かたすみ速報

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    タグ:百済

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    1: ばーど ★ 2024/03/26(火) 17:50:23.58 ID:m+9VYkON
    百済の「金銅観音菩薩立像」
    日本に持ち出された後、初めて韓国へ
    湖巌美術館の企画展で公開

    日本に渡っていた7世紀の百済の仏像が、95年ぶりに故国の地で展示された。

     25日、京畿道竜仁市の湖巌美術館でメディアに公開された企画展「泥に染まらない蓮花(れんげ)のように」では、意外な作品が視線を引き付けた。卵型の顔、横長の目、真っすぐ伸びるすらりとした鼻筋。顔全体にほほ笑みをたたえた、百済の「金銅観音菩薩(ぼさつ)立像」だ。日本へ持ちだされたこの仏像が、1929年に大邱で展示されて以来、95年ぶりに韓国国内の展示で公開された。

    【写真】湖巌美術館で展示中の「金銅観音菩薩立像」
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     高さ26.7センチ。頭には仏をたたえる宝冠をかぶり、左手には浄瓶を持った観音菩薩像だ。口角を上げてほほ笑みを浮かべた顔立ちは、若い青年を連想させる。湖巌美術館のイ・スンへ責任研究員は「すらりとした腰と軽くよじった骨盤が紡ぎ出す体の線が美しい」とし「青年の顔と女性の体が持つ美しさを調和させて組み合わせた姿は、百済の匠(たくみ)が到達した芸術的境地を示している」と語った。

     この仏像は、1907年に忠清南道扶余・窺岩面の寺院跡で発見された「金銅観音菩薩立像」のうちの一つだ。1点は韓国の国宝に指定され、現在は国立扶余博物館に所蔵されている。こちらの仏像は日本人収集家・市田次郞が買い入れ、日本へと搬出した。なお、搬出の正確な時期は確認されていない。

     2018年に日本の個人コレクターがこの仏像を持っていると公表し、話題になった。当時、韓国を代表する仏像専門家らが集まった評価会議で「仏像の鑑定価格は42億ウォン(現在のレートで約4億7000万円。以下同じ)」という結論を出し、国立中央博物館がこれを購入金額として提示したが、コレクター側は3倍以上の150億ウォン(約16億9000万円)を提示し、交渉は決裂した。湖巌美術館の関係者は「展示準備の初期から、この仏像を借りようと所蔵家側と接触していて、最後の最後で実現した」と明かした。

     27日に開幕する今回の展示は、東アジア仏教美術に「女性」という観点から本格的に光を当てる、初の展示だ。韓国・中国・日本の仏教美術のスポンサーとなり、制作してきた女性たちに焦点を合わせた。湖巌美術館は、韓国国内および海外合わせて27カ所から仏画や仏像、写経、螺鈿(らでん)経箱、刺しゅう、陶磁器など仏教美術品92点を集めた。米国のメトロポリタン美術館、ボストン美術館、ドイツのケルン東アジア美術館、東京国立博物館など米欧日18カ所から遺物52点を借り、韓国国内からはLeeum美術館など9カ所が所蔵する国宝1点、宝物10点など40点が出品された。

     今回の展示では、福岡・本岳寺蔵の15世紀の朝鮮仏画「釈迦誕生図」とドイツ・ケルン東アジア美術館蔵の「釈迦出家図」が初めて一堂に会する。美術館側は「セットで制作された二つの作品が、数奇な運命を経て故国で再会した瞬間」と説明した。また、メトロポリタン美術館蔵「釈迦如来三尊図」など海外の所蔵品47点が韓国で初めて紹介される。期間は6月16日まで。入場料は大人1人1万4000ウォン(約1580円)。

    許允僖(ホ・ユンヒ)記者

    朝鮮日報 2024/03/26 15:05
    https://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2024/03/26/2024032680079.html

    【「取り戻そう」という声が強かった百済の仏像、日本に持ち出し後95年ぶりに韓国へ】の続きを読む

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    1: Ikhtiandr ★ 2024/03/08(金) 04:31:38.19 ID:lrWyUOfz
     1500年余り前にソウルに日本から移ってきた技術者をはじめ倭の移住民が工房などの生産活動に従事していた事実が明らかになった。最近、彼らが暮らしながら墓に使う葬儀用品として使ったと推定される日本特産土器が相次いで確認されたためだ。

