かたすみ速報

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    タグ:新羅

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    1: LingLing ★ 2024/05/28(火) 23:30:39.41 ID:rB3c23Gf
    神話中の歴史13、延烏郞(ヨノラン)と細烏女(セオニョ)
    -延烏郞と細烏女 、倭の王と王妃になり 武器製造技術と絹織技術伝播

    浦項(ポハン)市が新羅時代、延烏郎(ヨノラン)と細烏女(セオニョ)が倭に発ったところとして伝わる迎日湾(ヨンイルマン)地域に、延烏郞と細烏女のテーマパークを造成している。
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    延烏郞と細烏女夫婦は、新羅の阿達羅(アダラ)王時代に倭に拉致され、小さな国の王と王妃になったという説話で伝えられている。

    延烏郞と細烏女の拉致で新羅に太陽と月が消えて、暗闇が覆った。阿達羅王が延烏郞と細烏女に帰って来るよう要請したが、彼らは既に倭の王になった。王は彼らが送った絹で祭祀を執り行うと、太陽と月が再び現れたと伝わる。

    学者たちは、延烏郞と細烏女が祭祀を執り行う巫堂(ムーダン)だったと推測するなど、解釈がまちまちだ。

    阿達羅王当時、新羅は外勢の侵略と内紛が起きて、政治が大きく揺らいだ。結局は朴氏王朝が阿達羅時代に幕を下ろし、昔氏王朝が始まった。延烏郞と細烏女についての説話も、このような政治的な現実を隠喩して製作されたものだ。

    ◆神話伝説:延烏郞王になる
    新羅の阿達羅王時代に、東海の海辺で延烏郞と細烏女夫婦が幸せに暮らしていた。ある日、延烏郞が海に出て海藻を採っていたが、突如、彼が座っていた岩が動き始めた。延烏郞が岩から降りる前に、岩が海の上を速く走り、いつのまにか倭にたどり着いた。

    倭の人々が「おお、あなたは平凡な方ではありません。どうか我々の王になってください」と懇請した。延烏郞は彼らの切実な請いを受け入れ、倭の王になった。

    一方、細烏女は海に出た夫が日が暮れても帰ってこないと、おかしな気がして海辺に出て夫を探し回った。そうしていると、岩の上に脱いでおいた延烏郞の履物を発見した。驚いた細烏女が履物を持ってよく見ていると、岩が動いて速く走り、延烏郞が留まっていた倭に到着した。

    倭の人々が延烏郎にこの事実を知らせた。延烏郞が海辺に駆けつけてみると、それは他ならぬ自身の妻の細烏女だった。2人はうれしさで互いに抱擁して喜んだ。そうして細烏女は倭の王妃となった。

    ところが、延烏郎と細烏女が倭に行って以降、新羅ではおかしなことが起きた。突然、太陽と月が光を失ってしまったのだ。

    阿達羅王はなぜこのようなことが起きたのか不思議に感じて、星座を読んで未来を見通すことができる日官に事の顛末を調査させた。日官は「近ごろ、太陽と月が光を失った理由は、太陽と月の気運が我が国になく、倭に行ってしまったせいです」と報告した。

    王は使臣を送って、2人を取り戻すように言った。しかし、延烏郎は使臣に「私がこの国に来たのは天が決めたことだから、どうやって戻ることができるだろうか。王妃が織った美しい絹をあげるから、帰ってそれで天に祭祀を行いなさい。そうすれば、太陽と月が再び光を取り戻すだろう」と話した。

    使臣は延烏郞が授けた絹を持って帰ってきて、阿達羅王に顛末を報告した。王は臣下たちに命令し、延烏郎の言葉通り、天に祭祀を執り行わせた。

    すると、本当に太陽と月の気運が戻ってきた。阿達羅王はその絹を国家の宝物にして、王室倉庫に保管させ、その倉庫を貴妃庫(キビゴ)と呼んだ。また、天に祭祀を執り行った場所は、迎日県(ヨンイルヒョン)または都祈野(トギヤ)と呼ばれた。

    延烏郎と細烏女の説話を通じて、当時の政治的状況を調べなければならない。阿達羅王は朴氏で、新羅の始祖・朴赫居世(パクヒョッコセ)は明るい光で世の中を治めるという意味だ。太陽と月の気運が消えたということは、朴氏王朝が終わったことを意味する。

