1: ハニィみるく(17歳) ★ 2021/06/22(火) 09:08:27.43 ID:CAP_USER

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▲ 1936年9月23日付の毎日新報に掲載された、『大学目薬』広告に出たチェ・スンヒ。
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チェ・スンヒ(崔承喜=さいしょうき)は100年に1人出るか出ないかの傑出した舞踊家だった。1911年生まれなので今年で生誕110周年になる。本人はソウルで生まれたと話し、記録も残っているというが、「江原道(カンウォンド)洪川(ホンチョン)諸谷里(チェゴクリ)で生まれてソウルに行ったと親戚が証言した」という食い違った主張がある。チェ・スンヒは1926年に日本に留学して日本の現代舞踊の第1世代である石井漠を師事した後、1929年に韓国に戻った。翌年2月、毎日新報の主催でチェ・スンヒ舞踊研究所・第1回創作舞踊公演を開いた。まだ20歳にも満たない年齢だった。

チェ・スンヒは1930年代に日本や中国、ヨーロッパ、米国、南米にまで進出した韓流の元祖中の元祖だった。1936年に世界の舞台に進出したチェ・スンヒは草笠童(チョリプドン)、僧舞(ソンム)、花郎舞(ファランム)、長鼓踊り(チャングチュム)など韓国伝統の舞踊を披露して、一気に東西洋の人々を虜にした。石井から現代舞踊を学んだが、創作の韓国舞踊で世界を制覇したのである。画家のパブロ・ピカソと小説家のジョン・スタインベックも公演を見て、チェ・スンヒに夢中になった。 俳優のロバート・テイラーは、ハリウッド映画の出演を斡旋した。チェ・スンヒは1938年、ベルギーのブリュッセルで行われた第2回・世界舞踊コンテストで審査委員を引き受け、米国NBCと提携して米国全域を縦断しながら公演し、中南米の舞台にも上がった。米国ニューヨークで公演した後、『世界の10大舞踊家』という評価を得た。

チェ・スンヒは、数十年前までは口には出せなかった。チェ・スンヒが越北した事実と、越北した理由の一つとして数えられる親日行跡からである。今でも軽率に、「チェ・スンヒの越北と親日問題を芸術的業績と分離すべきだ」と主張するのは容易でない雰囲気だ。チェ・スンヒが日本軍や北韓(北朝鮮)軍の前で慰問公演をした事実を知ればなおさらだ。

チェ・スンヒは舞踊の実力だけでなく、美貌も優れていた。日本の美人コンテストで入賞したという説もある。170cmの長身と西洋的な容貌を持つチェ・スンヒの名声は、最近で言えばキム・ヨナを凌いでいたはずだ。今の業界とは比較できないが、当時の広告業界と映画界はチェ・スンヒのような『大魚(テオ)』を放っておくはずがなかった。チェ・スンヒは現在の人気芸能人のように映画や歌劇にも出演して、数多くの化粧品やお菓子、薬、歯磨き粉、文具の広告モデルとして活動した。『味の素』、『森永製菓』、『大学目薬』、『クラフ歯薬』、『ピカソクリーム』、『明色美顔水』、『ヘチマコロン』などの広告に出演した姿を見つけることができる。特に最近では、1935年の日本の雑誌『主婦の友』に掲載された松板屋百貨店の広告で、水着を着て全身を撮影した姿が公開された(チェ・スンヒ研究家=チョ・ヂョンフィPD)。 上の大学目薬の広告には、『半島の踊り子、チェ・スンヒ嬢』と書かれている。

ソウル新聞(韓国語)
https://www.seoul.co.kr/news/newsView.php?id=20210621030002&

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