     地中の文化遺産を発掘・調査する機関である大韓文化財研究院は6日、今日のソウルである漢城に百済王朝が都を置いた漢城百済時代(西暦18年~西暦475年)の京畿道城南市福井洞(ソンナムシ・ボクジョンドン)にある百済時代の官営土器窯関連遺跡から、古代日本権力層の大型墓を飾った土器装飾遺物「埴輪」を初めて発見したと明らかにした。

     埴輪は5世紀前半の古代日本の典型的な装飾型土器で、主に円筒形のものと動植物形の象形造形物、家などの住宅造形物などに分けられる。今回発掘されたのは円筒形で外壁に穴を開けた5世紀の造形物だ。

     この遺跡は、福井洞393番地霊長山麓一帯7798平方メートルの面積で確認される。百済時代に国が運営したと見られる土器窯と廃棄場施設が散在しているが、百済王城跡として有力な風納土城(プンナプトソン)、夢村土城(モンチョントソン)とわずか4~5キロメートルの距離なので、王室が管掌しながら物品を調達する国営工房施設の一部と推定されてきたところだ。関心が集中した埴輪破片は2022年に遺跡の廃棄物層から黒煉瓦、軒丸瓦、平瓦、内拍子など数百点余りと共に混ざって出てきた。突出した帯を付けて巻いてあったり、外壁の表面に一定間隔で線を引いた日本特有の仕上げ跡(日本の考古学用語で刷毛目)がはっきりとみられる埴輪円形土器の破片であることが判明した。

     大きさが15~20センチに達する埴輪の破片は、一部分円形の穴が開いた円筒形で、一部の破片は石柱が上下に巻かれたり、このような石柱の跡が残ったままだった。破片の下側である低部は、古墳の墳丘の地層につく部位なので、別途の手入れはせずに、上の方だけを手入れした低部も見える。独特の掻いた模様跡も発見された破片のほとんどで観察される。

     大韓文化財研究院のイ・ヨンチョル院長は、「倭の職人たちが日本から移住して百済の官窯や工房に入ってきて百済の職人たちと一緒に作業した痕跡と思われる」とし「墓の装飾物である埴輪製作品の実体が韓国の首都圏の百済施設跡で明確に確認されたことは事実上初めて」と話した。2000年代初めに百済王城跡であることが有力な風納土城を発掘し、手のひらより小さい残片大の埴輪の破片が三点ほど出たことはあるが、大きさが小さく出土の状況が明確ではないため、大きな注目を集めることはできなかった。

     韓日古代史を研究してきた歴史考古学界の一部の専門家たちは驚いている。紀元前18年から475年まで存続した百済王朝の最初の都で、今日のソウル松坡区(ソンパグ)、江東区(カンドング)、城南(ソンナム)一帯にあたる旧漢城(ハンソン)地域で、1600年前に外交官や職人をはじめとする倭人たちが居住して活動したことを示す明確な根拠が出たと評価されるためだ。

    ※続きは元ソースでご覧ください。

    ハンギョレ 2024-03-07 17:06
    https://japan.hani.co.kr/arti/culture/49367.html

    【【韓国】ソウル付近の百済跡で1600年前の日本人居住痕跡が発見された】の続きを読む

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    1: LingLing ★ 2023/03/25(土) 23:22:15.60 ID:3AtKoPa/
    韓流の元祖スーパースター…王仁博士、日本へ行く
    -「クダラナイ」にしみ込んだ百済の自負心
    -「学問の神」王仁博士息づかい宿る遺跡地
    -歴史的人物を抱く鳩林村で癒しを

    [霊岩(ヨンアム)=文・写真イーデイリー、キム・ミョンサン記者] 全南・霊岩は韓半島歴史の傑出した人物たちが生まれて活動した場所だ。古代日本に百済の先進文明を伝達した王仁博士が生まれた故郷であり、新羅の4代高僧で風水地理の巨匠でもある 道詵国師(トソングクサ)も霊岩出身だ。朝鮮時代の名筆家だった韓石峰(ハン・ソクボン)もここで学び、壬辰倭乱(※文禄・慶長の役)当時、物資普及で厳しさを経験した李舜臣(イ・スンシン)に軍糧米と軍需品を支援して、感謝の書簡を受けた人々が住んでいた鳩林(グリム)村も霊岩にある。霊岩を語る際、歴史の中の人物を欠いては語れない理由だ。