    また、この時代には新羅の文化が日本より先にあったから、日本に文化を伝えることは一般的な事だった、ということを理解させる。
    (省略…)

    カン・シイル記

    大邱日報
    https://www.idaegu.com/news/articleView.html?idxno=604478


    【【韓国神話】 新羅の「延烏郞と細烏女」 倭の王と王妃になり、武器製造技術と絹織技術を伝える】の続きを読む

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    1: LingLing ★ 2022/06/21(火) 19:56:36.03 ID:CAP_USER
    半導体強国の底力、8世紀の黄金遺物から見つけた
    -慶州東宮と月池で2016年発掘
    -爪ほどの金の塊しわくちゃのまま出土
    -髪の毛より細い線装飾・・・顕微鏡確認
    -「8世紀の新羅王室示す現存唯一の金箔」

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    慶州の東宮と月池で発掘されて、8世紀の遺物と推定される「線刻團華雙鳥文金箔」の細部の様子。髪の毛より薄い線を反復して模様を作ったことが、顕微鏡を通じて確認できるほど精巧だ。/写真提供=文化財庁

    [ソウル経済]
    半導体強国の精密さは1300年前の新羅時代、既に確保された能力だったようだ。 親指一節くらいになりそうな幅3センチの薄い金箔に、人の髪の毛の太さの半分にもならない細い線を無数に引いて一輪の花と鳥2羽を刻んだ。顕微鏡で覗いて見ると、12枚の花びらと大量の鳥の毛まで確認できる。

    精巧さでは引けを取らない国家無形文化財彫刻長のキム・ヨンウン保有者ですら、「このような繊細な模様は、顕微鏡を見ても到底作れそうにない。レーザーのような現代装備で製作して出来るのかを、実験してみなければ分からない。不可思議なくらいの作業」と舌を巻いた。慶州東宮と月池から出土した8世紀新羅遺物「線刻團華雙鳥文金箔」だ。

    文化財庁国立文化財研究院国立慶州文化財研究所は2016年11月、慶州の東宮と月池ラ地区の北側発掘調査途中で発掘した8世紀頃の金箔遺物2点を16日、ソウル国立古宮博物館で初めてメディアに公開した。舎利荘厳具などの仏教遺物を除けば、統一新羅時代の純金遺物が確認されたのは公式的に初めてだ。その上、想像を超える精巧な模様は関連分野の専門家たちを驚かせた。科学的保存処理と専門家諮問会議を経て、6年越しで公開された。研究所側は、「最初に発掘された当時、小さな金の塊のように見えるほどしわくちゃになっていて、開いて保存処理して模様を確認するまで、精巧な過程のためすごく長くかかった」と明らかにした。
    (省略…)

    チョ・サンジン美術専門記者

    ソース ソウル経済(韓国語)
    https://n.news.naver.com/mnews/article/011/0004066466

    文化財庁国立文化財研究所は2016年、慶州東宮と月池で発掘された純金遺物を数年間保存処理・分析して、極めて細かい花鳥模様を発見した。大人の爪くらいの大きさに分かれて、しわくちゃになった状態で発見されて、確認がかなり難しかった。合わせた大きさも100ウォン玉よりも小さい。/写真提供=文化財庁
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    慶州東宮と月池の北側で発見された金箔遺物の発掘当時の姿。互いに分かれて20mほど離れた状態で発見されて、保存処理過程を通じて2点が一つだったことが確認された。/写真提供=文化財庁国立文化財研究所
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    慶州東宮と月池で発掘された8世紀の「線刻團華雙鳥文金箔」の全体像。100ウォン玉より小さい遺物を大きく拡大した。/写真提供=文化財庁国立文化財研究所
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    慶州東宮と月池で発掘された8世紀の金箔に刻まれた文様が髪の毛(右側の黒い線)よりも細いことが顕微鏡で確認できる。/写真提供=文化財庁国立文化財研究所
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    1: 昆虫図鑑 ★ 2021/01/29(金) 13:32:27.00 ID:CAP_USER
    753年(新羅景徳王12年)1月1日、唐の蓬莱宮では新年を祝う儀式が挙行された。ところが式場に出席した新羅の使臣と日本の使臣の間で争いが生じた。どちらが序列が高い位置に立つかをめぐってだ。当初、唐の朝廷は西班の序列1位に吐蕃の使臣、2位に日本の使臣、東班の序列1位に新羅の使臣、2位に大食国の使臣を配置した。ところが日本の使臣の大伴古麻呂は「新羅は昔から日本に朝貢する国だが、日本の使臣より上の位置に立つのは受け入れられない」と唐の官吏らに抗議した。唐の朝廷の責任者、呉懐実はあたふたと日本の使臣と新羅の使臣の位置を入れ替えた。唐の朝廷から誰がより高く待遇されるかをめぐり新羅と日本の使臣が争ったことを「争長事件」と呼ぶ。

