に転落した辛い歴史があった。

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    ▲国立完州文化財研究所が発刊した《日帝強制占領期間、農村収奪の記憶・禾湖里Ⅰ》.[写真=文化財庁]

    一方、解放後には熊本利平農場所属医師だったイ・ヨンチュン博士が劣悪な農村保健問題を改善しようと残って農場施設を活用し入院室と内科など5科の診療科目を備えた禾湖里中央病院を設立しその跡が残っている。

    文化財庁国立完州文化財研究所は日帝強制占領期間の農村収奪と解放後の農村保健の歴史が残っている全北井邑市禾湖里で実施した学術調査結果を入れた報告書《日帝強制占領期間、農村収奪の記憶・禾湖里Ⅰ》を発刊した。

    今回報告書には植民地禾湖里の日本人地主と禾湖里の植民地記憶、景観をはじめとして
    △新聞記事と地図、写真、公文書等を通して当時の禾湖里の歴史と人文地理考証
    △建築物の現況と不在種調査、植生調査、石材産地調査、デジタル記録を試み、
    近‧現代の有形資産の総合的調査‧研究‧記録成果を記録した。

    国立完州文化財研究所は教育資料で活用できるように禾湖里に残った積算家屋6棟と解放後空間変化などをデジタル映像資料でも製作した。この映像を報告書のQRコードに挿入し、スマートフォンなど携帯機器で再生して見ることができるようにした。

    《日帝強制占領期間、農村収奪の記憶禾湖里Ⅰ》は国公立図書館、地方自治体などに配布される。

    カン・ナリ記者

    コリアンスピリット(韓国語)
    http://www.ikoreanspirit.com/news/articleView.html?idxno=61611

    【【嘘つき韓国】 「日帝は私たちの農村をどのように収奪したか?」~『日帝強制占領期間、農村収奪の記憶・禾湖里Ⅰ』発刊】の続きを読む

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    1: 蚯蚓φ ★ 2020/12/14(月) 00:30:34.84 ID:CAP_USER
    no title

    ▲パク・ソクコン教授は論文で朝鮮総督府と九州帝国大学がそれぞれ1915年と1934年に作成した植生分布図を重ねて地図に示した。資料国立公園公団
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    ▲日帝強制占領期間、徳坪(トクピョン)峰一帯の焼き畑の村。資料国立公園公団

    「母なる山」智異山(チリサン)の100年前の姿を調べた論文が発表された。11月16日、国立公園論文公募展で最優秀賞を受賞した<日帝強制占領期間、文献を中心にした智異山国立公園の時代的状況考察>だ。

    論文の著者はパク・ソクコン国立順天(スンチョン)大学山林資源・造園学部教授で、日帝強制占領期間、植物学者、中井猛之進と帝国大学演習林関係者が記録した智異山関連文献4冊を翻訳して当時の状況を分析した。同論文によれば、100年前の智異山の姿は今の植生と全く違っていたという。

    不明瞭な政局が続いた朝鮮末期、山林管理がまともになされず、地域住民が堆肥や燃料、農機具材料などを得るために山林伐採を継続したからだ。東京帝国大学演習林報告書には1925年当時、智異山一帯の約70%が一時的あるいは永久的無立木地(木が殆どない山林)で、樹林を形成する場所は28%だったとある。

    植物群落もやはり現在とははっきりと異なっていた。朝鮮総督府と九州帝国大学がそれぞれ1915年と1934年に作成した植生分布図と2018年国立公園公団精密植生図を比較するとアカマツ林は18.18%から7.29%に急減し、モンゴリナラ群落は11.87%から41.78%に急増したことが分かった。これは長く智異山圏が保存され、自然な森の遷移過程が進んだものと解釈される。

    一方、当時記述された文献は「日帝強制占領期間、日本帝国大学が智異山に研究目的で演習林(現在の学術林)を設置し、造林事業を進めながら地域住民の焼き畑と山林伐採を禁止して山林保護に寄与した」と記述した。