    ・「クンナラ(※大きな国)」百済が伝えた元祖韓流
    我々が作ったドラマ、映画、音楽など韓流が全世界に広がっている。韓流の人気は日本でも熱い。日本での韓流は思ったよりも古い。日本語にその痕跡が今でも残っている。今から約1500年ほど前。 当時、日本ではペクジェ(百濟)を「クダラ」と読んだ。元来、「ヒャクサイ」と発音するのが正しい。百済の発音はどうして「クダラ」になったか。ここには歴史的背景がある。百済が滅亡した後、多くの遺民が日本に渡った。先進文明を渇望していた日本は、彼らを大いに歓迎した。古代日本で百済は、先進文物の窓口であると同時に新世界だった。世界を併せる交易網を整えていた百済は、輝く文明の種を日本にまいた。先進的な律令体制、土木技術、仏経、鍼術、農機具などがいっぺんに伝播されて、闇の中にあった日本は光明を見ることになった。

    日本は渡ってきた百済人たちを高官大爵に就かせるなど、手厚く供応した。百済人たちは失われた祖国を「クンナラ 」と呼び、しみじみと懐かしんだ。日本で「クンナラ」は、「クダラ」に変わって、百済を指称する名前として固まった。「クダラナイ」という言葉もここに由来している。 直訳すると「百済(クダラ)にない(ナイ)」という意味だが、「つまらない、大したことない」という意味だ。「立派なものは全て百済にあるから、百済のものでなければ、つまらない」という話だ。昔、日本の人々が百済を羨望の対象にした痕跡が言語に溶け込んで、現在まで受け継がれているので「元祖韓流」と言える。

    ・スーパースター王仁の痕跡に向かい合う
    百済の代表韓流スターは霊岩出身の王仁博士だ。日本が文明国家に進む道を開いた伝説的な人物で、今でも日本では「学問の神」と仰がれているほどだ。

    省略…

    イーデイリー(韓国語)
    https://n.news.naver.com/mnews/article/018/0005448708


    【【韓国の妄想】 スーパースター王仁博士、日本へ行く…「クダラナイ」に染み込んだ百済の自負心】の続きを読む

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    1: 仮面ウニダー ★ 2022/12/18(日) 07:40:01.40 ID:S8+1y4ST
    第43回・日本の中の韓民族史探訪…韓国の大学生・一般人など150人が参加

    12月6日、熊本県の船山古墳。ここで出土した遺物を見た大学生のカン・ゴンウさん(ソウル大学1年生)は「日本の文化財だけれども韓国のものとすごく似ていて、異国的な印象を持たなかった」とし「百済の文化が日本にたくさん波及したと学んだけれど、直接見てみると、歴史にもう一歩近づいたように思う」と語った。

     5世紀後半の日本の支配層の墓と推定されている船山古墳からは、92点の遺物が出土した。このうち相当数は百済の遺物と似ていた。青銅鏡は百済の武寧王陵のものに近い。金銅製冠帽や金銅製沓(くつ)は、忠清南道公州水村里古墳や全羅北道益山笠店里古墳から出土した遺物とサイズが違うだけで、見た目はほとんど同一だ。大田大学歴史文化学科のイ・ハンサン教授は「金銅製冠帽や金銅製沓が百済から伝来したことは明らか」としつつ「だからといって、百済が優越地位からこの地域を支配したと見るのは困難。互いに交流関係を結んだ根拠と見るべき」と語った。

     日本にある主な遺跡を見て回って韓日関係の歴史を探る「第43回 日本の中の韓民族史探訪」が、12月5日から9日にかけて開催された。朝鮮日報紙が主催し、新韓銀行・GS・ポスコが後援するこの行事は、1987年から毎年1-2回のペースで開催されてきた。これまで教師・大学生など合わせておよそ1万8000人が参加した。新型コロナ問題などで2018年以来4年ぶりに開かれた今回の探訪には、大学生や一般人など150人が参加した。江原大学史学科のソン・スンチョル名誉教授、公州大学文化財保存学科の徐程錫(ソ・ジョンソク)教授、大田大学のイ・ハンサン教授が現場解説を担当した。

