かたすみ速報

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    タグ:豊臣秀吉

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    1: 昆虫図鑑 ★ 2023/11/26(日) 08:54:56.00 ID:Wlpo9j9t
    韓国人の被害者意識の歴史認識

     今回韓国を旅行して違和感を覚えたのは韓国における特異な歴史考察の視点である。歴史的出来事を考察するときに被害者的立場から考察・分析するのである。歴史的出来事を当時の世界情勢から分析するとか、客観的な第三者の立場で考察するのではなく、“被害を受けた当事者”として歴史を再構築するのだ。

     日本による朝鮮の植民地支配については、当時のアジアを分割支配しようとする欧米列強の帝国主義という世界の趨勢には焦点を当てず、専ら日本の朝鮮統合に至るプロセスを不当・不法と断じる。そして日本の植民地支配がどれだけ酷く惨いものであったか被害者としての立場から朝鮮近代史を語るのである。

     朝鮮戦争については東西冷戦のなかで米ソの対立により引き起こされた代理戦争であり、その結果朝鮮民族は分断されたという言説は数多の韓国人から聞いた。そして漁夫の利で大儲けしたのが日本であると必ず付言する。

    秀吉の朝鮮侵略だけを調査する歴史研究所

     7月27日午前。全羅北道の南原ナムウォンを見て回った。最初に南原城址へ。この城を拠点に朝鮮軍・明軍及び地元義勇兵が秀吉軍を迎え撃ったが多大な犠牲者を出して敗退。次に犠牲者を祀った万人義塚へ。広大な敷地に博物館のような建物が博物館ではなく文禄・慶長の役について調査・研究している歴史研究所であった。

     研究室に入ると英語を話せる女性職員が対応してくれた。研究所では9人の専門家が文禄・慶長の役について研究しており彼女は助手として資料の整理などをしているという。秀吉の朝鮮出兵だけを扱う歴史研究所があることにいささか驚いた。

    秀吉の朝鮮出兵の今日的な研究課題とは?
     歴史研究所は政府系財団により運営されている。研究テーマは例えば秀吉軍の侵略前と侵略後の農業生産高を推計して経済的にどれだけ被害を受けて回復にどれだけ時間がかかったとか。

     秀吉軍の悪行・蛮行についての研究も重要テーマらしい。例えば侵略した日本軍が戦功を証明するために倒した将兵の耳や鼻を切り取って塩漬けにして日本へ送ったことは日本側の資料でも確認されている。さらに戦功を水増しするため日本の侍は生きている農民の耳や鼻を削いで日本に送ったため日本軍が侵略した地域では耳や鼻がない農民だらけであったということが韓国側の調査で明らかになったようだ。

    (略)

    韓国にとり今でも日本は潜在敵国?

     韓国で市民の意識調査や世論調査をすると現在でも日本は北朝鮮に次いで二番目の潜在敵国という調査結果である。今回の韓国旅行中に韓国人に北朝鮮について聞いた限りでは北朝鮮を喫緊の脅威と感じている人はほぼ皆無であった。むしろ「北朝鮮は経済的に破綻寸前だから韓国を攻める余裕はない」「北朝鮮の核開発・ミサイル開発は米国を対象としたもので韓国を狙っているものではない」というような意見が多かった。

     日本に関しては「日本は軍事力を増強している」として基本的に日本を警戒している意見が過半だった。そしてTVニュースを見ていて気になったのが軍事面での「韓米協力」「韓米日の緊密な連携」というようなフレーズは頻繁に登場するが、「韓日協力」というフレーズは皆無であった。

    韓国ではヒデヨシは残虐の代名詞、対日警戒論の源流は秀吉の朝鮮侵略
     大日本帝国が朝鮮を統合して植民地支配したことは日本人の誰でも認識しており、現在でも韓国人が怒っていることを日本人は理解している。ところが秀吉の朝鮮侵略について日本人は“歴史の教科書に書いてあった”くらいの認識ではないだろうか。

     韓国人にとり“秀吉の朝鮮侵略”は“大日本帝国の植民地支配”と同様に1000年経っても恨み骨髄の大凶厄災なのである。35年ほど前にソウルの財閥企業本社で商談相手の部長がソウルタワーのある丘陵地帯を指して「秀吉の侵略ですべて焼かれて未だに禿山のままです」と雑談で話していたことを思い出す。9年前に韓国を自転車旅行したときも「韓国で河川の氾濫や洪水が多いのは秀吉によって森林が全滅したからです」と水資源公社のダム管理者から聞いたことがある。両方とも科学的にはあり得ないことだが、ネガティブなことを何でも秀吉軍の侵略に結びつけるのは韓国では珍しくない。

     そしてキリスト教徒の多い韓国でしばしば耳にするのが「秀吉は長崎で26人の宣教師・キリスト教徒を磔にした(26聖人殉教)。秀吉は神をも恐れぬ極悪非道の悪魔だ」という秀吉の人物評である。韓国で最も嫌われている日本人は豊臣秀吉であることは間違いないだろう。

    https://wedge.ismedia.jp/articles/-/32207

    【秀吉の朝鮮侵略が韓国人の被害者意識の歴史認識の源流なのか?】の続きを読む

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    1: Ikh ★ 2022/08/20(土) 12:10:19.53 ID:CAP_USER
    「そっか、日本と韓国って」と検索したことがあるだろうか? 
    日韓問題の論点をほぼすべて扱い、国内外の信頼される学術論文に基づく両論併記でわかりやすくユーモラスにまとめ上げた、新著『京都生まれの和風韓国人が40年間、徹底比較したから書けた!  そっか、日本と韓国って、そういう国だったのか。――文化・アイドル・政治・経済・歴史・美容の最新グローバル日韓教養書』が発売された。

    著者は、日本で生まれた韓国人で、フランス・香港・シンガポールで学び働いてきた、著作累計70万部・1億PV突破のベストセラー作家としても知られるムーギー・キム氏。国際感覚と教養をいっきに得られるビジネス教養書として、多方面で反響を呼んでいる。