    しかし、パク・ソクコン教授は本紙との通話で「断片的に解釈すれば日本帝国大学が智異山保全に尽くしたように見えるが、歴史的真実はそうではない」と一蹴した。

    「当時、智異山に演習林を設置した大学のうち九州帝国大学と京都帝国大学は関連学科の農学部がないのに演習林を設置した。これは明確に研究目的より経済的利益を創出するために演習林を設置したという意味だろう。実際に地域住民に演習林で伐採した木や生産した炭を販売した記録もある。つまり演習林は植民地収奪の手段だったという事だ。」

    パク教授は付け加えて「今の定規で当時の地域住民たちの山林利用を判断してはならない」として「当時のご先祖に低地産地は保存対象でなく唯一の生計の手段だった。日本人たちは植民地支配層の認識で彼らをあたかも未開な環境破壊犯のように追い立てた」と話した。

    「演習林設置によって智異山で暮らしてきたご先祖は生活の基盤を失うことになった。私はこのご先祖と今の国立公園内部や近隣で暮らす地域住民が重なるとみている。過去の歴史を教訓にして地域民を管理対象でなく国立公園保全のための協力者として参加できるよう政府が出て助けるべきだと思う。」

    朝鮮日報(韓国語)
    http://san.chosun.com/site/data/html_dir/2020/11/24/2020112401633.html

    【【韓国】 100年前、700メートル以下の低地帯は禿山だった~日帝は住民を未開な環境破壊犯と見なして追い出した】の続きを読む

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    1: 新種のホケモン ★ 2020/11/06(金) 17:26:59.60 ID:CAP_USER
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    韓国では日本統治下の朝鮮半島の状態について色々な呼び方がある。最近定着しつつある「強制占領」を始め、「植民地時代」「日帝支配」「日政」「倭政(倭政時代/倭=チビなので日本を侮蔑するニュアンス)」等がある。

     ただ、昨今の「日韓請求権並びに経済協力協定」を巡る最高裁判決に見られる様に、日本の支配が非合法、不当、反人道的、残虐非道な暴力支配であったという点を強調したいが為に、軍事力・暴力による「強制占領」という表現に政治的にも、法的にも統一されつつある。

     では実際問題、日本統治下の朝鮮半島の性質や法的な地位は、どの様に定義すれば良いのだろうか。日本では概ね、日韓併合条約を通して併合したので「日本の一部(譲歩して外地)」だという右派・保守派と、統治の実態を注視すれば「植民地」であったという左派・進歩・革新派とに分かれている。勿論、韓国に同調・同情し、「強制占領」を用いる識者も少数だが存在するようだ。

     まず日韓併合の合法性だが、「桂・タフト協定」を始めとした利害関係のあった諸国との合意も有った上に、当然1910年までの国際法を基準に判断すべきもので、韓国以外の第三国でこれを否定する主張は、見た事も聞いた事も無い。従って「(軍事力・暴力による非合法な)強制占領(状態)」という表現は、韓国以外では通用しないだろう。

     一方で、「日本の一部」というのも、統治の実態を注視すれば否定せざるを得ない。何故ならば、もし本当に「日本の一部」として統治したというのであれば、何故大日本帝国憲法を始めとした国内法の施行をしなかったのか、朝鮮総督府による条例や法解釈が優先されたのかについて正当化の説明が必要だろう。

     例えば「治安維持法」だが、日本国内においてはあくまで共産主義・社会主義のみが国体破壊の思想として取締り対象となったが、朝鮮内では非「共産主義・社会主義」系の民族主義的な朝鮮独立もまた国体破壊の思想として取締り対象となった。

     ちなみに1910~20年代、石橋湛山ら「東洋経済新報」系の識者らは財政上の理由から満州・朝鮮の放棄と独立を訴える「小日本主義」を展開したが、日本国内の治安維持法の対象とはならなかった。

     こうした統治の実態や別々の法体系による支配を踏まえると、また当時の日本人自身が朝鮮半島を植民地視していた点も含めて考えれば、「植民地」であったと定義するのが一番適切だと考える。

     なお北海道・沖縄県も当初は大日本帝国憲法を始めとした国内法の施行がなされず、徴兵や選挙も実施されなかった。故に韓国でも有名なあの夏目漱石は北海道に本籍を移す事で徴兵逃れをしたというのは有名な話だ。この北海道・沖縄県の法的な状態を「外地」としていたとのことだ。