     参加者らは、日本国内の遺跡地の各所で韓民族の息吹と対面した。佐賀県有田では朝鮮出身の陶工、李参平(イ・サムピョン)=?~1655=と対面した。忠清南道公州出身の李参平は、壬辰(じんしん)倭乱=文禄・慶長の役=当時、肥前国の領主によって日本へ連れてこられた。彼は日本で初めて「白磁」を作り、日本の代表的な陶磁器「有田焼」の陶祖となった。李参平が亡くなった3年後、村の人々は「陶山神社」を作り、今でも彼を神として祭っている。1917年には「陶祖李参平碑」も作った。今でも直系の子孫が陶磁器作りをしながら「14代李参平」を名乗っている。隣国の学生たちと対面した14代李参平が、はっきりした韓国語で「アンニョンハセヨ」とあいさつすると、学生たちは拍手で応えた。学生のプ・ジウォンさん(公州大学3年生)は「陶工が日本に大勢連れていかれたのは知っていたけど、有田の陶磁器の始祖が朝鮮の陶工だったことは初めて知った」と感嘆した。

    (略)

    朝鮮日報日本語版 記事入力 : 2022/12/18 06:49
    https://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2022/12/16/2022121680076_2.html

    【【朝鮮日報】「日本の古墳から百済の金銅冠…韓日交流は深いという事実を学んだ」】の続きを読む

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    1: 仮面ウニダー ★ 2022/12/04(日) 07:38:35.57 ID:pVCt22C7
    短歌の起源は韓国と語る韓国メディア、少し話を盛り過ぎでは (羽田 真代:在韓ビジネスライター)

     筆者の母校には、朝鮮民族の詩人・尹東柱(ユン・ドンジュ)の詩碑がある。
     同志社大学・今出川校舎の一角にひっそりと建てられているため、学生がこの詩碑の真ん前を通ることは滅多にない。今出川校舎を利用していたことのある筆者でも、学生時代には1、2度しか見に行ったことがない。卒業後は、韓国に住むようになってから1度訪れたくらいだ。
     同志社大学の学生であっても、尹東柱という人物がどんな人物であるのかはもちろん、このような詩碑があったことすら知らずに卒業する学生も少なくない。
     尹東柱は中華民国吉林省延吉県明東村(現:中華人民共和国吉林省延辺朝鮮族自治州龍井市明東村)で生まれた詩人で、短い期間であったが同志社大学の文学部英文学科選科で学んだことがある。その縁から、キャンパス内に彼を偲ぶ詩碑が建てられた。
     彼が韓国で最も有名な詩人として現代の韓国人に愛されている理由は、京城(現:ソウル特別市)の延禧専門学校(現:延世大学校)文科に在籍していたからだ。そして、福岡刑務所で謎の死を遂げたという彼の最期が、韓国人の脳裏に尹東柱という名前をより一層刻ませている。彼は日本に殺された同胞の一人なのだ。
     なお、2022年12月2日、反日教授として日本で名の通っている誠信女子大学校の客員教授、徐?徳(ソ・ギョンドク)氏が自身のインスタグラムで、「中国の百度(バイドゥ)百科では、詩人・尹東柱の国籍を今でも「中国」、民族を「朝鮮族」と記載している。本当に言葉にならない」と述べて中国を批判した。
     だが、一部の資料によると尹東柱の存命時は日本籍だったとあるから、徐氏の主張も中国側の主張も正しいかと聞かれれば疑問が残る。
     韓国の地下鉄のホームに設置されているスクリーンドアには、2016年7月から自国の有名な詩人の詩が書かれるようになった。尹東柱の詩も、そこにいくつか書かれている。

     日本統治時代に生きていた韓国人たちは、日本によってハングルの使用を禁止されていたという。韓国側の主張が正しいかどうかはさておき、彼が延禧専門学校に在籍していた期間、朝鮮語担当の崔鉉培(チェ・ヒョンベ)から朝鮮語を学んでいたという。日本本土への大学進学のために創氏改名まで行ったそうだ。
     話を戻そう。2022年11月29日、中央日報から「韓半島の文化のDNAが伝わり、京都が最高の観光地に」という記事が出た。李承信(イ・スンシン)という女性を紹介する記事で、記事内にはその女性と尹東柱の詩碑を写した写真も載せられていた。

