かたすみ速報

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    タグ:百済

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    1: 蚯蚓φ ★ 2020/09/15(火) 13:23:24.24 ID:CAP_USER
    百済東城王の死で王位に上がった武寧王は蓋鹵王の息子であり昆支王(困支)の養子だ。462年、倭地にある奈良百済に行く途上にある各羅島で生まれ、名前は隆だ。生まれた後も続けて奈良百済で成長したので日本語でシマ(島)またはサマと呼ばれた。それで彼を斯麻王とも言う。

    これは倭地にもう一つの百済があったことが分る部分だ。それが奈良百済だ。奈良百済は近肖古王(クンチョゴワン)の時に建国されたが当時、近肖古王は大陸百済、韓半島百済、倭地の奈良百済の三地域を統治した大帝国の皇帝であった。

    大陸と韓半島は距離が近いが倭地は大陸から遠く、当時は海上交通が発達していない時代で倭の奈良百済を自治的に統治する王を置いたが、これを天皇と呼び総督の様なものだった。サマは生まれるとすぐに生母とともに大陸百済に戻ったが、政治的状況が非常に不安で奈良百済にある昆支に再び送られた。

    このように百済王室が王子を勝手に倭地の奈良百済に送ったり連れてきたりしたのは、奈良百済が百済が支配する領土だったからだ。百済は王子だけでなく、百済の文物を倭の奈良百済に伝達するために百済住民を大挙移住させた。403年(応神14年) 2月、百済の縫衣工女が奈良百済に渡り、これが日本列島で衣縫の元祖だ。

    工女が一人で行ったわけではなく大移住集団の一員として行ったが、移住集団は日本列島全域120余りの県に散って暮らしながら百済の文物を伝播した。

    当時、倭は衣服もない新天地島で、このような先進文化を持つ百済の大民族集団が移住した事実はすなわち百済が日本列島を開拓し、さらには日本列島全域を建設したことを立証する。

    文字もなく衣服もない原始生活をする原住民世界に文字や各種の技術、馬など高度な先進文化を持つ百済の大移住集団が日本列島に上陸したとすれば、当然この集団から統治者である王や天皇が出なければならない。史録によれば、倭の奈良百済・応神天皇も百済住民大移住集団から出た天皇であり、同時に奈良百済初の天皇だった。

    475年、高句麗の攻撃で百済の都城が崩れ蓋鹵王が捕えられて死ぬ時、彼の王子はみな死んだがサマ(島)は倭の奈良百済にいたので死をまぬがれて王位に上がることができた。
    (中略:半島百済の歴史)

    倭地の奈良百済も小王国と戦って領土を拡張しながら日本国建設の土台を用意していった。この時、奈良百済の領域は四国島と向かい合う本州の凸のように出ている奈良県が中心だった。

    このような記録を見れば日本の文物は百済が伝播したことは明らかに見える。

    クォン・ウサン命理学者・歴史小説家
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    釜山経済新聞(韓国語)
    http://www.bseconomy.com/news/view.php?idx=36358



    【【ファンタジー歴史で喜ぶ韓国】文字も衣服もない原始生活をしていた日本に百済が文物を伝えた~天皇は奈良百済の総督の様なもの】の続きを読む

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    1: 蚯蚓φ ★ 2020/09/12(土) 19:46:09.20 ID:CAP_USER
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    ▲ホン・スンジュ歴史コラムニスト.(c)ブレーキニュース

    百済は温祚(オンソ)が建ててその血統が万世一系に続いたわけではなく、一つの王暦の中に二つの王権勢力だった温祚系と沸流(ピリュ)系の王たちが混在して現れる。

    日本でも同じように日本書紀に出てくる天皇派閥は百済系一つの万世一系と見られるが、実は新羅系(天武天皇)と高句麗系(顕宗)の王統が混ざっている。一方、日本で新羅系が現れる代表的な事件は大化改新および壬申の乱に続く天武天皇の登場が挙げられる。ここでこれに対する歴史的背景を一度見てみることにしよう。

    まず645年に倭列島で起きた政変を大化改新という。これは百済系蘇我氏の勢力が大きくなるとすぐに中大兄皇子がこれを排除するために藤原鎌足と共に倭列島奈良飛鳥地域に新羅勢力を引き込む。