    本記事では、そのムーギー氏が「日本の英雄、韓国の大悪人説である豊臣秀吉」について解説する。

    ■日本と韓国がすれ違ってしまう理由

     「韓国に対するイライラと、日本に対するモヤモヤが、1冊できれいさっぱり完全解決」をコンセプトに書き綴った新刊『そっか、日本と韓国って、そういう国だったのか。』だが、あまりにも本書を皆に読んでほしくて、私は実に100冊くらい献本を行ってきた。

     日本のビジネスインフルエンサーの友人たちに加え、小学校の時の担任の先生を探し出して本書を送ったりもした。

     首相官邸の岸田首相にも送ったし、孫正義さんにも送った。また韓国大使館の新任の韓国大使あてにも送ったし、韓国の著名な政治家にも送った。

     在日コリアンコミュニティという意味では、民団(在日本大韓民国民団)の中央本部と全地方本部にも送ったし、朝鮮学校や韓国学校にも送ってみた。

     これだけ読んでほしいと心から思っているのに、誰からも返事がないのは、ワークフロムホームでオフィスに行っていないからか、それとも突然、謎のムーギー・キムさんとやらから本が送り付けられてきて、警戒心がマックスに高まったからだろうか。

    ※続きは元ソースでご覧ください

    Yahoo!Japan/東洋経済online 8/20(土) 5:21配信
    https://news.yahoo.co.jp/articles/33a1aeb36fcccae092f9fa1fa329c4957d4b567d

    【【超時空太閤】「豊臣秀吉=虐殺者」韓国人がまだ許せない深い訳】の続きを読む

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    1: 樽悶 ★ 2022/05/29(日) 17:10:25.56 ID:symeUSZW9
    B5F14497-3E1F-458F-B087-67E875744966
     
     豊臣秀吉自筆の書状が加治木島津家資料の中に残されていたことが分かり、27日、寄託先の黎明館(鹿児島市)が発表した。自筆書状は100通余り見つかっているが、県内では初めて。明(みん)の征服を目指した「文禄(ぶんろく)・慶長の役」のさなかに正室の北政所(きたのまんどころ)へ宛てた1通で、同館は「外征に臨む中での心情が伝わる」と解説している。

     1592(天正20)年の6月3日付と推定され、縦28.4センチ、横42.1センチ。前線基地の名護屋(佐賀県)から出された。「当年中に唐国(明)を取り、唐国に遷(うつ)ったら迎えを遣わせる」と書かれ、末尾に「太閤(たいこう)」とある。「からこく(唐国)」の途中とみられる「こく」から始まり、前段部分はなくなっている。

     同館の小野恭一学芸員(37)は「妻に対して、自身の野望を強気につづっている」と指摘。一方、明征服の時期を「当年中」と記すが、1カ月ほど前に出した別の書状では「9月」と伝えていた。秀吉は6月2日、朝鮮水軍の反攻などで渡海の延期を決めており、戦況悪化を認識していたと考えられるという。

     書状は2020年1月、館に寄託された。東京大学史料編纂所(へんさんじょ)と協力し、筆跡などから秀吉自筆と確認。加治木島津家に伝わった経緯は手掛かりがなく「同時代の島津義弘らが入手したか、または後世に購入されたのか、現時点では不明」としている。(以外ソース)

    5/28(土) 8:17配信
    https://news.yahoo.co.jp/articles/6eb07152fc186dfce626bce2404925fea2d15c4b

    【【朝鮮出兵】「文禄・慶長の役」で書いた、秀吉の書状見つかる 正室宛てに「当年中に明を取り、向こうへ渡ったら迎えを遣わせる」】の続きを読む

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    1: ボラえもん ★ 2021/10/30(土) 21:40:27.97 ID:xkGVyC+U9
    toyotomihideyori
     北野天満宮(京都市上京区)は、慶長12(1607)年に豊臣秀頼(秀吉の子)から奉納された鏡を発見したと発表。
    大いに盛り上がっているが、秀頼は秀吉の子でなかったという説がある。真相はいかに。

    ■実子がいなかった豊臣秀吉
     豊臣秀吉の正妻は、おね(ねね)である。しかし、2人の間に実子は誕生しなかった。
    秀吉は側室を迎えるものの、やはり子は誕生しなかった。秀吉にとって、実に憂鬱なことだった。

     戦国時代にあって、後継者たる男子が生まれないことは致命的なことだった。
    そこで、秀吉は甥の秀次を養子に迎え、後継者に据えることで問題を解決しようとした。

     しかし、男子をもうけて後継者に据えることは、秀吉の悲願だったに違いない。そして、秀吉の悲願は見事に実現するのである。

    ■茶々(淀殿)との結婚
     秀吉と茶々(淀殿。以下、淀殿で統一)を側室に迎えたのは、天正16年(1588)のことである。淀殿を側室に迎えたことは、秀吉を幸運に導いた。

     文禄元年(1593)、秀吉の念願が叶って、2人の間に秀頼が誕生した。
    なお、慶長3年(1598)の秀吉没後、秀頼は豊臣家を継承したが、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で徳川家康に敗れて自害した。

    ■秀頼は秀吉の実子ではない
     ところが、秀頼に関しては、古くから秀吉の実子ではなく、淀殿と大野治長の間の子であるといわれてきた(『萩藩閥閲録』)。
    秀頼は、淀殿と治長が密通してできた子だというのである。

     フロイスの『日本史』にも秀吉に子種がなかったことや、夭折した長男・鶴松が実子でないと明確に書き残している。
    こうした点は誠に興味深いところであるが、未だ検討の余地があるといえよう。

     余談ながら、姜沆の『看羊録』には興味深いことが書かれている。秀吉の死後、徳川家康は秀吉の遺命に従って、淀殿を妻に迎えようとした。

     しかし、淀殿は治長の子を宿していたので、これを拒否。家康は治長を流刑にして殺したと記している。しかし、これは虚説であろう。

     現在でも、秀頼が秀吉の実子であるか否かに関しては、論争が続いている。
    実子でないという説を唱える羽鳥英雄氏は、以下の理由を挙げている(『河原ノ者・非人・秀吉』山川出版社)。

