かたすみ速報

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    タグ:復元

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    1: @仮面ウニダー ★ 2024/11/17(日) 13:36:38.69 ID:QDxcfUbT
    過去2年間閉ざされていた北神門、ついに市民に開放される 小さな門に過ぎないが、韓国現代史の奇跡が詰まっている

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    ▲10月9日から開放が始まった宗廟(そうびょう)北神門。写真は10月19日、北神門を訪れた市民が門を通って宗廟や昌慶宮を見て回ったり、門の前で記念写真を撮ったりしている様子。/金泰勲記者

    朝鮮王朝時代に「東闕(けつ)」と呼ばれていた昌慶宮と昌徳宮は、もともと塀一つ隔てただけで宗廟と隣り合っていた。
    1932年に日帝がこの塀を取り壊し、昌慶宮と宗廟の間に道路(現在の栗谷路)を通した。
    総督府は、交通の便を良くするためだと言ったが、宮殿を壊して植民地朝鮮人の誇りを傷つけようというのが本心だった。
    そういう意味から、昌慶宮と宗廟を再び連結する復元事業は、植民残滓(ざんし)を振り払って文化・経済大国へと跳躍する韓国が当然やるべきことだった。ソウル市が2010年にその第一歩を踏み出した。栗谷路を地下道化してその上に再び塀を作った。
    塀沿いに、徳寿宮の石垣の道(トルダムキル)と同じ散策路も造成した。

    【Photo】1904年当時の敦義門の様子
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     12年かかったこの事業の画竜点睛は、国王が東闕と宗廟を行き来する際に通過していた北神門の復元だった。
    ところが、せっかく復元したこの門は、残念なことに過去2年間閉ざされていた。復元のニュースを聞いて現場を訪れた市民は「東闕と宗廟が連結されたというから来たのに門を通れないのだから、だまされた気分」とあきれていた。
    筆者も当時の文化財庁(現在の国家遺産庁)に「北神門を市民に返してこそ、復元の趣旨が生かされる」と何度も建議した。
    昨年から国家遺産庁が変化の動きを見せ始めた。「北神門開放を推進している」とし「昌慶宮側の入り口が険しくて事故の危険があるので、スロープを作った後に開放したい」と約束した。
    全ての準備プロセスを終え、10月9日の「ハングルの日」に合わせて遂に北神門が開かれた。
    ー中略ー

    一部では、滅んだ王朝の愚かな過去をなぜカネをかけてよみがえらせるのか、と言う。そんな人々は、文化遺産が単なる過去の痕跡ではなく、われわれのこんにちの姿を照らし出す鏡であることを見逃している。豊かに暮らしながら、祖先が残してくれた遺産を放置する国はない。逆に国の具合が悪いと、輝かしい過去も捨てられて光を失う。
    第2次大戦当時、弱小国だったポーランドはナチス・ドイツに徹底して破壊された。首都ワルシャワの美しい王宮も廃虚となった。
    戦争が終わった後、ポーランドは長い復元の努力の末に、王宮のかつての姿をよみがえらせた。
    東欧の富国へと飛躍した国力がそれを可能にした。現在では、ポーランド人は伝統と現代がよく調和したワルシャワを誇りに思っている。

     北神門を訪れる市民を見ながら、遺跡復元の真の意味を考えてみた。かつて、遺跡や遺物は遠くにあって、目で見るだけの存在だった。
    しかし最近の大勢は、国民が立ち寄り、感じて体験する方式へと変わりつつある。北神門の開放は、その流れを反映した文化行政だ。
    ただし、公休日や「文化がある日」(毎月最終水曜日)にのみ開放するというのは惜しい。
    いつ訪れても常に門が開いていて、迎え入れられるようにすべきだ。北神門は小さな門だ。だが、日帝は決意を込めてその小さな門を壊し、われわれはその門をついによみがえらせた。
    国民の元に戻ってきた北神門を通過するとき、植民と戦争・貧困から立ち直った奇跡の韓国現代史が体に入ってくるかのようだった。

    金泰勲(キム・テフン)論説委員

    全文はソースから
    記事入力 : 2024/11/17 11:55
    https://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2024/11/11/2024111180008.html

    【【朝鮮日報コラム】 日帝が壊した門、われわれがよみがえらせた門】の続きを読む

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    1: LingLing ★ 2022/08/17(水) 19:29:50.92 ID:CAP_USER
    韓国国宝第1号の南大門、復元3カ月で明らかになったずさん工事…業者の賠償責任認める判決

    2008年に火災が起きた崇礼門(スンレムン・南大門)を復元する際に天然顔料の代わりに使用が禁止された値段の安い化学顔料などを無断で使用したホン・チャンウォン丹青匠とその弟子が国から巨額の損害賠償を求められることになった。