    争長事件で注目されるのは日本の使臣が新羅を自分たちの朝貢国と規定した事実だ。いわば、日本は「皇帝国」であり、新羅は皇帝に頭を下げる「蕃国」ということだ。このように自国を高めて新羅を見下げる意識は『日本書紀』を通じて公式化された。『日本書紀』仲哀天皇9年条には「仲哀天皇が死去しての神功皇后が新羅征伐に動くと、新羅の王が日本を神国、日本の王を天皇、日本の兵士を神兵と呼んで降伏した後、永遠に朝貢することを誓った」という説話がある。新羅の王の口を借りて日本を持ち上げるこの内容は、今日では日本の史学者も明白に伝説だと評価するが、以後の韓日関連史に及ぼした影響は非常に大きく深刻だった。日本人が韓半島(朝鮮半島)を蔑視する認識の出発点になったからだ。

    (略)

    古代から日本が神国、天皇の国を自負したのは、中国とは対等であり、韓半島より一等級上の国であることを示すためだった。さらに壬辰倭乱以降、日本は自国を「武威の国」と、朝鮮を「武備がない虚弱な国」と規定した。半面、朝鮮は自分たちが中国と最も親しく、中国に次ぐ文明国という事実を日本に対する優越意識の根拠として前に出した。日本は朝鮮を「中国の虚弱な属国」と見なした一方、朝鮮は日本を「中華文明を知らない野蛮国」と罵倒した。

    このようにお互いを眺める根源的な内心は違ったが、壬辰倭乱後の200年余り、朝鮮と日本は平和な関係を維持した。しかし19世紀以降、西欧列強の軍事的脅威に危機感を強めた日本の知識人はまた天皇を呼ぶことになった。代表的な人物が吉田松陰(1830-59)だ。吉田松陰はロシアとの貿易で失ったものを朝鮮と中国を征服して埋めなければいけないと主張した。吉田松陰は「天皇が治めた古代は韓半島が日本に朝貢したが、その後は傲慢だった」とし、神功皇后と豊臣秀吉の偉業を継承して朝鮮を占領すべきだと強調した。朝鮮を征服して天皇にひざまずかせることこそが本来の国体を回復する道だと力説した。いわゆる征韓論を露骨に表したのだ。

    吉田松陰は夭折したが、征韓論は弟子の伊藤博文(1841-1909)らによって行動に移された。韓半島侵略の象徴的な人物である伊藤博文は自らを豊臣秀吉の生まれ変わりと考えた。伊藤らが韓国を侵略して保護国にし、最終的には植民地として奪取する過程は、過去に神功皇后や豊臣秀吉が掲げた「神国の偉業」を実現したということだ。

    実際、1910年8月29日、明治天皇は「東洋の平和と帝国日本の安全を保障するために韓国を日本帝国の保護の下に置く」という内容で、いわゆる併合詔書を出した。そして同日、朝鮮の純宗を昌徳宮(チャンドックン)李王、高宗を徳寿宮(トクスグン)李太王とする詔書も出した。8世紀以降、自らを神国・皇国と称して韓半島に皇帝として振る舞うことを望んだ「千年の願い」が実現する瞬間だった。

    同年11月、韓国を強制的に併呑したことを記念するために発行された雑誌『歴史地理朝鮮号』の編集者は、感激のあまり発刊の辞を書いた。「韓国併合は古代以来の日本の歴史的懸案が解決されたもの」ということだ。