    ①根本的に秀吉には子種がなかったと考えられること。

    ②秀頼が誕生する10ヵ月前に秀吉と淀殿は同じ肥前名護屋(佐賀県唐津市)にいなかったこと。

     では、秀頼は誰の子だったのか。

     当時、参籠の場が男女の交情の場となっており、そこで子供が授かることがあった。そこで、聚楽第あるいは大坂城内の城内持仏堂を参籠堂とし、
    宗教者(僧侶あるいは陰陽師)と淀殿が交わって誕生したのが秀頼であるという。大胆な説であるが、さらに検討を要しよう。

    ■まとめ
     一ついえることは、秀頼が実子であったか否かは別として、秀吉の後継者になったことが重要という点である。このことで、豊臣家は存続するのであり、仮に他人の子であっても関係ない。

     そのことを言い出すと、多くの戦国大名は養子を受け入れていたので、当時の世情にあわなくなる。真相は不明であるが、これ以上詮索しても史料的な裏付けは得られないだろう。

    https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20211027-00264232

    【【日本史】豊臣秀頼は、豊臣秀吉の実子ではなかったのか。】の続きを読む

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    1: 樽悶 ★ 2021/07/15(木) 19:45:06.46 ID:hDho330y9
    豊臣秀吉もフロイスからボロカスに批判された1人である。
    no title


     戦国大名の人格を知るうえで、貴重な史料とされるのがポルトガルの宣教師フロイスの『日本史』である。フロイスは多くの大名と接して、その人格を評価した。しかし、その評価基準は明確に偏っており、キリスト教を信仰している(あるいは理解を示す)戦国大名を高く評価した。

     逆に、信仰するどころか弾圧するような戦国大名については、ボロカスのけちょんけちょんにその人格を批判した。そのような偏りがあるものの、非常にユニークでもあるので、私的に5人を選び出してみた。

    ■龍造寺隆信(1529~84)

     龍造寺隆信は肥前国の戦国大名として知られているが、キリスト教の布教には否定的だったという。それゆえ、フロイスの評価も芳しくなかった。「キリシタン教会の最も激しい敵であり、はなはだ暴虐な君主」との言葉は、フロイスが隆信を蛇蝎のごとく嫌っていた証左となろう。

     隆信はあまりの巨漢だったため、フロイスは隆信が6人担ぎの駕籠に乗っていたと記す。宗龍寺(佐賀市)に残る「龍造寺隆信像」(享保4年:1719)は、隆信の肥満ぶりを後世に伝えている。フロイスの感想は、あながち否定できないのかもしれない。

    ■武田信玄(1521~73)

     武田信玄は甲斐の戦国大名として知られ、フロイスが言うには「彼(織田信長)がもっとも煩わされ、常に恐れていた敵の1人」だったという。「戦争においてはユグルタ(紀元前2世紀のヌミディア王で戦争が得意だった)に似たる人」と評価されていた。

     とはいいながらも、信玄は出家していたにもかかわらず、「毎日仏像を拝むが、信仰の願いは他国を支配する事」が日常だったという。また、信玄は家臣から畏怖されたものの、「わずかの失敗でも容赦なく殺す恐るべき人物」とフロイスは記す。いずれにしても、信玄はバリバリの仏教徒だったので、フロイスは嫌いだったようだ。

    ■織田信長(1534~82)

     フロイスの信長に対する評価は、愛憎半ばである。「きわめて稀に見る優秀な人物」、「大いなる賢明さをもって天下を統治した者」という言葉は、キリスト教の布教を許可した信長への最大の賛辞である。

     一方、信長は禅宗、法華宗を信仰しており、それがフロイスにとって我慢ならなかった。フロイスが信長が神になろうとしたこと、本能寺の変後に信長の死体が見つからなかったことを批判して書いているのは、天罰が当たったとでも言いたげである。

     信長の人物像についても「自分以外の全ての者を見下しており上から物を話す」、「家臣の進言などはほぼ聞き入れず、それでいて決断力に優れ、多くの者が絶対君主かのように彼を畏れ従っている」とフロイスは独裁者ぶりを強調する。

     信長はキリスト教への良き理解者だったが、十分な支援が得られなかったので、フロイスは許せなかったのだろう。

    ■明智光秀(?~1582)

     光秀と言えば、連歌や茶道に優れていたので、あたかも教養人のように思われている。しかし、フロイスの評価は、「その才知、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けた」、「裏切りや密会を好む」、「刑を科するに残酷」、「独裁的でもあった」などと評価が芳しくない。

     フロイスは本能寺の変直前において、信長が光秀を足蹴にしたとの記述を残す。しかし、その内容をつぶさに読んでみると、密室で行われたこと、秘密だったと書かれており、世上の噂を単に書き留めたにすぎない。

    ■豊臣秀吉(1537~98)

     秀吉は天正15年(1587)に伴天連追放令を発布し、宣教師を日本から追放しようとしたのだから、その評価が低いどころか、ボロカスなのはいたしかたない。

     秀吉については「優秀な武将で戦闘に熟練していたが、気品に欠けていた」、「極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺していた」、「抜け目なき策略家であった」、「彼は本心を明かさず、偽ることが巧みで、悪知恵に長け、人を欺くことに長じているのを自慢としていた」など、何一つ良いことが書かれていない。

     おまけに、秀吉はわざわざ遠方から招き寄せた兄弟姉妹を惨殺した。この秀吉の兄弟姉妹とは、母・大政所が別の男と結ばれて誕生した子供だった。このことを記すのは『日本史』だけであるが、秀吉に対する執拗なまでに悪罵を放っているのは、悪意すら感じるほどだ。

    (略)

    7/12(月) 6:00
    https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20210712-00245644/

    【【歴史】「キリシタン教会の最も激しい敵であり、はなはだ暴虐な君主」 宣教師からボロカスに人格を批判された戦国大名5選】の続きを読む

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    1: 砂漠のマスカレード ★ 2021/06/11(金) 14:13:15.93 ID:KW/CxCH59
    toyotomihideyosi
    当初は織田信長の政策を継承し、日本でのキリスト教布教を容認していた豊臣秀吉。だが、後に「バテレン追放令」によって布教を禁ずるようになる。秀吉がキリスト教の布教を防ごうとした背景には、ポルトガル人による「奴隷貿易」があった。5万人の日本人が国外に連行されたという、その実態とは?  作家の新晴正氏による『謎と疑問にズバリ答える!  日本史の新視点』より一部抜粋・再構成してお届けする。