    この時、新羅からは大海人として出てくる新羅貴族キム・タチュク将軍が率いる新羅支援軍を派遣して奈良飛鳥軍を制圧し、蘇我入鹿大臣を除去する。この事件で百済系、皇極女王(義慈王(百済最後の王)の妹)が退いて孝徳天皇が新しく即位する。

    その後、金春秋(キム・チュンチュ)が倭列島に入って唐の高向玄理(たかむこ の くろまろ)を国博士にたて唐留学生と僧侶が主導して新羅式政治改革を推進したことを意味する。

    一方、羅唐連合軍によって百済が660年に滅亡した後、鬼室福信と黒歯常之将軍によって多勿戦争が3年間行われる。この時、倭列島から百済王として来た扶余豊王(義慈王の息子)を軍事支援した中大兄皇子(義慈王の別の息子、扶余勇)が最終的に663年、白村江戦闘で大敗して百済復国が失敗に終わる。

    これで中大兄皇子が668年に第38代天智天皇(日本書紀式の名前)として即位する。その2年後、670年ごろ日本(ヒノモト)国を建てるが、これは<日が昇る地>という意味で百済人が自らを呼んだ国名だった。すなわち日本は天から落ちた別個の国ではなく百済貴族と流民が倭列島に逃避して建てた<もう一つの百済国>の別称だった。

    その後、先に日本を建てた百済系天智天皇が672年に急死するとすぐに王権をめぐり新羅系大海人(日本書紀では天智の弟)と天智の息子、大友王子(後に弘文天皇で追認)の間に権力闘争が起きた。これを壬申の乱という。新羅の将帥、大海人が大友王子をはね除けて第40代天武天皇(673~686)に即位するとそれは百済系政権から新羅系政権に変わったことになる。

    一方、天武天皇当時、日本書紀を作成し始めたが百済勢力が日本に来たことを隠すため、前部に神代記を隠喩的に記録した。また、このような側面から見る時、日本万葉集(759年ごろ作成)のルーツが新羅郷歌からきたという主張にも一理あるように見える。

    (訳注:固有名詞が日本語読みではなく、漢字の韓国語読みハングルで書かれている。例えば大友王子はテウワンジャ、大海人はテヘインなど。さらに一般的な歴史認識と異なるので誤訳している可能性がある。)

    *筆者/ホン・スンジュ歴史コラムニスト.失われた韓国古代史研究会長.

    ノーカットニュース(韓国語)
    http://breaknews.com/sub_read.html?uid=754947

    【【韓国の妄想炸裂】 天皇家は百済系の万世一系と見られているが、実は新羅系-高句麗系が混ざっている】の続きを読む

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    1: Felis silvestris catus ★ 2020/08/18(火) 18:42:40.69 ID:CAP_USER9
    kawakatu

    政治知新
    @seijichishin

    静岡県の川勝平太知事「藤原氏の先祖は韓国人!」「不比等の父の鎌足は出自が不明です。私は、百済最後の義慈王の子で、日本に人質として来ていた余豊璋が鎌足だと思います」との珍説を駐日韓国大使に大披露!! seijichishin.com/?p=44667 #川勝平太 #静岡知事

    のりぞー
    @sarasarachazuke
    6 時間
    返信先: @seijichishin
    イカれてますね。リニア云々の問題よりも、こちらのほうが問題でしょ?静岡県民さん大丈夫?
    https://mobile.twitter.com/seijichishin/status/1295545226392526848?p=p 

    【【無知なパヨク】静岡県知事・川勝平太「藤原氏の先祖は韓国人!」との珍説を駐日韓国大使に大披露! ネット「イカれてますね】の続きを読む

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    1: 荒波φ ★ 2019/05/08(水) 12:46:09.51 ID:CAP_USER
    東京都内のホテルでメディアに公開された百済金銅観音菩薩立像。
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    7世紀始めに百済の職人が作った仏像で約90年ぶりに所在が確認された百済金銅観音菩薩立像が中国に搬出されていた事実が明らかになった。