    短歌は韓国から伝わった」と中央日報は報じるが

     彼女は短歌詩人・孫戸妍(ソン・ホヨン)氏の娘だ。
     中央日報の記事によると、「孫戸妍氏は日本の伝統詩歌・短歌を日本人より巧みに書く詩人だった」そうだ。
     記事の中には「母は私たちの先祖の詩が日本に渡って短歌になったことを知り、『1000年以上消えていた私たちの詩を私だけ書いているんだ』という使命感で短歌を守った」という李氏のコメントも紹介されていた。
     筆者は短歌が韓国から伝わったという話を一度も聞いたことがない。
     そこで気になって調べてみると、「近代いわての歌人・俳人」というサイトには「短歌の起源についてはっきりしたことは分かっていないが、日本最古の和歌集『万葉集』の存在から、奈良時代には既に短歌は詠まれていたと考えられている」と紹介されていた。
     韓国のナムウィキ(韓国版ウィキペディア)にも同じ説明が書かれていたのを見る限り、短歌の起源は日韓両国ともに解明できていない。

     中央日報の記事では続いて、
    「百済(ペクチェ)滅亡後、王族や貴族、当時の知識人が京都に移住して花咲かせた文化が千年以上伝統として定着し、命脈が受け継がれてきたではないか。私たちから消えていったものが京都にあり、京都が今日、世界最高の観光地になる土台になった。そのとてつもないDNAが私たちから始まったのだから、そういった自負心で未来の希望をつかみ、前に進まなければならないと思った」
    「多くの日本人が韓国を好きになって許しを求め、膝をついたりもしているだけに、政府や政治家に両国関係の改善を任せずに、民間人が互いに交流し勉強してより良い関係を築いていくことを願う」
     とも書かれていた。

    続きはソースで
    https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/72965?page=3


    【【羽田真代】「観光地・京都の土台に朝鮮半島のDNA」という記事に感じる大いなる疑問】の続きを読む

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    1: ツームストンパイルドライバー(広島県) [KR] 2022/11/29(火) 15:37:12.62 ID:NbvCN1vs0● BE:932843582-2BP(2000)
    「韓半島の文化のDNAが伝わり、京都が最高の観光地に」

    (略)

    李さんは自身と京都、韓国文化と京都との縁を強調した。2011年、日本で名前が知られ、頻繁に講演するようになったが、その時になって日本についてろくに勉強したことがないという自責の念を感じた」と話した。単に韓国から遠くないという理由で留学先として京都を選んだが、結果的に最善の選択だったという。

    「百済(ペクチェ)滅亡後、王族や貴族、当時の知識人が京都に移住して花咲かせた文化が千年以上伝統として定着し、命脈が受け継がれてきたではないか。私たちから消えていったものが京都にあり、京都が今日、世界最高の観光地になる土台になった。そのとてつもないDNAが私たちから始まったのだから、そういった自負心で未来の希望をつかみ、前に進まなければならないと思った」

    李さんは「多くの日本人が韓国を好きになって許しを求め、膝をついたりもしているだけに、政府や政治家に両国関係の改善を任せずに民間人が互いに交流し勉強してより良い関係を築いていくことを願う」と語った。

    ヤフーニュース
    https://news.yahoo.co.jp/articles/d3204adb632173649b00f499586069acd71592b0

    【【アホ】韓国人「日本について勉強したことはないが百済の王族貴族が移り住んでその名残を残すのが京都。」】の続きを読む

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    1: LingLing ★ 2022/07/15(金) 23:39:09.51 ID:CAP_USER
    公州市主催 百済簡単レシピ競演大賞に「百月夜米プリン」
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    百済料理大会で大賞を受賞した「百済の甘い栗、百月夜の米プリン」
    [世宗市提供]

    (世宗=聯合ニュース)のイ・ウンパ記者=忠清南道(チュンチョンナムド)公州市(クァンジュシ)は、最近行われた「百済簡単レシピ全国料理コンテスト」で、パク・イェナ(26、京畿ソンナム市)さんが出品した「百済の甘い夜、百月夜の米プリン」が大賞を受賞したと15日、発表した。