     日本にキリスト教が伝わったのは、戦国乱世まっただ中の天文18年(1549年)に薩摩、今の鹿児島・祇園之洲に上陸したイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルによってであった。

     このザビエルからバトンを受け継ぐように永禄6年(1563年)、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが来日すると、ときの権力者の織田信長から布教活動を許されたこともあって、京都や西九州中心にキリシタンが急増した。信長が本能寺で斃れた天正10年(1582年)ごろには全国で約15万人の信者がいたと言われている。

     この数字は当時の京都の全人口のほぼ半数に匹敵するものだった。その後、信長の後継者となった豊臣秀吉は最初こそ信長のキリシタン保護政策を踏襲したが、天正15年になり、突然手のひらを返すかのように「伴天連(ばてれん)追放令」を発する。伴天連とはポルトガル語で宣教師を意味するパードレが訛ったものだという。

     秀吉にはこのとき、布教や商用のために日本にやってくる西欧人に対し、どうしても許せないことがあったのだという。それは一体何だったのだろうか。

    ■最初は布教を許していたが…

     秀吉は権力の座についた当初こそ、信長の政策を継承し、キリスト教の布教を容認していた。布教の裏にある西欧諸国との交易――いわゆる南蛮貿易にうまみを感じていたからである。

     この交易では鉄砲や火薬、中国製の生糸などが輸入され、日本からは主に銀、金、刀剣類などが輸出された。そんな信長以来のキリシタンの保護政策に対し、秀吉に見直すきっかけを与えたのが、天正14年(1586年)7月に秀吉自身が始めた「九州平定」だと言われている。

    ヤフーニュース(東洋経済)6/8(火) 15:01
    https://news.yahoo.co.jp/articles/18eb9427a939883a22f35c495b73131d05897f21?page=1




    【【歴史】「日本人の奴隷化」を食い止めた豊臣秀吉の大英断、被害者の数はなんと5万人】の続きを読む

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    1: 昆虫図鑑 ★ 2021/01/25(月) 08:17:46.17 ID:CAP_USER

    no title
    2020年1月、キムチにさえ見放さた感じの韓国。キムチというと、だいたい韓国を思い出す人も多い。キムチ発祥の国は? と聞けば、韓国だと大体の人は言うだろう。もちろん韓国人は満面の笑みをたたえて、韓国自慢をするであろう。

     しかし、残念ながら、キムチの発祥は、「中国」という説が近年強くなっている。紀元前2世紀の中国の文献「詩経」に、「祖」と呼ばれるキュウリの塩漬けについて書かれている。どうもこれが、元祖キムチなのだ。紀元前3~2世紀は戦乱時代で、まだ未開の地であった今の韓国に、多くの中国人が逃げ住んだ。

     今のキムチの形になるまでは、ここから長い時間かかる。1592年に豊臣秀吉が朝鮮半島に出征するまで待たなければならない。それまでは、あの赤くて辛くて、何とも言えない臭さのキムチは登場していないと、歴史文献は伝えている。

     唐辛子は、唐(中国)から直に入ったわけではなく、寒さに困った兵士のために秀吉が日本から持ち込んだ。唐辛子単体では食べられないので、「祖」に混ぜて食べることによって、身体を温めさせたと。その他に、ニンニクも、滋養強壮力だけでなく、解毒効果や強力な殺菌効果、抗酸化作用があるので、持ち込んだのだ。

     戦の中では、定時に食事を取ることはできない。キュウリの塩漬けに唐辛子とにんにくを混ぜたものは移動させる度に、混ざり合い、発酵する。こうして、今のキムチに近い味が、当時の韓国で「たまたま」できたわけだ。

     つまり、中国からの逃亡者と、豊臣日本軍がいなければ、できなかった。

     日本は、キムチが日本のおかげでできたことは、全く名誉ではないし、逆に迷惑な話なので、声を潜めている。

     しかし、「キムチは中国の文化遺産」として中国がその認定準備を進めている~国際標準化機構(ISO)の標準認定はすでに受けている。中国5千年の歴史の一角だとしているし、韓国が発祥は、被害妄想だと一喝だ。

     もちろん、韓国も黙ってはいない。「キムチは、韓国のもので、干し柿も韓国のものだ」と主張していが、キムチ論争に、干し柿を持ってくる点でオロオロと支離滅裂な動揺が認められる。

     国民の最大自慢のキムチが、中国発祥だなんて、韓国人には認められない事だろう。でも、文献など確固たる証拠をもっている中国は、ある意味最強だ…。

    グローバルニュースアジア
    https://globalnewsasia.com/article.php?id=6904&&country=1&&p=2

    【【韓国ショック】キムチの発祥は「中国説」有力、中国からの逃亡者と豊臣日本軍がいなければできなかった】の続きを読む

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    1: Ikh ★ 2021/01/03(日) 23:06:21.57 ID:CAP_USER

    hideyosi
    日常でもビジネスでも何が起こるか分からない時代。こうした時代を乗り越える唯一の手段が「歴史」だ。時代も登場人物も違えば、まったく同じ歴史をたどることはない。しかし、似たことはこれまで何度も起こっているのである。「想定外」という言葉は、歴史の不勉強による想像力の欠如から発せられる。それならば歴史に学ばない手はない。本稿では、会話形式で歴史を学ぶ。戦国の世が終わり平和が訪れるかと思われたが、スペインとポルトガルを中心に欧米列強が日本に迫っていた――。

    晩年の秀吉は実は狂っていなかった?
    本の虫課長 前回お話した通り、秀吉はついに天下統一を果たしました。しかし、出陣してくれた武将たちへ与える土地が不足します。領土拡大のために明を支配しようと考え、朝鮮へ案内役を依頼しましたが、朝鮮はこれを拒否。そのために朝鮮へ出兵した――と、思いますか?