    こうした歴史を振り返ると、解放以降、韓国人が日本の国王を天皇と呼ぶのは簡単でなかった。韓国政府が1998年から外交的には「天皇」を公式用語といて使っているが、内部では「日王」と呼ぶべきだという主張が少なくない。先日、新任駐日大使が日本に赴任した直後「天皇陛下」という呼称を使ったことをめぐり、また論争が生じている。天皇をめぐる葛藤が1000年以上累積してきた韓日間の特別な歴史と、日本との友好を維持すべき最近の現実の間で、果たしてどこに重心を置くべきなのだろうか。

    ハン・ミョンギ/明知大史学科教授

    中央日報
    https://japanese.joins.com/JArticle/274987

    【【韓国コラム】日本の韓蔑視、1300年続く傲慢と偏見…「朝鮮は我々の臣下」】の続きを読む

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    1: 右大臣・大ちゃん之弼 ★ 2020/11/01(日) 06:40:38.20 ID:CAP_USER
    盗掘されたことのない昌寧・校洞古墳、金銅冠など新羅の装身具が次々と

       伽耶人か新羅人か。慶尚南道昌寧郡校洞の古墳から金銅冠など新羅の装身具が大量に出てきた。発掘団は「5世紀後半から6世紀初めの非火伽耶の支配層の墓」と発表したが、被葬者の体を覆っていた装身具類は全て新羅の遺物で、古墳の性格を巡って今後論争が大きくなるものとみられる。

     文化財庁国立伽耶文化財研究所は10月28日、昌寧郡校洞とソンヒョン洞の古墳群(史跡第514号)で、盗掘されていない校洞63号墳を過去1年にわたり発掘してきた成果を発表した。高さ21.5センチの金銅冠をはじめとして、冠の左右に飾りとして長く垂らす金銅垂飾や金銅装飾棒、太環式耳飾1組、ガラス玉の頸飾(けいしょく)、 銀指輪4点、銀帯など「頭から腰まで」装身具がそろって出てきた。研究所は「履物が発見されなかっただけで、今年9月に話題になった慶州皇南洞の新羅貴族の女性の墓とそっくりの構成」とコメントした。

     校洞63号墳は盛り土の直径21メートル、高さ7メートルという大型の封土墳。この一帯の古墳群の中で盗掘被害に遭っていない、数少ない事例だ。63号墳は、後世に築造された39号墳の盛り土に遮られ、難を逃れることができた。

     金銅冠は、一番下の部分に幅およそ3センチの円形台座があり、その上に3段の枝状の装飾が3本立っている形態のもの。台座の下には、勾玉(まがたま)や金の玉でできた金銅垂飾を垂らす。イ・ハンサン大田大学教授は「典型的な新羅様式の金銅冠」と語った。墓の主人公のものとみられる歯も6点確認された。ヤン・スクチャ国立伽耶文化財研究所学芸研究室長は「腰に大きな剣を帯びる代わりに小さな懐刀が2点出てきて、太環式耳飾が出てきた点などからみて、女性と推定される。身長は155センチ程度」と語った。

    殉葬の痕跡もあった。墓の主人公の足元部分に当たる地面をおよそ40センチ掘り下げた空間に、殉葬者2人が安置されたものとみられる。殉葬者のものと推定される歯の一部や足の骨の一部、金銅製細環1点、つぼ2点、鉄斧(てっぷ)2点などが出土した。

     研究所は「装身具は新羅系の遺物だが、墓の構造は典型的な伽耶様式」だとして「非火伽耶の支配勢力が新羅から受け取った威勢品を埋めたか、新羅スタイルを模倣して自ら作ったものでもあり得る」と説明した。

     だが学界からは「金銅冠など装身具を着装する方式が新羅の墓の様式と一致しているのは、昌寧一帯がこの時期、既にはっきりと新羅に編入されていたという証拠」という反論が出た。イ・ハンサン教授は「昌寧古墳群は学界で伽耶か新羅かを巡って論争が続いてきたが、今回の発掘で新羅だということがさらに確実になった」とし「墓の様式は最も保守的なものなので、新羅に編入された後もその地域固有の風習が残っていることもあり得る」と語った。研究所は来月5日に、動画サイト「ユーチューブ」の国立文化財研究所チャンネルを通して、発掘作業を録画した動画を公開する予定だ。