    今回のコンテストには、全国から27点が出品され、8点(大賞1、金賞1、銀賞1、銅賞3、奨励2)が入賞作として選ばれた。

    大賞作は、「想像の中の百済料理」という大会テーマに合わせて、蜂蜜と栗、米、牛乳など、百済の歴史に関する材料を活用して手軽に食べられるようにした点で好評を得た。

    パクさんは「西暦643年、百済の太子プン(豊)がミツバチ4房を持って日本に渡って養蜂技術を伝播したという歴史書の内容と公州が栗の主産地という点を、土台として料理を作った」と説明した。

    今回のコンテストで入賞した百済簡単料理は、10月1日から10日間、金剛神官公園と公山城、武寧王陵、チェミン川一帯で開かれる「第68回百済文化祭」の時に披露される。

    聯合ニュース(韓国語)
    https://n.news.naver.com/mnews/article/001/0013313323

    【【韓国歴史】「百済簡単レシピ」大賞に、「百月夜の米プリン」…「百済の太子が日本に養蜂技術を伝えた」などを基に料理】の続きを読む

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    1: LingLing ★ 2022/06/24(金) 00:00:20.74 ID:CAP_USER
    百済ミマジ仮面夜間常設公演「市民と観光客に披露」
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    [公州]コロナ禍でも5年目で期待以上の成果を上げているノンバーバル・ミュージカル舞踊創作劇「百済ミマジ仮面が来る」という公州の代表的ブランド公演として位置づけられていて、市民と観光客らを魅了している。

    「百済ミマジ仮面」は1400年前に百済人ミマジが日本に伝えた韓流元祖だ。百済伎楽を象徴する「百済ミマジ仮面」は、百済の精神と息吹が込められた百済の無形遺産といえる。

    百済の古都公州(コンジュ)で、熊津(ウンジン)百済を感じさせる新たなコンテンツとして位置づけられている「百済ミマジ仮面が来る」という昔の先人たちの芸術魂を込めて、百済伎楽の仮面の人物であるオゴン(呉公)、オニョ(呉女)、ガルラ(迦楼羅)、コンリュン(崑崙)が登場するノンバーバル・ミュージカル形式の舞踊劇公演だ。千年韓流のミマジ仮面を再創出して、百済の歴史の原型性を知らせて、観客みんなが共感できる作品で、演出と振り付けなどを補完して構成した。

    特に、公演の最終章では、他の公演では見られない場面として、公州の踊りである「百済舞」で、公演出演者と観客が自然に一体となる舞のシーンが繰り広げられる。

    この合同の舞のシーンは、また別のクライマックスになって、躍動感ある公演形態で観客に感動を与える締めくくりシーンになるだろう。

    百済舞伝承保存会芸術監督である公州大学校チェ・ソン教授は、「百済の歴史と文化を素材にしたブランド公演が、公州の差別化された文化コンテンツとして、一般人に共感させることで百済を知らせて、公州を広報する契機になることを願う」と伝えた。

    また、本人が振り付けた「百済舞」で、「公州が舞で一つになる都市として、再び蘇ることを願う」という地域に対する愛を伝えて注目を集めている。

    公演は、6月から8月までは午後8時、9月から10月2日までは午後7時30分、毎週奇数回目の土曜日の夕方、公山(コンサン)城隣のコム塔野外ステージで60分間行われる。

    大田日報(韓国語)
    https://n.news.naver.com/mnews/article/656/0000016600


    【【韓国】 1400年前、百済人ミマジが日本に伝えた韓流元祖「百済ミマジ仮面」…夜間常設公演「市民と観光客に披露」】の続きを読む

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    1: LingLing ★ 2022/06/18(土) 19:58:46.74 ID:CAP_USER
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    [ペ・ジョンドクの歴史コラム] キンメイ天皇(欽明王)は百済聖王だった

    数万名の騎馬兵を従えることが出来る聖王が、わずか50名の騎馬兵を従えて新羅に侵攻したということは信じられない。聖王が戦死したように見せかけ風聞を広めて、倭の王室に渡ったと見ることができる。

    『日本書紀』では、まるで生きた伝記を見るかのように、聖王とその息子・威徳王について一つ一つ明かしている。威徳王が出家して僧侶になろうとしたことも『三国史記』にはなくて、『日本書紀』にだけ出てくる記録だ。

    欽明天皇死去後、第30代ビタツ(敏達、ミンダル)天皇が登場する。敏達は聖王の息子で、百済威徳王とは兄弟の関係だ。『日本書紀』敏達天皇記で、敏達は欽明天皇の二番目の息子という話があって、一番目の息子についての記録が全くないのは、百済威徳王が聖王の一番目の息子であるからだ。