    韓国日刊紙イーデイリーが7日に報じたところによると。韓国文化財庁関係者は「百済金銅観音像が展示のため中国・上海に搬出されたことがわかり現地専門家らを通じて確認している。還収過程に新たな変数として作用しないか鋭意注視している」と話した。

    百済金銅観音像の今回の中国搬出は上海博物館常設展への出品が目的という。しかし韓国の文化財関連学界などでは韓国を排除して中国と日本が主導して仏像を公開することに懸念を示している。百済金銅観音像は現在まで一度も展示場に置かれたことはないが、中国で初めての展示後に中国内で仏像が買い取られる可能性があるためだ。

    昨年韓国文化財庁は日本人所蔵者と接触し百済金銅観音像還収を推進した。しかし所蔵者が約150億ウォンを提示し、文化財庁は42億ウォン以上を支払うのは無理だと判断し交渉が決裂した。


    2019年05月08日11時19分  中央日報
    https://japanese.joins.com/article/133/253133.html?servcode=A00&sectcode=A10

    【【韓国発狂】日本人所有の百済金銅観音像、中国に搬出…中国で販売される懸念】の続きを読む

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    1: 右大臣・大ちゃん之弼 ★ 2019/04/05(金) 17:38:28.70 ID:CAP_USER
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    「作者の一人は百済人」と主張

     今年5月から使われる新年号「令和」は、中西進・大阪大学名誉教授(89)=写真=が考案したことが確認されたという。日本メディアが、匿名の政府関係者の話を引用して3日に報じた。令和は日本最古の詩歌集『万葉集』に登場し、安倍晋三首相は『万葉集』を「誇らしい国書」と強調した。

     毎日新聞によると、中西教授はこの『万葉集』研究の権威者だ。令和の意味を説明する多くのメディアが、中西教授の解説書を参考にしたほどだった。ただし、中西教授は「令和を考案したのは間違いないか」というメディアの質問に対し「申し上げることはない」「(日本の古典から新年号が出たのは)良いことだと思う」と答えるにとどめた。菅義偉官房長官も今月1日、「考案者自ら、自身が公開されることを望んでいない」と語った。このため公式の考案者公開は、公文書の機密が解除される30年後にならないと実現しない見込みだ。

     中西教授は、短歌を詠んだ故・孫戸妍(ソン・ホヨン)、その孫に当たる詩人の李承信(イ・スンシン)と深い交流がある知韓派として知られている。

     中西教授は、韓半島(朝鮮半島)の古い詩歌と、韓半島から日本へやって来た渡来人が、万葉集に載っている日本の詩歌に影響を及ぼしたと考えている。万葉集の作者の一人に挙げられる山上憶良は百済からやって来た渡来人だ、という学説を提起したこともあった。

     在日韓国人作家の柳美里(ユウ・ミリ)は今月2日、ツイッターに「令和の考案者だと報じられた国文学者の中西進さんと2010年6月に札幌で対談しました」「中西さんは朝鮮半島動乱で、百済、高句麗が滅亡すると、多くの人たちが半島からこの国にやってきた。額田王、山上憶良、柿本人麻呂ら渡来系の歌人たちは、万葉集において大きな影響を持ったと話されました」と書き込んだ。

    東京=チェ・ウンギョン特派員

    朝鮮日報 2019/04/05 11:01
    http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2019/04/05/2019040580057.html

    【【朝鮮日報】「令和」考案の中西教授「万葉集は半島系渡来人の影響受けた」「作者の一人は百済人」と主張】の続きを読む

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    1: 親日家@シコリアン ★ 2019/03/27(水) 09:02:18.46 ID:CAP_USER
    修復工事が行われる前の弥勒寺址の「西の石塔」=韓国全羅北道・益山、韓国文化財庁提供
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    修復工事が終わった弥勒寺址の「西の石塔」(韓国全羅北道・益山、韓国文化財庁提供)
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    修復工事が終わった弥勒寺址の「西の石塔」(手前)。韓国監査院に「原型と違う」と指摘された=韓国全羅北道・益山、韓国文化財庁提供
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     韓国で国の予算執行を検査する監査院は、約20年かけた修復工事が今月に完成した百済時代末期(7世紀)の寺院跡、弥勒寺址(し)の「西の石塔」(高さ約14・5メートル)について「原型通りに修復されず、安全性の検討も正しく行われていない」とする報告書を発表した。所管の文化財庁は釈明に追われ、韓国内で「ありえないことだ」と批判が起きている。

