かたすみ速報

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    タグ:浮世絵

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    1: LingLing ★ 2022/12/09(金) 20:11:01.36 ID:/BnLRBci
    槐山延豊県監 金弘道(キム・ホンド)の朝鮮ルネサンス

    檀園キム・ホンドは当時最も有名な人たちから認められた。彼の作品は中国に寄りかかり中国式の絵画を再現することにとどまるのではなく、当時流行した写実的文学理論を絵画で伝える役割もした。そうして作られたのが風俗画だ。写真が発達した現在、風俗画の形に感興を覚えづらいが、当時の一般人が暮らしていく様子を絵に残す試み自体が破格だった。

    カン・セファンの助けでキム・ホンドは図画院の書員になった。図画院は国家が管掌する宮中画家管理所だった。宮中の多様な記録的絵画を描くこともあって、写真がなかった時期に、文で全て整理できないもう一つの記録を主管する場所でもある。ここでキム・ホンドは絵を描きながら多様な先進絵画に触れるようになる。元々、優れた絵の腕前を持っていたからそこに引き抜かれたわけだが、1781年には御用画家になって正祖を描くことになった。写実的描写の実力は、旅行に行かなくてもその場所をうまく描き写しておけば、観光に行って来られなかった人にも遠い所の状況を、そのまま知らせてくれる役目をする。キム・ホンドは秘密裏に1789年、日本の地図を描いてくるよう命を受け、師匠のキム・ウンファンと共に、日本密使として向かうことになる。ところが、師匠のキム・ウンファンは病気で亡くなって、一人でテマド(※対馬島)に行って地図を描いてきた。一種の日本に対する偵察が主要目的だったようだ。キム・ホンドが日本に行くことになったのは事実に符合するが、優れていた彼の事件を通じて新たな仮説が出ている。

    日本の代表的絵画と称する絵が「浮世絵」だ。日本料理店に行くとよく見かける侍の姿や、富士山の様子を版画で表現した絵画が浮世絵だ。このような浮世絵の最高峰に挙げられる人が「東洲斎写楽」だ。彼は突然現れると、10ヵ月間で140点ほどを描き、こつ然と姿を消した。 そのため、彼は芸名を使って絵を描いて消えた、あるいは他国の人が来て絵を描いて消えた、という話で実体のある伝説になっている。彼の活動期間は1794年5月から1795年2月までだ。キム・ホンドは足の指が6本だったという説があるが、写楽も足の指が6本だという説、日本に行った期間と完全に合致はしないが近い時期に日本にいたことから、一部の仮説には、キム・ホンドが芸名で10ヵ月間日本で活動して帰国したという説もある。キム・ホンドの晩年に記録がないということも、日本に行き活動し、そうしていたのだろうという推測と想像から、事件を事実のように重ねてくれる。

    キム・ホンドは1791年に正祖の肖像を描き、この功績が認められると、忠清北道(チュンチョンプクト)槐山(クェサン)延豊(ヨンプン)の県監(※朝鮮王朝の官職)に就くことになる。忠北にいる間、忠北の名勝を振り返り、彼の特別な才能を余すところなく発揮して、1796年に「丙辰年図帖」(文化財、第782号)を作った。20面からなる図帖は丹陽(タニャン)八景の舎人岩(サイナム)を描いたもので、嶋潭三峰(トダムサンボン)、永郎湖(ヨンナンホ)などの風景、山水人物画、花鳥画など多様な絵画を描いた。

    延豊(ヨンプン)は今でもそうだが、過去もさほど大きな都ではなかったところだ。日照りで凶作が続くと、官衙(官庁)が穀物を分けて穀率に力を入れたと言ったが、これを貶す群れが別の話で彼を陥れた。百姓たちの仲媒にだけ神経を使い、若い兵士たちには狩猟をさせることに熱中するという謀略から官職を退くことになった。そして本業である絵を描く仕事をまたした。1800年、正祖が崩御し純祖が王になり、キム・ホンドもやはり重要な用務から外され、寂しい晩年を過ごすことになった。

    西洋も朝鮮も新しい思考は過去に対する新しい解釈に基づいて出てくる。新しい文化は空から落ちてくるのではなく、長い時間日常が作ってきた生き方を他の世代が異なる視点から眺めながら整えて作ることだ。キム・ホンドが有名になって延豊(ヨンプン)の県監に短期間就いていたにせよ、地域に埋没して観光商品を作ることより、その精神を取り戻して光を照らすのがルネサンスの解釈により近いものになるだろう。地域の文化ルネサンスは、精神を取り戻すことをまずしてほしい。