    許允僖(ホ・ユンヒ)記者

    朝鮮日報 記事入力 : 2020/11/01 05:35
    http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2020/10/30/2020103080108.html

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    ▲慶尚南道昌寧郡校洞63号墳の石槨(せっかく)内から金銅冠、金耳飾、玉の頸飾(けいしょく)など被葬者の装身具が露出している様子。/国立伽耶文化財研究所

    【【朝鮮日報】伽耶の墓と発表したのに遺物はなぜ新羅のものなのか】の続きを読む

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    1: 蚯蚓φ ★ 2020/09/12(土) 19:46:09.20 ID:CAP_USER
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    ▲ホン・スンジュ歴史コラムニスト.(c)ブレーキニュース

    百済は温祚(オンソ)が建ててその血統が万世一系に続いたわけではなく、一つの王暦の中に二つの王権勢力だった温祚系と沸流(ピリュ)系の王たちが混在して現れる。

    日本でも同じように日本書紀に出てくる天皇派閥は百済系一つの万世一系と見られるが、実は新羅系(天武天皇)と高句麗系(顕宗)の王統が混ざっている。一方、日本で新羅系が現れる代表的な事件は大化改新および壬申の乱に続く天武天皇の登場が挙げられる。ここでこれに対する歴史的背景を一度見てみることにしよう。

    まず645年に倭列島で起きた政変を大化改新という。これは百済系蘇我氏の勢力が大きくなるとすぐに中大兄皇子がこれを排除するために藤原鎌足と共に倭列島奈良飛鳥地域に新羅勢力を引き込む。

    この時、新羅からは大海人として出てくる新羅貴族キム・タチュク将軍が率いる新羅支援軍を派遣して奈良飛鳥軍を制圧し、蘇我入鹿大臣を除去する。この事件で百済系、皇極女王(義慈王(百済最後の王)の妹)が退いて孝徳天皇が新しく即位する。

    その後、金春秋(キム・チュンチュ)が倭列島に入って唐の高向玄理(たかむこ の くろまろ)を国博士にたて唐留学生と僧侶が主導して新羅式政治改革を推進したことを意味する。

    一方、羅唐連合軍によって百済が660年に滅亡した後、鬼室福信と黒歯常之将軍によって多勿戦争が3年間行われる。この時、倭列島から百済王として来た扶余豊王(義慈王の息子)を軍事支援した中大兄皇子(義慈王の別の息子、扶余勇)が最終的に663年、白村江戦闘で大敗して百済復国が失敗に終わる。

    これで中大兄皇子が668年に第38代天智天皇(日本書紀式の名前)として即位する。その2年後、670年ごろ日本(ヒノモト)国を建てるが、これは<日が昇る地>という意味で百済人が自らを呼んだ国名だった。すなわち日本は天から落ちた別個の国ではなく百済貴族と流民が倭列島に逃避して建てた<もう一つの百済国>の別称だった。

    その後、先に日本を建てた百済系天智天皇が672年に急死するとすぐに王権をめぐり新羅系大海人(日本書紀では天智の弟)と天智の息子、大友王子(後に弘文天皇で追認)の間に権力闘争が起きた。これを壬申の乱という。新羅の将帥、大海人が大友王子をはね除けて第40代天武天皇(673~686)に即位するとそれは百済系政権から新羅系政権に変わったことになる。

    一方、天武天皇当時、日本書紀を作成し始めたが百済勢力が日本に来たことを隠すため、前部に神代記を隠喩的に記録した。また、このような側面から見る時、日本万葉集(759年ごろ作成)のルーツが新羅郷歌からきたという主張にも一理あるように見える。

    (訳注:固有名詞が日本語読みではなく、漢字の韓国語読みハングルで書かれている。例えば大友王子はテウワンジャ、大海人はテヘインなど。さらに一般的な歴史認識と異なるので誤訳している可能性がある。)

    *筆者/ホン・スンジュ歴史コラムニスト.失われた韓国古代史研究会長.