    【写真】復元から3カ月で剥がれた南大門の丹青
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    16日の法曹界によると、ソウル中央地裁は10日、韓国政府がホン丹青匠と弟子のハンさんを相手取り起こした損害賠償請求訴訟で、原告に共同で9億4550万4000ウォン(約9610万円)と遅延損害金を支払うよう命じる判決を下した。

    判決が確定すればホン丹青匠とハンさんは丹青工事が終わった2013年2月から年5%で計算した遅延損害金を加えた約14億ウォンを韓国政府に支払わなくてはならない。

    国家無形文化財保有者だったホン丹青匠は2012年8月から2013年2月まで崇礼門の丹青復旧工事を担当し作業を進めた。

    ホン丹青匠は伝統復元に自信があると文化財庁に明らかにしたが、伝統技法で丹青を修復した経験は1970年に師匠がする工事にしばらく参加したのがすべてだった。

    ホン丹青匠は最初の1カ月ほどは天然顔料と伝統接着剤を使う伝統技法で作業を進めたが、色がうまく出ず、天気が冷え込むと伝統接着剤であるにかわがこびりついた。

    そのためホン丹青匠とハンさんは工事期間を減らすために契約に反して化学接着剤(アクリルエマルジョン)と化学顔料を隠れて使った。彼らは監理を避けて主に明け方の時間帯に作業したとされる。

    このように色が塗られた丹青は結局復旧して3カ月で剥げ落ちた。

    韓国政府は2017年3月、ホン丹青匠とハンさんを相手取り崇礼門の丹青の全面再施工に必要な11億8000万ウォン余りの賠償を求め訴訟を起こした。

    裁判でホン丹青匠とハンさんは化学顔料を混ぜて使ったから丹青が剥げたとは断定できないため損害賠償責任は成立しないと主張した。

    裁判所は国立文化財研究所の実験と鑑定結果などに基づき、「崇礼門の丹青の亀裂と剥落が被告の材料混合使用により発生したと認めるには不足する」として彼らの主張を一部認めた。

    裁判所はしかし、「被告は文化財庁と協議して決めた伝統材料を使って丹青工事を施工する義務がある」と指摘した。

    続けて「化学材料の混合使用はそれ自体が原告が計画した伝統技法通りの崇礼門復元に外れており下請け契約にも反する。被告は文化財庁と協議した方式に反して崇礼門の丹青を施工する違法行為を犯した」と結論を出した。

    ただ裁判所は伝統材料で施工した一部の範囲でも丹青が剥がれた点、文化財庁がホン丹青匠に工事を早く完成させてほしいと要求していた事情などを考慮し、彼らの賠償責任を80%に制限した。

    民事訴訟と別個にホン丹青匠は2015年5月に特定経済犯罪加重処罰法上の詐欺容疑で刑事裁判にかけられ懲役2年6月の実刑を宣告され刑が確定した。文化財庁は2017年に彼の無形文化財保有者資格を剥奪した。

    ヤフーニュース(中央日報)
    https://news.yahoo.co.jp/articles/775ff17418b15624475fecdbf71c9d30955d2089

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    1: LingLing ★ 2022/07/24(日) 20:08:10.22 ID:CAP_USER
    遺伝子で復元した伽耶人の顔…現代韓国人とそっくり
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    三国時代(4世紀半ばから新羅が統一する668年まで)の韓半島南部で暮らしていた人々は、こんにちの韓国人とかなり似ていたことが明らかになった。三国時代が、韓国人のアイデンティティーを確立する時期だったのだ。

    蔚山科学技術院(UNIST)バイオメディカル工学科の朴鍾和(パク・チョンファ)教授の研究陣は6月22日、学術誌「カレント・バイオロジー」を通して「三国時代韓半島のゲノムを初めて分析した結果、古代韓国人には大枠で少なくとも二つの遺伝子集団があったことが判明した」と発表した。

    さらに、ゲノム情報を活用したモンタージュを予測した結果、三国時代の韓半島人は外見の上で現代韓国人とかなり似ていると推定された。

    研究陣は「現代韓国人のアイデンティティーが確立した推定される三国時代の古代人のゲノムを初めて分析し、ビッグデータを整備した研究」だとし「韓国人の起源と単一化のプロセスを綿密に調べることができる」と説明した。

    【図】三国時代の伽耶地域(金海)に当たる大成洞と柳下里貝塚
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    ■古代韓半島の二つの遺伝子グループを確認

    今回の研究はUNISTゲノムセンター、国立中央博物館、国立金海博物館、ソウル大学、ゲノム研究財団、オーストリアのウィーン大学、(株)Clinomicsが共同で進めた。