    忠北日報(韓国語)
    https://www.inews365.com/news/article.html?no=743233

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    1: 昆虫図鑑 ★ 2021/09/02(木) 16:25:25.92 ID:CAP_USER
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    日本では1300年代から1800年代までの500年余りの間、浮世絵と言う木版画が存在した。木版の表面に下書き(風俗画など)を描いた後、刃物で下書きの空白部分を削り取り、絵具を木版の表面に塗る。そしてその上に紙を広げて置き、強く擦ってイメージを型取る。

    紙に描かれた絵のように鑑賞しているが、日本の浮世絵作品は木版から型取って作られてきた物だ。従って全く同じ浮世絵作品が多数存在しうる。ただし型取る都度、絵具のカラー配合などを変える技巧を発揮して、同一の木版から創られて来たものでも、互いに独特な個性を持つ作品が創り出されうる。

    浮世絵は特に江戸時代(1603~1867年)に流行した。「葛飾北斎」(1760~1849年)、「安藤広重」(1797~1858年)などの作家が有名だ。木版が製作されれば、手軽に作品の大量製作(紙に型取り)が可能なため、紙に刷られた浮世絵作品は当時、価格が安かった。

    従って当時の日本の庶民もいくらでも手軽に浮世絵を購入して収集した。当時、木版画一点につき、基本的に200枚以上の紙に作品を刷り出した。市場の反応が良ければ更に刷った。今日、出版した本の人気が良ければ、2刷り、3刷りへ入って行く風にだ。人気の高い木版画の場合、数千枚まで紙に作品を刷った。

    当時の欧州は東洋の陶磁器に夢中になっていたのだが、1855年のパリ万国博覧会へ出品する陶磁器の運送に緩衝材として紙が使用された。この時、浮世絵作品が緩衝材としてたくさん使用された。陶磁器と共に到着した浮世絵(緩衝材)に初めて接した欧州の画家たちは「世の中にこのようなものがあったなんて!」と語って衝撃を受けた。

    ゴッホ、モネ、ドガ、ピサロ、エドゥアール・マネ、ルノワール等、当時の美術界の巨匠たちが浮世絵に魅了されると同時に、浮世絵は印象派美術の形成に大きな影響を及ぼすようになった。

    音楽家のドビュッシーは北斎の作品から影響を受けて交響曲「海」(1905年)を作曲し、カミーユ・クローデルは「北斎」の作品「神奈川沖浪裏」(富嶽三十六景)からインスピレーションを得た後、「波」と言う作品を彫刻した。

    日本文化だけを専門に扱う雑誌『ル・モンド・イリュストレ(Le Monde illustré)』が創刊され、欧州の至る所で日本の美術作品展示会が開かれもした。このように浮世絵特有の美に魅了された欧州の文化界は、19世紀中盤から20世紀初盤にかけて「ジャポニズム(日本風)」と言う文化的流れを形成した。

    「葛飾北斎」の「富嶽三十六景」と言う作品と、「安藤広重」(1797~1858年)の「名所江戸百景」と言う作品は今日特によく知れ渡っている。ゴッホとモネは「安藤」の作品から多くのアイディアを得て、「安藤」の作品を再現もした。

    欧州が浮世絵に魅了された背景としては、浮世絵に特有の精密な描写と簡潔な線、現代的で華麗な色彩構成などが存在する。精密な描写の例を挙げれば、作品に登場する女性の髪の毛は一本一本精密に描写されており、1ミリメートル幅に三本の頭髪が刻まれるほどだ。浮世絵は今日、世界的にその価値を認められると同時に、世界文化遺産として登録された。

    パリで活動していた「ゴッホ」は浮世絵の木版画に対して非常に熱い情熱を抱いていた。ゴッホは浮世絵作品を大量に収集して、弟のテオ(テオドルス)に送った手紙(1888年9月28日)に次のように記した。

    「私は日本人がそれらの作品であらゆるものを極端に明らかにする態度が羨ましい。それは決して愚鈍でもなく、性急で慌てたものにも見えない。彼らは呼吸のように単純に、そしてチョッキにボタンを通すように簡単で正確な幾筋かの線で人物を描く。ああ、私も幾筋かの線で人物を描けるようにしなければ…」

    ヤフーニュース(WOW!Korea)
    https://news.yahoo.co.jp/articles/6bbdbc110f4fdae6eaab8e021fd94eec0b628e3a

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