     朝鮮・台湾も北海道・沖縄県同様に一定期間を経れば、大日本帝国憲法を始めとした国内法の施行や徴兵・選挙も実施されて「内地」扱いされる予定だったので、「日本の一部(譲歩して外地)」だとの意見もある。

     確かに特に1930~40年代に徴兵・選挙も計画・準備された点を踏まえれば、「外地」であれば一定の説得力はあるものの、「内地」扱いが実現しなかった史実を考えれば、「植民地」であったと定義するのが一番適切なのかもしれない。

     だが「植民地」であれ、「外地」であれ、一定の説得力のある定義とは異なり、「(軍事力・暴力による非合法な)強制占領の状態」という表現は、史実に合致しない部分がある。あくまで解放後の韓国国内の対日請求権等の要求を通す為の政治カードなど、政治的な産物としての表現・定義のようだ。

     今、こじれつつある日韓関係の回復は、”同じ史実”に対する”同じ認識”、そして”同じ認識”のための”同じ呼び方”から、つまりゼロから始めるべきかもしれない。

    WoW!Korea 11/6(金) 16:51
    https://news.yahoo.co.jp/articles/0bb4b5636554aa860a69b0c790501be4ab9d638c



    【【日本統治下の朝鮮半島】「植民地」か「日本の一部」か「強制占領の状態」か?呼び方の訳 日韓関係の回復はゼロから始めるべき】の続きを読む

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    1: 新種のホケモン ★ 2020/10/07(水) 15:57:41.09 ID:CAP_USER
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     日本人に対する蔑称「JAP(ジャップ)」は元々、「JAPANESE(ジャパニーズ)」の略語だった。

     東京造形大の前田朗教授(国際刑法)によると、差別的なニュアンスを帯び始めたのは、日系移民が増えた第1次世界大戦直後にさかのぼる。米国で日系人排斥の動きが高まったのが原因で、前田教授は「歴史とともに意味が変わった。使い手のモラルが問われる言葉だ」と指摘する。

     そのモラルが問われる騒動があった。兵庫県サッカー協会の事務局長だった男性が酒席で、在日コリアンのサッカー関係者を「朝鮮、かかってこいや」などと挑発。協会の臨時総会でも「拉致国家、反日国家である朝鮮が嫌いであるという個人的なこと」と発言し、差別的な言動を“正当化”しようとした。

     朝日新聞がこの問題を報じた記事はニュースサイトに転載され、「朝鮮は国名。何が差別なのか」「フランス人に『フランスかかってこい』と言ったら差別か」といった反応が相次いだ。言うまでもなく、朝鮮は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を指す言葉だ。

    取材考記 大阪スポーツ部・河野光汰記者

    (以下有料記事)

    朝日新聞 2020/10/6 17:48
    https://www.asahi.com/sp/articles/ASNB65RSMNB1PTQP00S.html

    【【アホの朝日新聞】「ジャップ」聞き流せますか 「朝鮮」に込められる差別】の続きを読む

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    1: 荒波φ ★ 2020/09/10(木) 12:46:12.42 ID:CAP_USER
    no title
    2020年9月9日、海外網は、在韓米軍がTwitter上で75年前の降伏文書署名式の写真を掲載したと報じた。

    記事は、在韓米軍(第8軍)が9日にTwitterを更新し、「1945年9月9日、朝鮮半島南部の日本軍がソウルで降伏した。これは35年に及ぶ日本による朝鮮半島統治の終了を意味するものだ。降伏文書調印式はソウルの朝鮮総督府で行われた」と書き込んだことを紹介した。

    そして、書き込みには2枚のモノクロ写真が付されており、1枚目は朝鮮総督府前で日本国旗が降ろされ、代わりに米国旗が掲げられて米兵が敬礼しながらその様子を見つめる写真、2枚目は日米両国の代表者が立ち会う中で、最後の朝鮮総督となった阿部信行が降伏文書に署名する写真だとしている。