     「西の石塔」は百済の都だった扶余から南へ約30キロにある寺院遺跡、弥勒寺址にあり「韓国最古の石塔」として国宝に指定されている。日本統治時代に補強されたコンクリートの傷みが激しくなったことから、2001年から約230億ウォン(約23億円)かけて大規模な解体修理工事が行われ、日本の古代史ファンの関心も集めていた。

     報告書によると、修復過程で構造安定性が十分検討されないまま設計変更が行われ、当時の石材と新たに持ち込んだ石材を混ぜて積むなどした結果、元の姿と輪郭などが異なるようになったという。

     監査院は「安全性を検討した上で、適切な措置案を検討すべきだ」と通知。4月に完工式を準備する文化財庁は「設計変更図に準じる図面を作成した」と釈明したものの、安全点検を実施すると発表した。

     石塔はユネスコの世界文化遺産「百済歴史遺跡地区」の構成資産の一つで、地元全羅北道の観光資源になっている。地元の市民団体は「石塔のイメージが傷つき、住民は精神的な衝撃を受けた」として賠償を求める声明書を発表した。

    朝日新聞
    https://www.asahi.com/articles/ASM3S3WKBM3SUHBI00C.html

    【【韓国の恒例行事】20年かけ修復「元の姿と違う」百済の石塔、韓国で批判】の続きを読む

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    1: 蚯蚓φ ★ 2019/01/31(木) 18:12:04.70 ID:CAP_USER
    14才で日本軍性奴隷に引きずられて行ってあらゆる虐待にあったキム・ボクトン、ハルモニが去る28日亡くなられた。映画「アイ・キャン・スピーク(I can speek)」の実際の主人公だったハルモニは日本の残虐ぶりを知らせるために最後の生を燃やされた。彼女が死に至って臨終の時に言ったお言葉も「怒り」ということだった。日本が韓国民族だけでなくアジアの弱小国家にした経済的収奪と人権搾取そして植民地支配に対する謝罪がなかったためだ。本当に怒るべきことだ。

    なぜ日本はこのように私たちに対し敵対的なのだろうか?日本の私たち民族に対する植民支配は世界史に探せない特別なものであった。19世紀から始まった帝国主義列強がアジアやアフリカ一帯に進出して植民地にした時、日本の朝鮮支配のようなケースは一切なかった。

    通常、植民支配は該当国家の外交権と軍隊統帥権者を奪い、行政権はそのまま置く場合が大部分だった。植民支配の目的自体が経済的収奪のためであり、あえて行政権まで奪う理由はなかった。植民支配の理論的根拠はマキャベリの「君主論」であるが、君主論にも植民地国家の行政権を奪うなとした。

    日本もやはり台湾を植民支配しながら外交権と軍事権を奪い、行政権は台湾人に許容した。そのため台湾には日本の総督府が存在しなかった。ところが韓半島の植民支配は徹底して全てのものを奪った。1905年外交権を奪い、1907年、軍隊を解散させて、ついに1910年に行政権まで奪って朝鮮総督府を置いた。軍隊、司法、行政全てを掌握した日本は韓半島の経済的収奪だけでなく最初から私たち民族を地球上からなくそうとする政策を推進した。

    朝鮮人に朝鮮の言葉を使わないようにして、日本と朝鮮が一つという内鮮一体思想を注入した。この政策は教育全般で推進され、実際、相当数の幼い学生たちに注入され自分が朝鮮人なのか日本人なのか識別できない場合もあった。それなら日本人たちはなぜこのように私たちに対してだけ他の定規を持って苛酷に植民支配をして、今でも自分たちがした事に謝らないだろうか?