    渡辺フミオ はい。天下を取った秀吉はそのおごりから、朝鮮出兵を企てたんですよね。高校生のときに予備校でそう習いましたが……。

    本の虫課長 従来の説はそうです。ただ、歴史研究というのは日々、新たな発見が生まれています。例えば、歴史研究者の平川新さん(東北大学名誉教授・平川新氏インタビュー)は、「単に領土拡大が目的であれば、なぜ隣接する朝鮮への侵攻を初めから考えなかったのか? なぜ明や天竺なのか?」と素朴な疑問を持ち、数多くの史料をひもときました。

    泉岡マリ それこそ秀吉の誇大妄想では? 晩年の秀吉は狂ってしまったとか、よく本に書いてあります。

    本の虫課長 秀吉の誇大妄想説は以前からよくいわれてはいますよね。その方が物語としては確かに面白い。ただ歴史研究者というのは、何の証拠もないのにそのような結論を出すことはありません。丁寧に史料を読み解いて事実を導き出します。現存する史料をひもといていった結果、秀吉の「征明構想」は、スペインやポルトガルへ対抗するためであったという説が増えてきているのです。

    渡辺フミオ え! そうなのですか? 秀吉は世界領土分割構想を知っていたのですか?

    (略)

    ダイヤモンドオンライン 2021.1.3 4:55
    https://diamond.jp/articles/-/257908

    【【超時空太閤】秀吉「晩年」の意外な新説、朝鮮出兵は欧州対策?】の続きを読む

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    1: 昆虫図鑑 ★ 2020/08/01(土) 15:44:09.62 ID:CAP_USER
    秀吉
     
    ただ現実に秀吉が選んだ行動は、戦国時代の理論に基づくなら十分理解できるものです。それは、いわば「拡大の原理」です。大名は、戦争で勝って領土を獲得したなら、その一部を配下の武士たちに与えます。だからこそ武士たちは、主君である大名についていくのです。

     秀吉は、とくに気前の良い大名でした。秀吉は貧しい農民の倅なので、もともとの子飼いの大名がいなかったことがその理由として考えられます。秀吉の力が強大化する中で、どんどん増え続ける家臣らに対する求心力を維持するためには、とにかく領地を分け与えたりする必要がありました。そして家臣団がさらに膨らんでいくのなら、新しい領地を獲得しなければなりません。そのために大陸に目を付けた――という理屈には妥当性がありそうです。

    ただし、それだけではなかったようです。これに関連して、歴史学者の平川新氏が最近非常に大胆な説を唱えています(『戦国大名と大航海時代――秀吉・家康・政宗の外交戦略』中公新書、2018年)。

     平川氏は、日本はなぜスペインの植民地にならなかったのかという疑問を投げかけます。

     平川氏は、秀吉の朝鮮出兵によって、スペインは日本の軍事力の強さを知り、日本征服を諦めたというのです。そしてこのとき刻み付けられたら「軍事大国・日本」というイメージは、イエズス会やスペインでその後も強く意識され続け、徳川の時代にまでひきつがれたというのです。

    (中略)

    しかし、この強大な帝国の出現を前にしても、秀吉は彼らに恭順するような考えは持ち合わせていませんでした。スペインが世界の植民地化を目指し、明朝中国を狙っていると見抜くと、「スペインに明を征服されるくらいなら、自分が」と考えた。それが朝鮮出兵の本当の動機でした。さらには朝鮮半島、琉球、台湾、さらにはフィリピンをも服属させようとしていたばかりか、ポルトガル領インドを征服したいという意志さえもっていた――それが、平川氏の考えです。

    https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/61534

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    1: 影のたけし軍団ρ ★ 2019/12/12(木) 15:35:13.73 ID:CAP_USER
    kp250
     
    「野蛮な行為として許せない」北朝鮮、豊臣秀吉の朝鮮出兵を非難


    北朝鮮国営の朝鮮中通信は11日、日本が朝鮮の金属活字を奪ったと非難する記事を配信した。

    同通信は、「朝鮮民族は、世界で初めて人類文化発展史上、画期的な出来事の一つとなる金属活字を発明して使用することによって、
    世界出版・印刷の発展に寄与した」と主張した。

    一方、文禄・慶長の役(1592年~1598年)の間に、「日本侵略軍は戦争の期間、朝鮮で20万個以上の金属活字を略奪した」と述べた。

    そのうえで、「日本が過去、朝鮮で働いた金属活字略奪蛮行は朝鮮民族の文化を抹殺し、
    その発展を阻む野蛮な行為として許せない犯罪である」と非難した。

    Daily NK
    https://dailynk.jp/archives/128385


    【【北朝鮮】 豊臣秀吉の朝鮮出兵を非難 「野蛮な行為として許せない」 】の続きを読む

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    1: しじみ ★ 2019/03/28(木) 01:24:43.41 ID:CAP_USER
     豊臣秀吉(1537~98)が、武将加藤清正(1562~1611)に宛てて朝鮮出兵を命じた朱印状が見つかった。愛知県刈谷市の市歴史博物館が27日発表した。「文禄の役」で清正が出兵する直前に出されたものとみられる。

     朱印状は縦21・5センチ、横125・5センチで軸装されている。竜のようなマークが特徴の秀吉の朱印があることや書状の紙質・形状などから本物と断定した。

     清正に対し、「(第1軍の)小西行長らに朝鮮出兵を命じたので、お前も出陣せよ。異国の者はそんなに強くないと思って、決して油断しないように」と伝える。また、「先に行った者たちが道中で詰まっているので、皆で相談してスムーズに進めるように」という趣旨の秀吉らしい細かい指示もある。3月23日の日付があり、文禄の役で第2軍を率いて4月に出兵した1592年のものと推測される。

     博物館によると、内容自体は福岡藩の黒田家に伝わる古文書に引用されている黒田長政ら3人の大名宛ての同日付の朱印状と同じで、同様の命令書が中国や九州の大名へ広く出されたと推測されていた。だが、3月23日付の命令書の実物が見つかったのは初めてという。

     秀吉の文書に詳しい名古屋市博物館分館蓬左(ほうさ)文庫の鳥居和之文庫長は「一次史料が発見されたことで黒田家文書の内容が事実だとわかる。また、清正の後、加藤家が断絶したため清正の資料は散逸しており貴重だ」と評価する。