    研究陣は、伽耶に該当する金海大成洞古墳群と柳下里貝塚の2カ所から出土して博物館に保管されている西暦300-500年ごろの遺骨を分析した。古代人22人の骨と歯のサンプル27点から遺伝情報が含まれるDNAを抽出し、解読を行った。この中から、8人に該当する高品質ゲノム情報を確認した。

    分析の結果、古代人8人のうち6人はこんにちの韓国人と新石器時代(紀元前8000年-紀元前1500年)ごろの韓国人、古墳時代(西暦3-7世紀)の日本人と遺伝的に近いことが明らかになった。逆に2人は、相対的にこんにちの日本人や縄文時代(紀元前1万年-紀元前300年)ごろの日本人に近かった。

    朴鍾和教授は「三国時代の韓半島における人口集団の多様性は今よりも大きく、大枠で少なくとも二つの遺伝子集団があった」と説明した。大きく見ると、大陸で拡大した遺伝子集団と、アジア全域に散らばって韓半島南部の島と日本にのみ残る遺伝子集団があったという。

    さらに朴教授は「大陸で稲作により人口が急増した集団とは異なり、縄文人は狩猟やアワの栽培を行い、チベット高原や東南アジア、韓半島の島しょ地域や日本に孤立した」とし「三国時代の伽耶にも、こうした縄文人の痕跡が残っている」と語った。

    ■人工知能で伽耶人のモンタージュを作成

    研究陣は、DNAで外見を決定付ける遺伝子の部位160カ所を選び、人工知能で伽耶人の顔を復元した。伽耶人は褐色の目と黒くて太い直毛を持ち、現代韓国人に似た外見をしていた。また、東アジア人の特徴である乾燥した耳あかと体臭が少ない遺伝子も確認された。

    朴鍾和教授は「現在までに出てきた古代韓国人のゲノムは、主として南東地域に分布しているという限界がある」とし「現代と古代の韓国人の移動や混合に関する全般的な絵を表現してみようと思ったら、韓半島内陸部やさまざまな時期の古代ゲノムを追加分析する必要がある」と語った。

    李永完(イ・ヨンワン)科学専門記者

    朝鮮日報日本語版
    https://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2022/07/22/2022072280096.html


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    1: 少考さん ★ 2021/10/31(日) 12:48:51.88 ID:skm+zaRZ9
    これが「弥生人」の顔…彫り深く低い鼻・髪は太く黒々、DNA分析で復元

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    鳥取市 青谷町 の「青谷 上寺地遺跡」で見つかった人骨と、骨から採取したDNAの分析から、弥生人の顔を復元した胸像を鳥取県が作成した=写真=。国立科学博物館の監修のもと復元したもので、遺伝子情報を基にした弥生人の復顔は全国で初めてという。

    青谷上寺地遺跡では2000年、弥生時代後期(約1800年前)の男性の頭蓋骨と脳が、ほぼ完全な状態で発見された。復元には頭蓋骨と、そこから採取できたDNAを用い、個体の約4割のゲノム(全遺伝情報)解析に成功した。

    その結果、父系は日本古来の縄文人、母系は渡来系で、頭髪は黒々とした太い毛だったことが判明。頭蓋骨の形状に合わせて表情を作る筋肉を粘土で型どりし、髪の毛は人工毛で製作した。

    (略)

    読売新聞 2021/10/31 12:16
    https://www.yomiuri.co.jp/culture/20211031-OYT1T50036/


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    1: みの ★ 2021/06/11(金) 11:16:11.30 ID:xswvOr1b9
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     太平洋戦争中、「ゼロ戦」を上回る高性能の戦闘機があったことを知っていますか。

     “日本海軍最後の切り札”とも呼ばれた「紫電改」です。その速さは終戦後、一緒に飛行したアメリカ軍の戦闘機を置き去りにしたという逸話も残るほど。

     そんな「紫電改」が、令和の現代に復元されました。復元には94歳の元パイロットも協力。戦闘機を通して伝えたかったこととは。
     (大阪拠点放送局 記者 加藤拓巳)

    ■復活、紫電改

     「紫電改」読み方は「しでんかい」です。戦後74年がたった2019年に復元されました。

     全長9.37メートル、翼の幅は11.99メートル。濃い緑色の機体が忠実に再現されています。操縦席の計器類や細かな鋲の位置まで精巧に造られています。

     実際に空を飛ぶことはできませんが、機体を移動させたり、操縦席に乗ったりすることも可能です。

    (略)

    NHK 2021年6月7日 16時02分
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210607/k10013071411000.html


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