    その上で、韓国・国民日報が「1945年8月15日に朝鮮半島が日本の植民統治から解放されたことで、韓国ではこの日が『光復節』と称されているが、『光復』から20日余り後の9月9日になってようやく、朝鮮総督府の日本国旗が降ろされ、星条旗に代わったのだった」と解説したことを伝えた。

    この件について、中国のネットユーザーは

    「前の植民者がいなくなり、新しい植民者がやってきた。それが今も続いている……」
    「結局、主が変わっただけだよね」
    「早く星条旗を五星紅旗(中国の国旗)に代えようじゃないか」

    といったコメントを残している。


    2020年9月10日(木) 12時30分
    https://www.recordchina.co.jp/b834486-s0-c10-d0135.html


    【【在韓米軍】ツイッターで日本国旗を降ろし、星条旗を掲げる写真投稿=中国ネット 「早く五星紅旗に代えようじゃないか」】の続きを読む

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    1: ばーど ★ 2020/08/17(月) 23:34:03.80 ID:kxnihPS19

    saporotisai
    北海道十勝地方の浦幌町のアイヌ民族の団体が、河川での経済的なサケ捕獲は先住民族の集団が持つ権利だとして、8月17日札幌地裁に提訴しました。

    17日に札幌地裁に提訴したのは、浦幌町のアイヌ民族の団体「ラポロアイヌネイション」です。

    訴状などによりますと団体は、河川での経済的なサケ捕獲は先住民族の集団が持つ権利「先住権」だとして、これを禁じた法律が適用されないことを国と道に求めています。

    ラポロアイヌネイション 長根弘喜会長:「元々もっているものを取り戻す自分がとった鮭で生計をたてるがんばっていきたい」

    提訴に対し、道は「訴状が届いておらずコメントできない」としています

    8/17(月) 21:00 北海道ニュースUHB
    https://news.yahoo.co.jp/articles/5f4651ffd17f32260d335f597036d046c61a8f9c

    【【パヨク】「河川での経済的なサケ捕獲は先住民族の集団が持つ権利"先住権"だ」浦幌町のアイヌ民族団体が提訴】の続きを読む

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    1: 昆虫図鑑 ★ 2020/08/01(土) 15:44:09.62 ID:CAP_USER
    秀吉
     
    ただ現実に秀吉が選んだ行動は、戦国時代の理論に基づくなら十分理解できるものです。それは、いわば「拡大の原理」です。大名は、戦争で勝って領土を獲得したなら、その一部を配下の武士たちに与えます。だからこそ武士たちは、主君である大名についていくのです。

     秀吉は、とくに気前の良い大名でした。秀吉は貧しい農民の倅なので、もともとの子飼いの大名がいなかったことがその理由として考えられます。秀吉の力が強大化する中で、どんどん増え続ける家臣らに対する求心力を維持するためには、とにかく領地を分け与えたりする必要がありました。そして家臣団がさらに膨らんでいくのなら、新しい領地を獲得しなければなりません。そのために大陸に目を付けた――という理屈には妥当性がありそうです。

    ただし、それだけではなかったようです。これに関連して、歴史学者の平川新氏が最近非常に大胆な説を唱えています(『戦国大名と大航海時代――秀吉・家康・政宗の外交戦略』中公新書、2018年)。

     平川氏は、日本はなぜスペインの植民地にならなかったのかという疑問を投げかけます。

     平川氏は、秀吉の朝鮮出兵によって、スペインは日本の軍事力の強さを知り、日本征服を諦めたというのです。そしてこのとき刻み付けられたら「軍事大国・日本」というイメージは、イエズス会やスペインでその後も強く意識され続け、徳川の時代にまでひきつがれたというのです。

    (中略)

    しかし、この強大な帝国の出現を前にしても、秀吉は彼らに恭順するような考えは持ち合わせていませんでした。スペインが世界の植民地化を目指し、明朝中国を狙っていると見抜くと、「スペインに明を征服されるくらいなら、自分が」と考えた。それが朝鮮出兵の本当の動機でした。さらには朝鮮半島、琉球、台湾、さらにはフィリピンをも服属させようとしていたばかりか、ポルトガル領インドを征服したいという意志さえもっていた――それが、平川氏の考えです。

    https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/61534

    【【歴史】なぜ秀吉は朝鮮出兵に踏み切ったのか】の続きを読む

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    1: Felis silvestris catus ★ 2020/06/25(木) 07:46:56.25 ID:O13gLdQ99
    https://snjpn.net/archives/202745
    テリマカシ 。。さんのツイート