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    no title


    朝日新聞
    https://www.asahi.com/articles/ASM3V4RDDM3VOBJB003.html

    【【歴史】秀吉から清正へ「朝鮮出兵の命令書」、本物発見】の続きを読む

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    1: 右大臣・大ちゃん之弼 ★  2019/03/27(水) 11:40:50.81 ID:CAP_USER
    no title

    「罪のない民が犠牲になる歴史が繰り返されてはなりません」 

      24日、日本・京都の「耳墓」前で北郷民(北朝鮮が故郷である人、脱北者)青年A氏が黙祷した後このように話した。A氏は「国力の重要さを新たに感じた」とも話した。 

      耳塚は壬辰倭乱(文禄・慶長の役)で倭軍が切って行った朝鮮人12万人余りの耳と鼻が埋められている場所だ。耳塚を作った主犯である豊臣秀吉の神社の隣にある。北郷民B氏は「このような残酷なことを犯した豊臣秀吉の神社の隣に耳塚があるとは腹立たしい。この歴史をもっと知らせて記憶しなければならない」と力説した。 

      同日、北郷民の青年らが生まれて初めて抗日の歴史の現場を訪れたのは国会外交統一委員会所属の宋永吉(ソン・ヨンギル)共に民主党議員が企画したプログラムによるものだ。宋議員は北郷民の青年24人と2泊3日の日程で日本・大阪と京都などの抗日の遺跡を訪れた。宋議員は「不慣れな韓国の地に定着した北郷民が韓国人と同質感を感じ、よく適応することを願う思いから今回の日程を用意した」と話した。 

      23日の最初の日程は大阪城内に位置する陸軍衛戍刑務所跡地だった。尹奉吉(ユン・ボンギル)義士が虹口公園の義挙後、約1カ月間収監された場所だ。宋議員は北郷民の青年に「尹奉吉義士の義挙について蒋介石は『百万の大軍ができないことを朝鮮人の青年がやり遂げた』と敬意を示した」と説明した。続けて「蒋介石が大韓民国臨時政府を一流国家と認定しながら公式に独立運動資金を支援、武官学校を設立することができた」と付け加えた。 

      探訪団は京都では尹東柱(ユン・ドンジュ)・鄭芝溶(チョン・ジヨン)詩人が通った同志社大学今出川キャンパスを訪問した。キャンパス内にある2人の詩人の詩碑の前で黙祷した。次の日程が耳塚訪問だった。宋議員はそこで「大韓民国で権力は指導者から出るのではなく国民から出るもの」とし、「国家は価値の共同体であり、国民個々人は皆大切だ」と話した。続けて「南と北が抗日闘争の歴史を共有し共に記憶しなければならない」と強調した。 

    中央日報 2019年03月27日 11時14分 
    https://s.japanese.joins.com/article/j_article.php?aid=251743&servcode=a00&sectcode=a10 

    耳塚・鼻塚wiki
    https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%E5%A1%9A
    ※ 2万人分の耳と鼻が埋められている。
    【【北朝鮮嘘をつく】「日本・耳塚、非常に腹立たしい。抗日の歴史、南北共に記憶しなければ」…北郷民青年の怒り 】の続きを読む

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    1: 窓際政策秘書改め窓際被告 ★ 2019/01/18(金) 23:19:39.05 ID:63IjNKFY9 
     kr250
    安倍首相を豊臣秀吉に例え批判  レーダー問題で韓国国会委員長

     韓国軍艦艇による海上自衛隊哨戒機への火器管制レーダー照射問題を巡り、韓国国会の安圭伯国防委員長は18日、声明を発表し、安倍晋三首相が日韓の対立を助長しているとして「内部の対立を外部に向けるため壬辰倭乱(朝鮮出兵)を起こした豊臣秀吉と重なって見えると言っても過度な飛躍ではない」と批判した。

     声明は「周辺国との摩擦を増幅させることは、日本の国内政治ではプラスになるかもしれない」と皮肉った上で「軍国主義の過ちを背負う過去の歴史や、国際政治での日本の地位を考慮すれば責任ある指導者が 取れる選択ではない」とした。


    共同通信(2019/1/18 21:35)
    https://this.kiji.is/458973174566487137?c=39546741839462401

    【【武力で国内統一した人物が外征に出るのは世界史の常識】「朝鮮出兵した豊臣秀吉と重なって見える」…安倍首相を秀吉に例え批判 レーダー問題で韓国国会委員長】の続きを読む

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    1: 右大臣・大ちゃん之弼 ★  2018/11/06(火) 13:09:58.61 ID:CAP_USER
      「私が死ぬ前に望みがあるとすれば、この窯を復元して朝鮮の茶碗を作ることだ。実現すれば500年間余り途切れた朝鮮茶碗の真の再現となるだろう」。 

      3日、慶尚南道昌原市鎮海(チンヘ)の熊川(ウンチョン)陶甕址展示館で会った崔熊鐸(チェ・ウンテク)沙器匠(64)は2002年に発掘された6つの窯跡を眺めながらこのように語った。この日午後、後輩の学者と共に、忘れられた朝鮮陶工125人の第19回追悼祭をした直後だった。 

      熊川宝賠山井谷にある熊川陶甕址の窯跡は1500年代初めから低品質の茶碗を焼いていたところだ。生活に使う茶碗で、高麗青磁から朝鮮時代の白磁、または粉青沙器として作られた。 

      しかし1598年、100年を満たすことなくここは閉窯となった。丁酉再乱(慶長の役)が終わる頃、熊川陶甕址の陶工とその家族125人が退却する日本軍に強制的に連行され、窯跡の火が消えて命脈が途絶えたのだ。 

      朝鮮茶碗は壬辰倭乱(文禄の役)前後の16世紀後半から日本で注目された。当時壬辰倭乱を起こした豊臣秀吉が朝鮮から持ち帰った茶碗を「井戸茶碗」と呼んで茶会を開き、その時に使った茶碗が日本国宝26号に指定された「喜左衛門井戸茶碗」だ。当時から朝鮮の茶碗は井戸茶碗と呼ばれ、その後、連行された朝鮮陶工らが長崎平戸島など各地で作った。井戸茶碗は今でも日本で最高の茶碗として評価されている。 

