かたすみ速報

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    タグ:GHQ

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    1: LingLing ★ 2022/05/17(火) 20:31:47.11 ID:CAP_USER
    徴用工で問題となった「朝鮮人班長」による着服 賃金自体は当時としては高額
    「週刊新潮」2022年4月28日号 掲載 
    近現代史検証研究会 東郷一馬

    革命を目指す「在日本朝鮮人連盟」と「日本共産党」の活動拠点の一つは、多くの朝鮮人が働く「炭鉱」だった。その仕事は危険と隣り合わせだったから、賃金は高い。しかしさまざまな理由で全額が本人の手に渡っていなかった。ここに「徴用工問題」の淵源がある。

    民族統一と共産革命を目指し、日本共産党再建時の母体にもなった在日本朝鮮人連盟(朝連)――。その活動費は、鉄道や物流の利権を得た同胞の送還事業や、闇米の売買などからもたらされたが、他にも重要な資金源があった。

    それは「炭鉱」である。

    法務省の入国管理局によると、終戦時にわが国に在留していた朝鮮人は、200万人を超える。1938年、戦時下の労働力不足を補うために国家総動員法が施行され、翌年、国民徴用令が出されると、朝鮮半島などから63万5千余人に上る労務者が渡航してきた。敗戦後にGHQに出入国管理が移管された時、事業現場にいた朝鮮人らは32万2千余人に上った。

    朝鮮からの労務動員者が多数働いていたのは、軍需産業、土木事業、そして石炭産業だった。

    1947年発行の「石炭労働年鑑」によると、炭鉱で働く朝鮮人労働者数は、1945年7月末時点で石炭労働者全39万153人の3割、約12万人に及んだ。その在留地は朝鮮に近い福岡・山口・広島県及び北海道の産炭地だった。

    在留朝鮮人たちは、日本の敗色が濃くなると、戦禍を逃れるために帰国を始めた。特に米軍の空爆の標的となった軍需工場の労働者は、次々と職場を放棄し、空襲のない朝鮮半島へと船を仕立てて帰還していった。そして戦争が終わると、一気に大量の朝鮮人が引揚げ港に殺到した。

    【必要な人物の帰還を拒否】
    GHQは治安維持のため、できる限り早期に朝鮮人労働者を計画輸送で送還させようとし、それを受けて政府は朝鮮人団体の興生会、そして朝連の協力を仰いだ。

    三菱など大手資本の炭鉱では、独自に船を仕立て、朝鮮人労働者をまとめて帰還させていた。もっとも日本政府は、戦後復興のためにはエネルギー源の石炭が不可欠だったことから、日本人が戦地から帰還し、炭鉱での人員の補充ができるまで朝鮮人を慰留しようとした。

    1945年9月1日の各地方長官への通達には、

    「石炭山等に於ける熟練労務者にして在留希望者は、在留を許容すること。但、事業主に於て強制的に勧奨せざること。輸送順位は概ね土建労務者を先にし、石炭山労務者を最後とし、地域的順位に付ては運輸省に於て決定の上、関係府県・統制会・東亜交通公社に連絡す」(「朝鮮人集団移入労務者等ノ緊急措置ニ関スル件」)

    とある。

    また朝連も、組織の大切な構成員を減らしたくはなかった。このため、引き揚げ特権喪失者リストを作るなどして、必要な人物の帰還を拒んでいる。

    北海道の朝鮮民族統一同盟(朝連の一組織)の創設メンバーで、共産党の細胞としても活躍をした金興坤は、GHQへの不満を記している。

    (以下は省略)

    【北海道に17万の朝鮮人】
    【労働組合、朝連、共産党】
    【共産党には惜しげもなくカンパする朝鮮人】
    【炭鉱の賃金体系】
    【500名募集のところに10倍の応募が】
    【高給取りだった炭鉱夫】
    【賃金持ち逃げ】
    【日本政府の方針は】
    【未払い賃金はどこへ?】 

    https://news.yahoo.co.jp/articles/6c76ccd307574d28f0ed4188224f961bee35e563
    ソウル市の龍山駅前にある徴用工像(新潮社)
    no title

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    1: 朝一から閉店までφ ★ 2022/02/24(木) 21:13:22.73 ID:YNocqnoS9
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    かつて国宝に指定され、戦後GHQによる接収で所在不明となっていた鹿児島県の神宮の刀と特徴が一致する刀が、オーストラリアで見つかり、所有者はNHKの取材に対し、将来は返還する意向を示しました。文化庁は「おそらく本物だと考えていて、非常に喜ばしい」とコメントしています。

    鹿児島県霧島市の鹿児島神宮に奉納され、戦前は国宝に指定されていた「刀 無銘則重」は、戦後、GHQに接収され、その後所在不明となっていました。

    オーストラリアの愛刀家、イアン・ブルックスさんは、この刀と4年前にインターネットのオークションで購入した刀の特徴が一致していることに気付き、調査を始めました。
    その結果、刃の長さや、鐔(つば)に彫られた銘が一致したほか、さやに巻きつけられていたとみられるラベルに、判読不明な2文字に続いて「・・島神宮」という文字があることがわかりました。

    さらに、鹿児島神宮と連絡をとったところ、このラベルに記載された「三二」と「八一」という数字が、神宮側に残されている目録と一致したということです。

    ブルックスさんはNHKの取材に対し「自身の死後には確実に、この刀を鹿児島神宮に戻したい」と話していました。

    文化庁はNHKの取材に対し「実物はまだ見ていないが、特徴が一致していることから、おそらく『刀 無銘則重』だと考えていて、今回の発見は非常に喜ばしい。所有者の求めに応じて、本物かどうかを確認したり、返還の際に調整したりしたい」とコメントしています。

    「則重」は鎌倉時代の刀工で、鹿児島神宮には200年余り前に、当時の薩摩藩主島津斉興が奉納しました。

    鹿児島神宮の井上容一さんは「戻ってくることはないと思っていたので、驚きました。長く受け継いでいけたら、とても喜ばしい」と話していました。

    「遺言状で刀が鹿児島神宮に戻ることが確実になるように…」

    (略)

    NHK 2022年2月24日 14時15分
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220224/k10013498361000.html

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