    朝鮮人志願兵の写真を徴兵された朝鮮人の様に使い、 こんな事を教えてる日本の教科書 (小6 東京書籍)

    ( ˘•ω• ) 

    no title

    no title


    (略)

    ネット上のコメント

    ・志願兵をどう解釈したら強制連行になるんだろうか。当時は彼らも日本の同胞だったわけで、本当に日本のために戦う志で志願した者もいたでしょう。そういった彼らの気持ちを踏みにじり、侮辱しているとしか思えないよ東京書籍さん。彼らへの尊敬や配慮がまったくなく、自虐史観に利用した。最低。

    ・息子が見せてくれました。許せません。

    ・本当の本当を知っている日本人がこんなにも増えてきているのに、日本は何時まで偽りの国家に身を置き続けるのか不思議でならない。

    ・我が家の三女の学校もサイアク東京書籍。しかし、私は自由社の歴史・公民を教えます。教委・学校・自治体へも意見します。微力だけども見てみぬふりはしません。

    ・将来、つうかググれば終わる程度

    ・東京書籍は特に偏向がひどいですね・・子供たちには是非とも、検定不合格教科書を副読本として与えてほしいです

    ・反日勢力が国の内部まで浸透しているようにしか、思えないのですが・・。

    【朝鮮人志願兵の写真を徴兵された朝鮮人の様に使い、 こんな事を教えてる日本の教科書… ネット「反日勢力が国の内部まで浸透している…】の続きを読む

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    1: Felis silvestris catus ★ 2020/01/20(月) 18:13:39.02 ID:71EizG9s9
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    https://anonymous-post.mobi/archives/18262
    私は95歳の高齢者です。
    死ぬ前に、日帝時代について証言したいと思います。
    イルベのことは孫が教えてくれました。

    私は1924年、京城府で生まれました。
    日帝時代と言えば、暗黒に包まれた地獄という認識が広まっていますが、これは事実ではありません。

    日常は平穏でした。
    違いと言えば、政治家が日本人で、官庁の看板が日本語、この程度でした。
    今の韓国社会を埋め尽くしている反日感情のようなものは、日帝時代当時、朝鮮人たちにはありませんでした。

    学校に行けば、天皇の肖像が掲げられた祭壇にお辞儀したり、多少の日本式教育はありましたが、我々は日本人の先生の下で一生懸命勉強しました。
    日本人の先生たちも、全力で我々に教えました。
    本当に立派な人たちでした。

    過去の朝鮮時代を懐かしむ朝鮮人は誰一人といませんでした。
    我々は日本の統治に順応し、協力して日常を送りました。

    日本が南方で勝利すれば、みんなが日の丸を掲げて街を行進しました。
    信じられないかもしれませんが事実を話しています。
    それを管制の親日団体が主管したとは言え、我々は日本軍が戦いに勝利し、戦功を上げたことに味方の勝利だと感じました。

    日本軍に志願した朝鮮人の友人も多かったです。
    官庁や警察に進出した友達も多かったです。

    治安は安定していました。
    日本軍が朝鮮人の少女を路上で強制的に拉致・誘拐したとか、生き証人の言葉として出てきたりしていますが、もし京城でそのようなことが起これば、日本の警察がすぐに対応したり、あるいは朝鮮人が3.1のように立ち上がり、抗争に突入していたでしょう。

    私は人生がいくばくもない老人です。属国朝鮮人として生まれ、光復、6.25戦争、軍事革命、高度経済成長をすべて見てきました。

    私が言いたいことは、まったくでたらめな話に乗り、親北反日主義で国益を損ねてはならないということです。
    我々の世代はすでに死んで消えていっています。

    その時代は地獄でも天国でもない、巨大な歴史の流れの中に一片として、我々は日本人への恨みと憎しみよりも、自国の発展と復興を願うだけです。

    共産主義者の手法を我々はよく知っています。
    彼らは民族を前面に掲げ、理念を注入して赤化し、財産を強奪していきます。

    今、その手法が反日の仮面をかぶって再び襲いかかっています。
    どうかみなさんは、それに流されず、強くて美しい、堂々とした大韓民国を作ってください。

    重要な要約
    日帝時代は現在の視点と基準で裁断することはできません。
    当時を生きた人たちは、近代化したという点を肯定的に評価しています。

    翻訳元:http://www.ilbe.com/view/11227603729

    (略)