      この茶碗をおよそ500年ぶりに朝鮮陶磁器の由来地の一つ、熊川で再現し、朝鮮沙器匠の脈を受け継いでいるのが崔熊鐸氏だ。豊臣秀吉が絶賛した井戸茶碗も熊川で作られたものと崔氏らは推定している。 

      崔氏は鎮海宝賠山の近くで生まれた。幼い頃から山のふもとのあちこちに落ちている陶片に接して育った。そして30余年前から宝賠山のふもとに「熊川窯」を作って朝鮮陶磁器の脈を継いでいる。崔氏は「山に埋まっている陶片が師であり、私の学習の場だった」とし「日本に渡った先祖とその子孫が作った作品を見ながら再現している」と話した。 

      崔氏はほとんど毎日、宝賠山に登る。茶碗に使われる最も重要な材料の三白土(白色・黄色・赤色)を手に入れるためだ。崔氏は「ほかの地域の土で作れば熊川陶磁器ではない」と語った。 

      三白土を松の枝にのせ、その上に雨水を注いで濾過した後に熟成させれば粘性を持つ粘土となる。この粘土を轆轤に乗せて茶碗を制作した後、牡蠣の殻で作った釉薬を塗る。朝鮮陶工の方法を同じだ。 

      客を迎える崔氏の応接室には宝賠山で発掘した陶片が並んでいる。陶芸を学んだことがない崔氏にとってその陶片は唯一の師だった。崔氏は「この陶片を見ながら土、釉薬、成形、火の強さなど茶碗を作る方法を習った。言葉のない師匠」と話した。 

      熊川茶碗といえば自然の美しさと素朴さだ。崔氏が作る茶碗にもその特長がそのまま表れている。轆轤にのせられた粘土を成形する時に素朴さを残し、一年に3、4回ほど窯焚きをする。1000点ほどの茶碗が窯に入るが、生き残るのはわずか10点ほどだ。残りはすべて割れて土に埋められる。 

      これまで崔氏の弟子は10人ほどいる。一部は崔氏と共に、一部は独立して熊川陶窯の脈を受け継いでいる。 

      崔氏には最後の夢がある。発見された窯跡のうち原形が残っているところで朝鮮陶磁器をを再現することだ。「土から茶碗を作る人に欲などない。最後の望みがあるとすれば、先祖の窯跡で昔のやり方で朝鮮茶碗を焼くことだ」。

    https://s.japanese.joins.com/article/j_article.php?aid=246814&servcode=400&sectcode=400
    中央日報2018年11月06日 08時52分

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    壬辰倭乱当時に日本に連れて行かれた熊川の陶工125人の追悼祭をする崔熊鐸氏。写真下は井戸茶碗(中央フォト)
    【【再現できないと思う】豊臣秀吉の目に留まった朝鮮茶碗、日本に渡って国宝に】の続きを読む

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    1: ニライカナイφ ★ 2018/07/14(土) 08:53:10.63 ID:CAP_USER
    ◆なぜ金正恩は中国を"千年の宿敵"と呼ぶか
     ~ルーツは"秀吉の朝鮮出兵"にあった

    アメリカと中国の間で上手に立ち回りながら、北朝鮮の現体制の存続をはかる金正恩・朝鮮労働党書記長。
    中国の習近平・国家主席に「偉大なる指導者」とリップサービスをしながら、中国の支配下に入ろうとはしない。
    そのふるまいの陰には、あの「秀吉出兵」時に朝鮮王朝が味わった、当時の宗主国・明による血も涙もない「属国扱い」の記憶がある――。

    秀吉の朝鮮出兵の際、明から朝鮮に派遣された応援の軍隊(古い中国の絵巻物の一部)
    no title

    ■「依存」と「不信」の交錯した感情 
    金正恩・朝鮮労働党委員長はもともと、中国を憎み、「千年の宿敵」と呼んでいました。 
    しかし、トランプ政権が誕生し、アメリカの圧力が強まるなか、北朝鮮は中国に接近。 
    米朝首脳会談の前に2度、会談のすぐ後にさらにもう一度、金委員長は訪中し、習近平国家主席と会談しています。 

    3度目の訪中の際、金委員長は習主席との会談で、習主席を「偉大なる指導者」と呼び、持ち上げたようです。 
    米朝会談の会場となったシンガポールに行くための飛行機を中国に借り、会談後早々に習主席に状況報告をするとは、過去69年の中朝交流の歴史でも類のない蜜月ぶりです。 

    とはいえ、「千年の宿敵」と「偉大なる指導者」という、金委員長の相反する2つの言葉には、北朝鮮が中国に対して抱く、「依存」と「不信」の交錯した感情がよく表れています。 
    国際社会から経済制裁や武力行使の脅しをかけられている現状は、北朝鮮から主観的に見れば「国難」的状況といえます。 

    その国難の中で北朝鮮は、長い半島史のなかで彼らの父祖が抱いた中国への複雑な思いを再体験しているかもしれません。 
    その歴史的記憶の一つが他ならぬ、北朝鮮でいう「壬申祖国戦争」、つまり日本の豊臣秀吉による文禄・慶長の役での、中国(当時は明)の対応です。 

    ■李舜臣を抜擢した男 

    秀吉の軍勢が朝鮮に侵攻した際、絶妙なバランス感覚で国難を救った朝鮮王朝の宰相がいました。 
    この宰相の名を柳成龍(リュ・ソンニョン)と言います。 
    藤堂高虎たちが率いた日本側の水軍に打撃を与えたことでよく知られている、李舜臣(イ・スンシン)を将軍に抜擢したのは柳成龍です。 

    秀吉の命を受けた小西行長や加藤清正は、朝鮮半島に上陸後、破竹の勢いで進軍。開戦からたったの21日で都の漢城(ソウル)を落とし、さらに北上して平壌(ピョンヤン)も落とします。 
    第14代朝鮮王の宣祖(ソンジョ)は民を捨てて、漢城から平壌へ逃げ、さらに平壌から中朝国境の義州へ逃げました。 