    筆者は長い間この問題について深く悩んできた。そうするうちに一つの糸口を見つけた。それはまさに今回、引退する明仁日王の発言だった。明仁日王は2001年12月、誕生日の記者会見で「私個人としては桓武天皇(日王)の生母が百済武寧(ムリョン)王の子孫だと『続日本記』に書かれており、韓国との縁を感じる」と話した。続日本記には793年当時、桓武日王が出した歴史書で桓武日王の母が百済武寧王の直系子孫であると書かれている。簡単に言えば日本王室が百済武寧王の子孫というものだ。

    明仁の告白で日本国民は衝撃を受けた。自分たちが慕う国王が百済の後えいという事実を受け入れなかった。しかし、これは明白な事実だ。実際に日本王室は百済王室と深い関係がある。百済の始祖王温祚の母の召西奴(ソソノ)が日本に渡って建てた国がまさに「倭国」だ。私たちは長い間、日本人たちをののしる時、「倭奴(ウェノム)」といって侮辱し、「倭(ウェ)」という言葉が非常に悪い意味と認識されているが、実際、「倭」の意味は「優しい」、「敬う」という意味だ。換言すれば百済を敬う国という意味だ。

    日本という国名が出てきたのは660年、羅唐聨合軍によって百済が滅亡して独自の国家体制を整えるため、「日が昇る根本の国」という意味の日本と付けた。だから日本は永く百済王室の分国であったのだ。このような歴史性を持っているので日本はこのような韓日関係を完全に消すために韓半島に対する世界史に類例がない植民地政策を行ったのだ。そして今も一切の謝罪と反省をしないでいる。真に嘆かざるをえない。

    最近、日本の哨戒機が韓半島にいつも出没して緊張関係を作り、安倍総理はずっと極右的発言をして第二次世界大戦の戦犯国だった過去の日本に戻ろうとしている。国連指導の下に作られた日本の平和憲法はもはや紙切れ同然だ。このような日本とどの国が同盟国になろうとするだろうか?もはや日本は真に我が国と平和の連帯を望むなら、自らの誤りを一つ一つ公開し、キム・ボクトンハルモニの霊前に頭を下げて謝罪しなければならない。

    キム・ジュンヒョク韓神(ハンシン)大学チョンジョ教養大学教授
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    中部日報(韓国語)
    http://www.joongboo.com/news/articleView.html?idxno=1323881

    【【百済は倭の属国だよ】 明仁天皇の告白と韓日関係~日本は百済王室の分国であった過去を消すために植民地政策を行った/韓神大教授】の続きを読む

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    1: 蚯蚓φ ★ 2018/12/20(木) 16:24:04.19 ID:CAP_USER
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    記録は生命だ。棺の蓋が閉められていても記録があれば永遠の命を得ることができる。記録されていなければ最後にはかすんでいってしまう。どれほど輝かしい文明や歴史であっても避けられない宿命だ。
    (中略:「忘れられてしまった鉄の帝国」伽耶の事例)

    伽耶について回る亡霊とは『日本書紀』だ。『古事記』に続き2冊目に古いとされる現存歴史書物だが、最も古い正史と認められている本だ。だが、間違いや盗作が多いため自らその信頼度を損なわせてしまっている。たとえばこのようなことだ。雄略天皇9年(465年)5月条を見るとこのような内容が登場する。

    「大将軍紀小弓宿禰は龍のようにすばしこく、虎のように睨みつけながら四方を見渡した。反乱を起こす群れは討伐して四海を平定した」

    新羅に遠征して死んだ将軍を追慕する天皇の話だが、213年後漢の献帝が曹操を魏公に封じる策文と全く同じだ。『三国志』の「魏書 曹操本紀」の原文はこうだ。「君 龍驤虎視 旁眺八維 掩討逆節 折衝四海」。『日本書紀』はここで「君」の部分だけを「大将軍紀小弓宿禰」に変えてそっくりそのまま書き写している。同年3月条にはこのような内容もある。

    「新羅の王は夜に四方から官軍が叩く太鼓の音を聞いて喙地〔喙の国=慶州(キョンジュ)〕が占領されたと知り、数百の騎兵と逃げた。(…)喙地を平定したが残兵が降参しなかった。(…)この日夕方、大伴談連と紀岡前来目連は皆、力を尽くして戦い、死んだ。(…)しばらくして残兵は自ら退却し、官軍もそれに伴い退いた。大将軍紀小弓宿禰は病気で死んだ」