    【【韓国】「私は95歳の老人です。死ぬ前に日帝時代の真実を語ります」が韓国ネット掲示板で話題に…】の続きを読む

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    1: ◆mZB81pkM/el0 (茨城県) [US] 2019/12/23(月) 12:37:26.81 ID:9vZr1oTh0● BE:844481327-PLT(13345)

    [大弦小弦]朝鮮と沖縄 保革一致の切り捨て

    87歳になる風間作一郎さんは、ちょうど60年前の行動を今も悔やんでいると明かす。
    「帰れ帰れ、と勧めてしまった。夢の国なんて宣伝は全部うそだった」。1959年12月、在日朝鮮人らの北朝鮮への帰国事業が始まった

    ▼新潟市が出港の地に選ばれ、地元の社会党員だった風間さんは送迎や警護に当たった。社会党だけではない。
    自民党も共産党も、経済界も労組も、各界各層が協力した

    ▼植民地支配の結果、日本に住んだ朝鮮人を戦後になって厄介者扱いした保守側と、社会主義の優位を宣伝したかった革新側。
    北朝鮮も宣伝効果と労働力を欲していた。関係者の思惑が奇妙な一致を見せた

    ▼当時、沖縄を巡る状況も似ていた。60年の日米安保条約改定に向け、政府は適用範囲にまだ復帰前だった沖縄を含めようとした。
    しかし保守側は核兵器を持ち込みにくくなる、革新側は沖縄を起点に米国の戦争に巻き込まれる-と懸念し、そろって拒否したのだった

    ▼敗戦の45年の暮れ、朝鮮と沖縄の人々が選挙権を奪われたのも同時だった。
    日本の都合で併合され、真っ先に切り捨てられる。差別に翻弄(ほんろう)された歩みが重なる

    ▼北朝鮮に帰国した約9万3千人はその後飢えと圧政に苦しみ、安否さえよく分からないまま。沖縄は安保の重圧に苦しんだまま。日本社会は、何ら清算しないままだ。(阿部岳)

    https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/514062

    阿部 岳(あべ たかし)
    沖縄タイムス社編集委員
    1974年東京都生まれ。
    上智大学外国語学部卒。97年沖縄タイムス社入社、政経部県政担当、社会部基地担当、フリーキャップなどを経て現職。
    著書 国家の暴力 現場記者が見た「高江165日」の真実(朝日新聞出版)。
    http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/70787
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    【【パヨク】沖タイ阿部岳記者「朝鮮と沖縄は同じ。日本の都合で併合され真っ先に切り捨てられた」 】の続きを読む

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    1: 影のたけし軍団ρ ★ 2019/10/09(水) 17:03:29.26 ID:CAP_USER
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    【ソウル聯合ニュース】韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領はハングルの制定を記念する「ハングルの日」を迎えた9日、 交流サイト(SNS)にメッセージを投稿した。

    日本による植民地支配に抵抗して1919年に朝鮮半島で起きた三・一独立運動と大韓民国臨時政府樹立から100年の年に迎える意義深い「ハングルの日」だとした上で、「573年前にハングルを創生した世宗大王の愛民精神と、日帝強占期(日本による植民地時代)にハングルを守り抜いた独立運動家たちの民族精神を思い起こす。日帝強占期はハングルを守ることがすなわち独立運動だった」とつづった。

    植民地時代にハングルを守った独立運動家の精神に言及することで、 日本の不当な経済報復としての輸出規制措置に打ち勝つという意思をあらためて強調したものと受け止められる。

    朝鮮日報
    http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2019/10/09/2019100980043.html