    その義州も安全ではないことがわかると、宣祖は中国の明(みん)へ亡命しようとします。 
    しかし、ここで宰相の柳成龍は、「今、朝鮮を一歩離れれば、朝鮮を失ってしまいます」と反対しました。 

    柳成龍は明に援軍を要請する一方、王が明に逃げてしまえば、明の傀儡(かいらい)に堕すると警戒したのです。 
    明の属国であった朝鮮は、秀吉軍の襲来という大きな国難を前に、宗主国の明に頼らざるを得ませでした。 

    しかし、「王が中国に身を預けるようなことをすれば、朝鮮王朝は終わってしまう」と柳成龍は考えたのです。 
    属国なりの矜持といえるでしょう。 

    ■「支援」とは名ばかりの明の援軍 

    朝鮮半島に侵攻した秀吉軍は16万でした。 
    柳成龍らの要請に応え、宗主国であった明は援軍を派遣しましたが、その数はたったの5万でした。 
    しかも、派遣軍の兵糧の負担は朝鮮側持ちというケチぶりです。 

    明軍はケチな上に悪辣でした。 
    朝鮮は飢えに苦しんでおり、明の莫大な兵糧の要請に応えられませんでした。 

    そのため、明軍は兵糧調達と称して、現地で手当たり次第の略奪に出ます。 
    さらに明の将軍の李如松(り・じょしょう)は、朝鮮側が兵糧提供の義務を果たさないことを「約束が違う」と激怒し、柳成龍ら朝鮮の大臣を呼び出し、ひざまずかせ、怒鳴り上げました。 

    柳成龍たちは泣きながら、李如松に許しを請ったといいます。これが明の「支援」の実態でした。 


    PRESIDENT Online 2018.7.13
    http://president.jp/articles/-/25610


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    1: 【B:82 W:105 H:96 (D cup)】 @ハニィみるく(17歳) ★ 2018/06/16(土) 09:57:24.69 ID:CAP_USER
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    「朝鮮の技術者を皆殺しにしろ」

    朝鮮(チョソン)宣祖(ソンジョ)25年(西暦1592年)、豊臣秀吉の命である。

    壬辰倭乱(文禄の役)を起こした豊臣秀吉は日本軍に『工芸部』という特殊部隊を設置して、このように命じた。

    工芸部は朝鮮の陶工を生け捕りにしたり、陶磁器を略奪する主要任務を務める部隊だった。

    朝鮮人が使っていた茶碗や小便壺、沙鉢、さらには犬のエサ入れまで。目につく物は全て回収して行った。

    豊臣秀吉はなぜそのように陶磁器に執着したのだろうか。

    実は、日本は壬辰倭乱の前から朝鮮の『陶磁器文化』を欲していた。

    17世紀の初頭まで、白磁を作る技術は全世界で中国と韓国だけが持っていた。当時の日本は磁器を作る独自の技術を持っていなかった。

    このような状況で日本は中国の華やかな陶磁器よりも、朝鮮の優雅ながらも堅苦しくない陶磁器に注目した。

    結局、日本は壬辰倭乱が起きるとすぐに朝鮮の陶磁器文化を略奪する計略を立てた。

    陶工を拉致して日本に連行した後、日本で陶磁器を作らせたのである。

    この時から日本では陶磁器文化が花を咲かせ始めた。

    その後朝鮮の陶工が作った陶磁器とその製作技術をヨーロッパに輸出して、ヨーロッパの各国は日本が販売する陶磁器の美しさと技術力を見て感嘆した。

    実はその陶磁器は朝鮮の陶工が作った物なのニダ。

    このような背景から、ヨーロッパでは壬辰倭乱を『陶磁器戦争(Ceramics war)』と呼んでいる。陶磁器によって勃発した戦争という意味だ。

    日本が我が国の文化財を略奪した物が一つや二つだけではないとしても、陶磁器文化まで略奪して世界で『日本の技術力』として認められたという事実も必ず知っていなければいけない。

    キム・ヨンジン記者

    ソース:インサイト(韓国語)
    http://www.insight.co.kr/news/160827

    【【妄想乙】我が国の陶磁器文化を盗んで世界で技術力を認められた日本】の続きを読む

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    1: 動物園φ ★ 2018/03/27(火) 14:56:05.30 ID:CAP_USER
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    2018年3月27日 10時48分

    日本の市民団体「NO MORE倭乱実行委員会」が26日午前、韓国巨済市(コジェシ)にある玉浦大捷(オクポデチョプ)記念公園 で「壬辰倭乱反省集会」を開催した。

    韓国と日本の和解と共生を追求する同団体は1992年に創設され、2000年からは毎年慶尚南道(キョンサンナムド)や釜山(プサン)など壬辰倭乱(文禄・慶長の役)にまつわる遺跡を訪れて反省・交流行事を行ってきた。

    釜山日報など韓国メディアによると、この日巨済を訪れたメンバーは日本近代史学者、医師、市民団体活動家、高校生、人権運動家、事業家、教師、牧師ら23人で、玉浦大捷記念公園塔の前で基調発表の報告や壬辰倭乱犠牲英霊に対する献花、黙祷などを行った。また、韓国童謡『私たちの願い』などを韓国語で歌った。

    同団体の実行委員長は「日本は過去の侵略事実を認めることを自虐史観だと言って否定するだけでなく、日本の伝統と文化を守るという口実で冷遇している」とし「我々は安保法制定や憲法改正の方向性を知るためには過去の倭乱と日本帝国による侵略の歴史を正しく認識する必要がある。これこそが、日本が再び過ちを繰り返さない道だと肝に銘じたい」と強調したと慶南道民日報が伝えた。

    玉浦大捷は壬辰倭乱当時、朝鮮水軍が初勝利をあげ、倭船約50隻のうち26隻を撃沈させた戦いだ。巨済市は1996年、この玉浦大捷を記念するために記念公園を造成した。

    ライブドアニュース(中央日報)
    http://news.livedoor.com/article/detail/14490778/

    【【日本市民でお里が知れます】日本市民たちが韓国で「壬辰倭乱反省集会」 】の続きを読む

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