    慶州を平定したが、死んだのは倭軍の将帥だった。敗残兵が退却したが、勝利者も後退する。このような間違いと矛盾に比べれば、「四面楚歌」の盗作である「四面鼓聲」などはかわいいほうだ。

    このような水準の『日本書紀』に伽耶についての正否論争があるのはおおよそ下記の3つほどだ。まず、562年大伽耶が滅亡すると、欽明天皇が怒りを爆発させる。

    「新羅は西の蛮夷で小さくつまらない国だ。(…)恩義に背いて我が官家を打ち倒し、我が民に害毒を及ぼし、我が郡県を滅ぼした。我が気長足姫尊は(…)新羅が窮地に陥って助けを乞うていたところを哀れに思い、首を落とされようとしていた新羅の王を助け、新羅に要衝の地を与えて繁栄させた。(…)しかし、新羅は長い矛と強い弓で任那を攻め滅ぼし…」

    これもやはり『梁書』<列伝>の王僧弁伝の内容を適当に借用した盗作だが、気長足姫尊というのは200年に三韓を征伐したという神功皇后のことを指す。その時の『日本書紀』の条はこうだ。

    「風の神が風を起こして海の神は波をうねらせた。大きな魚が浮かんできて船を支えた。(…)新羅の王は(…)気持ちを落ち着けて『東側に神の国があるというが、これを日本という。聖王がいるというが、これを天皇という。きっとその国の神の兵に違いない。これをどうして防御することができようか』と言って降参した。(…)高句麗と百済の2国の王もこのことを聞いて到底勝つことはできないと知り降参した。これによって内官家を定めた。これがいわゆる三韓だ」

    この記録も間違いだらけだ。当時の新羅の王は婆娑尼師今になっているが、彼は新羅の第5代王で在位期間は80~112年とされている。200年に会うことができる人物ではない。その上、神功皇后は49年後に再び百済とともに新羅を征伐して伽耶7国を平定するが、この地をすべて百済に与える。苦労して手に入れた地を他人に与えることも、大軍を率いた韓半島(朝鮮半島)の遠征が中国の史書に一行も言及されていないことも、100歳までの70年間にわたり摂政し、後継者である応神天皇が古希の年齢で即位することも納得しがたい部分だ。

    『日本書紀』が百済の近肖古王の足跡を借用して神功皇后を創造したという主張が説得力を持つのはこのためだ。時代さえ4世紀に移せば近肖古王の業績と一致するからだ。


    イ・フンボン/論説委員・中央コンテンツラボ

    中央日報
    https://japanese.joins.com/article/337/248337.html
    【【自分のところの三国史記読んでみろ】 韓国侵略の名分になった『日本書紀』の間違いを探して】の続きを読む

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    1: 蚯蚓φ ★ 2018/03/21(水) 01:44:09.66 ID:CAP_USER
    -百済人・王仁、日本に渡って論語・千字文を教えた
    -日本に伝えたのは漢子(記事のママ)だけだろうか?豆腐と陶磁器も私たちが元祖

    全南(チョンナム)霊岩(ヨンアム)の人々は毎年、大韓民国と日本に向かって訊ねる。「1億3千万の日本人たちの永遠の師匠・王仁博士をご存知ですか?」と。

    日本、飛鳥文化の始祖と賞賛を受ける王仁博士の出生地であり発祥地の霊岩では毎年、王仁博士を賛える大祭典「霊岩王仁博士文化祭り」が開かれる。今年は4月5日から8日まで、王仁博士の遺跡と上台浦(サンデポ)歴史公園一帯で幕を上げる。

    王仁博士は百済人だ。日本・応神天皇の招へいで論語10冊、千字文1冊を持って日本に渡った。引き続き応身天皇の信任を受けて太子の師匠になったと伝えられる。王仁の子孫は代々、日本で学問関連の重責を引き受けて日本朝廷に奉仕した。

    結果的に王仁博士とその子孫は日本文化の発展に大変な貢献をした。そのため日本の歴史で古事記と日本書紀に王仁という名前三文字(訳注:ハングルでもワン・インの二文字)が鮮やかに現れている。

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    ▲王仁博士のキャラクター[出処=王仁博士の村ホームページ]