    ノーカットニュース(韓国語)
    http://breaknews.com/sub_read.html?uid=754947

    【【韓国の妄想炸裂】 天皇家は百済系の万世一系と見られているが、実は新羅系-高句麗系が混ざっている】の続きを読む

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    1: (^ェ^) ★ 2019/01/22(火) 18:14:40.47 ID:8h+f28q/9
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    https://snjpn.net/archives/92287

    ちぢれ麺さんのツイート

    ☆センター試験問題に…日本史B

    百田尚樹・生田よしかつ
    「何これ!?」

    百田尚樹
    「何の試験!?新羅の試験か!?」

    生田よしかつ
    「どうでもいいよ新羅なんて」

    試験に出るとして重点的に覚えようとさせる。酷いな。日本でもっと覚えて欲しい事は他にいくらでもあるだろう。

    ▼ネット上のコメント

    ・歴史の問題文が会話形式というのにも驚いた。

    ・ホンマにその通り!

    ・けど正直、知らなくても解ける問題だよね。いちいち絡ませるのは臭いけど。

    ・九郎、静には笑えるww

    ・百済でなく新羅を称える辺り、親朝鮮な勢力がつくった問題なんだろう

    ・センター試験の外国語に、ハングルが入っているのが解せません。日本人の受験生ばかり不利な立場に置かれています。

    ・どこの誰が作って、それを誰が承認したのか明らかにしてもらいたいですね。

    【センター試験問題『日本史B』に、百田尚樹「何の試験!?新羅の試験か!?」 ネット「センター試験の外国語に、ハングルが入って…」 】の続きを読む

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    1: 蚯蚓φ ★ 2018/12/20(木) 16:24:04.19 ID:CAP_USER
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    記録は生命だ。棺の蓋が閉められていても記録があれば永遠の命を得ることができる。記録されていなければ最後にはかすんでいってしまう。どれほど輝かしい文明や歴史であっても避けられない宿命だ。
    (中略:「忘れられてしまった鉄の帝国」伽耶の事例)

    伽耶について回る亡霊とは『日本書紀』だ。『古事記』に続き2冊目に古いとされる現存歴史書物だが、最も古い正史と認められている本だ。だが、間違いや盗作が多いため自らその信頼度を損なわせてしまっている。たとえばこのようなことだ。雄略天皇9年(465年)5月条を見るとこのような内容が登場する。

    「大将軍紀小弓宿禰は龍のようにすばしこく、虎のように睨みつけながら四方を見渡した。反乱を起こす群れは討伐して四海を平定した」

    新羅に遠征して死んだ将軍を追慕する天皇の話だが、213年後漢の献帝が曹操を魏公に封じる策文と全く同じだ。『三国志』の「魏書 曹操本紀」の原文はこうだ。「君 龍驤虎視 旁眺八維 掩討逆節 折衝四海」。『日本書紀』はここで「君」の部分だけを「大将軍紀小弓宿禰」に変えてそっくりそのまま書き写している。同年3月条にはこのような内容もある。

    「新羅の王は夜に四方から官軍が叩く太鼓の音を聞いて喙地〔喙の国=慶州(キョンジュ)〕が占領されたと知り、数百の騎兵と逃げた。(…)喙地を平定したが残兵が降参しなかった。(…)この日夕方、大伴談連と紀岡前来目連は皆、力を尽くして戦い、死んだ。(…)しばらくして残兵は自ら退却し、官軍もそれに伴い退いた。大将軍紀小弓宿禰は病気で死んだ」

    慶州を平定したが、死んだのは倭軍の将帥だった。敗残兵が退却したが、勝利者も後退する。このような間違いと矛盾に比べれば、「四面楚歌」の盗作である「四面鼓聲」などはかわいいほうだ。

    このような水準の『日本書紀』に伽耶についての正否論争があるのはおおよそ下記の3つほどだ。まず、562年大伽耶が滅亡すると、欽明天皇が怒りを爆発させる。

    「新羅は西の蛮夷で小さくつまらない国だ。(…)恩義に背いて我が官家を打ち倒し、我が民に害毒を及ぼし、我が郡県を滅ぼした。我が気長足姫尊は(…)新羅が窮地に陥って助けを乞うていたところを哀れに思い、首を落とされようとしていた新羅の王を助け、新羅に要衝の地を与えて繁栄させた。(…)しかし、新羅は長い矛と強い弓で任那を攻め滅ぼし…」