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    1: 右大臣・大ちゃん之弼 ★ 2019/09/15(日) 11:30:23.28 ID:CAP_USER
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    「日帝植民地の最高権力機関である朝鮮総督府と、日本人土木建設業者との間の政経癒着と腐敗スキャンダルは絶えなかった」

     韓国の歴史学者からこういう話を聞いたのであれば、むしろあまり驚かなかったかもしれない。最近、学術書『日本の学者が見た植民地近代化論』(知識産業社)を出版した日本人歴史学者の鳥海豊・韓国歴史研究院常任研究員(57)は「日帝の近代化は韓国の工業発展よりも、日本人土木建設業者(請負業者)の利益のための大規模土木建設事業に偏っていた。この過程で、総督府出身の官吏が業者として直接参入するケースもあった」と語った。鳥海氏が確認した日本の鉄道局、逓信局や朝鮮総督府など官吏出身の日本人土木業者だけでも22人に上る。鳥海研究員は早稲田大学で学士・修士課程を終えた後、ソウル大学国史学科で博士号を取った。

     日帝が1910年に韓国を強制併合した後、重点を置いて推進していた事業が鉄道建設、土木工事といった社会間接資本(SOC)分野だ。1910-39年の朝鮮総督府の年平均予算(1億8571万円)のうち、19.3%(3579万円)を注ぎ込んだと推定される。だが鳥海研究員は「SOC投資額の63%を占める工事を、当時韓国で活動していた日本人土木建設業者の組織である『朝鮮土木建築協会』のメンバーと契約していた」と語った。「仕事の発注」を通して、朝鮮総督府が日本人業者に土木建設事業を配分したというわけだ。逆に朝鮮人建設業者らは、随意契約や鉄道局の技術主任(現場監督)制度のせいで入札から排除された。

     調べてみると、日本人と朝鮮人は資産保有の点でも大きな差が出た。1928年の朝鮮総督府統計年報(グラフィック)によると、日本人の1人当たりの郵便貯金額は56.46円、一方で朝鮮人は0.23円にすぎなかった。実に245倍の差だ。鳥海研究員は「日帝時代の経済発展で朝鮮人に利益がもたらされたという仮定を再検討する必要がある」と語った。

    日本人業者の「入札金水増し」や談合といった腐敗スキャンダルも絶えなかった。談合とは、業者が集まって、十分な利益を確保できる水準で落札業者をあらかじめ決めること。1934年の京城土木談合事件では、検察が起訴した工事の件数だけでも32件、契約総額1295万円に達した。さらには、朝鮮総督府交通局の課長も「朝鮮の業界で最大の問題は談合」と証言した。

     雑誌『開闢』は、1923年の城川江堤防工事の際、朝鮮人土木業者であれば1500万円でできる工事を日本人請負業者と9000万円で契約したと暴露した。実に6倍の「入札金水増し」だったというわけだ。鳥海研究員は「日帝強占期に多くの朝鮮人が土地を失ったり仕事がなくなったりして、間島地方や日本へ生きる道を探しに行ったが、逆に朝鮮の日本人業者は増え続けた」と語った。

     韓国の学会では、日帝の経済的搾取に重点を置いた「収奪論」と、植民地期の経済規模の成長に注目した「植民地近代化論」の間での論争が熱い。鳥海研究員は、「植民地近代化論」で経済成長の根拠となっている朝鮮人労働者の日当に疑問を投げ掛けた。朝鮮総督府統計年報には日当1円と記録されている。だが鳥海氏は、日本人業者の回顧録や法廷での証言、当時の記事などを根拠に「実際に現場で支払われる労賃は30-60銭にすぎなかった」と語った。その差額分だけ日本人土木業者は不当利得を手にするので、腐敗スキャンダルが絶えなかったと主張する。鳥海研究員は「朝鮮総督府の統計における朝鮮人の賃金は、現実よりはるかに高く記録されている」として「この統計に基づいた日帝時代の経済発展の数値も修正する必要がある」と語った。彼は「『日本人がなぜ日本を批判するのか』という質問もよく受けるが、より良い日本をつくるため」と答えた。

    キム・ソンヒョン記者

    朝鮮日報 2019/09/15 06:05
    http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2019/09/11/2019091180151.html


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