    異論もあるが、<沸流、百済と日本の国家起源/キム・ソンホ>という本には温祚王の兄弟の沸流が高句麗の侵攻により日本に渡って、西暦397年に日本に亡命政府をたて、日本天皇国の起源になったという内容が記述されている。

    また、明仁日本王も「私としては桓武天皇の生母が百済武寧王の子孫だと続日本紀に記録されており、韓国との縁を感じる。武寧王は日本との関係が深く、この時以来,五経博士が代々日本に招へいされた。武寧王の息子、聖王は日本に仏教を伝えたことが分かっている」と話すことによって日本天皇家が百済の子孫であることを自ら認めた。
    (後略:霊岩への観光案内)

    イ・ビョンノ記者

    韓国営農新聞(韓国語) 「王仁がなかったとすれば今日の日本はない」霊岩王仁文化祭り
    http://www.youngnong.co.kr/news/articleView.html?idxno=7815 

    【【漢字はもっと前から伝わってます】「1億3千万の日本人の永遠の師・王仁。もしいなかったら今日の日本はない」~「霊岩王仁博士文化祭り」開催】の続きを読む

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    1: ダーさん@がんばらない ★ 2018/03/05(月) 10:19:07.28 ID:CAP_USER
    任那日本府は任那国史の名称が日本書紀の完成過程で改変されたと推定

    「温祚系百済と沸流系倭の軍事的比較で優れた朝鮮半島支配説は事実ではない」

    国内歴史学界や言論界は「任那日本府はない」という、防御的歴史観で一貫して発表するが、これは韓日間の正しい歴史を正しく解明できなかったせいで生まれたハプニングなのです。

    任那日本府説は、日帝京城帝国大学の日本人歴史学者であった末松保和が彼の本、任那興亡史でAD 4C~6Cに倭が韓半島南部の伽耶地方を統治したと一方的に主張する植民史観の一つの仮説です。

    しかし、AD 4C中葉、当時、遼西百済から近肖古王時代には温祚系百済勢力が沸流系勢力(倭)を制圧すると、彼らは韓半島に逃避するようになります。

    沸流系勢力が慶尚北道高霊を中心に任那伽耶をしばらく止めて抵抗して百済に敗れて、倭列島に逃げたわけで百済が政治的優位にあったのが実情でした。

    このため、当時温祚系百済が沸流系倭との軍事的比較で優れていたため、倭が韓半島に来て支配したという説は事実ではなくなります。

    逆に温祚系百済勢力が倭列島に追われた沸流系百済倭を監督管理するための政府機関として、任那国史(任那國司、桓檀古記)、日宮府(日宮府、日本書記)、任那之倭宰(任那之倭宰、続日本紀)などの名称が存続されました。

    韓国の記録には任那国史は対馬にあったとされています。百済が現地指導のために派遣した任那王と軍令城主の統制下、倭から派遣された将帥と外交使節が一緒にいた機関が間違いなく任那国史でした。

    百済武寧王が7年(507年)に倭を担当する政府部門として日宮府を設置して、日本書紀に武寧王の息子である純陀を倭国に君(君、現地総督)として派遣したという記録が出てきます。

    百済聖王時代(544年)には、任那伽耶地域に侵入する新羅真興王勢力を防ぐために慶尚南道咸安地域に設置した任那之倭宰の機関名が続日本期出てきます。

    百済軍令城主の統合指揮の下、百済軍と倭から派遣された兵士たちが合同で新羅軍を守る百済と倭の連合軍指揮司令部の性格を持つようになります。

    全般的に温祚系百済が沸流系倭国を支配するために任那伽耶地域(韓半島南部)、対馬、九州北部(大分県)などに倭国を統治するため、むしろ百済が主導して設置した監督管理官庁が任那日本府の正体だったのです。おそらく670年の日本建国の後、720年に日本書記が完成される過程において、任那国史などの名称が任那日本府に変更されたのではないかと推定されます。

    *筆者/ホンスンジュ。歴史学者。失われた韓国古代史研究会会長。成均館転校(歴史担当)。コラムニスト。

    ブレーキニュース 2018/03/02 [16:46](韓国語)
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