    これもやはり『梁書』<列伝>の王僧弁伝の内容を適当に借用した盗作だが、気長足姫尊というのは200年に三韓を征伐したという神功皇后のことを指す。その時の『日本書紀』の条はこうだ。

    「風の神が風を起こして海の神は波をうねらせた。大きな魚が浮かんできて船を支えた。(…)新羅の王は(…)気持ちを落ち着けて『東側に神の国があるというが、これを日本という。聖王がいるというが、これを天皇という。きっとその国の神の兵に違いない。これをどうして防御することができようか』と言って降参した。(…)高句麗と百済の2国の王もこのことを聞いて到底勝つことはできないと知り降参した。これによって内官家を定めた。これがいわゆる三韓だ」

    この記録も間違いだらけだ。当時の新羅の王は婆娑尼師今になっているが、彼は新羅の第5代王で在位期間は80~112年とされている。200年に会うことができる人物ではない。その上、神功皇后は49年後に再び百済とともに新羅を征伐して伽耶7国を平定するが、この地をすべて百済に与える。苦労して手に入れた地を他人に与えることも、大軍を率いた韓半島(朝鮮半島)の遠征が中国の史書に一行も言及されていないことも、100歳までの70年間にわたり摂政し、後継者である応神天皇が古希の年齢で即位することも納得しがたい部分だ。

    『日本書紀』が百済の近肖古王の足跡を借用して神功皇后を創造したという主張が説得力を持つのはこのためだ。時代さえ4世紀に移せば近肖古王の業績と一致するからだ。


    イ・フンボン/論説委員・中央コンテンツラボ

    中央日報
    https://japanese.joins.com/article/337/248337.html
    【【自分のところの三国史記読んでみろ】 韓国侵略の名分になった『日本書紀』の間違いを探して】の続きを読む

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    1: 蚯蚓φ ★ 2018/01/31(水) 00:45:57.54 ID:CAP_USER
    仁荷(インハ)大は「朝鮮総督府の官営学者らが主張した任那日本府説が虚構であることを実証した」と29日、明らかにした。

    日帝強制占領期の日本学者らは「日本書紀」神功皇后の記録を引用、「新羅を征伐した365年から200年間、植民統治機関の任那日本府が韓半島南部に存在した」という植民史観を主張した。

    しかし、仁荷大融合考古学科、ナム・チャンヒ教授研究チームは任那日本府説の根拠になった日本書紀仲哀天皇条の記録を分析した結果、論理的矛盾を多数発見した。

    まず日本書紀の記録によれば海水が国中に入ってきておじけづいた新羅王が降参したという一節が出てくるが、東海は本来、潮の干満の差があまりない地域であり、新羅の首都・慶州は上げ潮が入ることはない場所だと主張した。

    これについて研究チームは過去3年間、「高句麗、百済、新羅が各々勢力圏を対馬に分けて持っていた」という釜山(プサン)大イ・ビョンソン教授の主張に注目した。韓半島の他に遠征艦隊が福岡から上陸作戦をしなければならない場所は対馬と壱岐の二つの地域しかないからだ。

    研究チームが「日本書紀」に出てくる記録で己亥月辛丑日の潮を干満コンピュータプログラムで計算してみると、その日から3日間、満潮であり、当時、福岡で船で三日かかる対馬西側にサリ現象(大潮?)があったことが分かった。

    これを土台に研究チームは神功皇后が征伐したという新羅は韓半島の新羅ではなく、対馬の西側沿岸にあった新羅系勢力である可能性が最も高い、という結論を導き出した。

    ナム教授は「ムン・ジェイン大統領が正しい伽耶の歴史復元を学界に注文したにもかかわらず、国内の一部学者が伽耶こそ任那という日本の右翼学説に同調する動きがあり、これに釘を刺す成果」と意味づけた。

    /ユン・ヨンヘ記者

    京畿日報(韓国語) コンピュータで計算…「任那は伽耶でなく対馬だ」
    https://www.kgnews.co.kr/news/articleView.html?idxno=505409

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