    日本の天皇家を長い間研究してきたホン・ユンギ教授(東国大学哲学科)は、欽明天皇が間違いなく聖王である点を何度も指摘してきた。ホン・ユンギ教授は、「欽明天皇=聖明王」と結論付けて、当時の奈良地方倭王室の実権者が百済人のソガノイナメだったから、聖王が倭王室で支配領域を拡張することには、何ら問題もなかったと話す。ソガノイナメは倭朝廷の最高大臣として百済を行き来していた聖王を徹底して支えて、2人の姉(キタシヒメ、オアネノキミ)をどちらも聖王の後宮に入宮させた。

    またホン・ユンギ教授は、「556年1月、恵王子が百済に帰国する際、アメシン(阿倍臣)らチョシン(朝臣)たちが従える1千名以上の兵士が護衛して百済に帰らせた。」という『日本書紀』の部分も、聖王が欽明天皇である証拠の一つだと主張する。恵王子は威徳王の弟、つまり聖王の息子として555年に使臣として倭国を訪問した。実際、古代史で護衛兵1千名以上は通常の規模ではなく、父親の聖王が息子を見送りながら多くの軍士を送ったと見るのだ。恵王子は後日、百済の第28代ヘワン(恵王、598~599)として登極する。

    古代日本国の地では、歴代の王たちが百済聖王の位牌を祀って、王室の祠堂で祭祀を執り行って来た。794年、第50代桓武王(在位781~806)が奈良の地にあった王都を平安京(現在の京都)に移す際、百済聖王の倭王室管轄の祠堂も、新王都である平安京に移された。そこが現在京都市のヒラノシンサ(平野神社)だ。

    この事実は、19世紀の著名な国学者バンノブトモ(伴信友、1773~1846)が既に平野神社の位牌は百済聖王だ、(「蕃神考」)だと究明していて、続いて今日多くの史学者が認めるところだ。日本王室文献(『延喜式』917王室編纂)でも、百済聖王の位牌を祀った平野神社は、日本王室が管掌して祭祀を執り行う祠堂と記録している。

    ペ・ジョンドク歴史コラムニスト

    蔚山第一日報(韓国語)
    http://www.ujeil.com/news/articleView.html?idxno=305916

    【【韓国の妄想】欽明天皇は百済聖王だった…天皇家を長い間研究してきた教授が何度も指摘】の続きを読む

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    1: 蚯蚓φ ★ 2021/08/24(火) 21:20:05.31 ID:CAP_USER
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    ▲1991年、長鼓(チャンゴ)墳で初めて内部構造を明らかにした全南咸平新徳古墳。典型的な日本式古墳(長鼓墳あるいは前方後円墳)と分かって学界の関心を集めた。しかし発掘調査報告書は出なかった。|国立光州博物館提供

    「いやこれは…。」 1991年3月26日、全南(チョンナム)咸平(ハムピョン)新徳古墳を調べた国立光州(クァンジュ)博物館調査チームは目の前に繰り広げられた光景に話す言葉を失ってしまった。古墳の原形部西側に盗掘口が見えたのだ。さらにこの盗掘口はわずか数日前に作られた跡が明らかだった。
    (中略:盗掘犯は2年半後に逮捕。以下長文につき、日本関連のみ抄訳。元記事に出土物など写真多数)

    国立光州博物館などは4月から40日以上、本格発掘を行った。発掘が終わると学術資料蓄積のために通常は発掘調査報告書を出す。ところが、同博物館は苦心の末、新徳古墳発掘報告書をださないことにする。行政報告書を作っただけだ。なぜこんなことが起きたのか。新徳古墳が初めて公式に調査されたいわゆる長鼓墳だったからだ。

    日本では「前方後円墳」という。「前は四角(前方) 後ろは丸(後円)」の形から名付けられた墓(墳)だ。韓国では「長鼓(チャンゴ)」に似ているとして「長鼓墳」という。西暦3世紀中葉~6世紀後半にかけて日本で流行し、日本全域に2000基以上分布している。日本古代国家形成期の日王墓は全部この形だ。最も有名な長鼓墳は399年に死亡したニントク(仁徳)日王の墓だ。

    新徳古墳が初めてではない。日帝強占期に日本の学者が、その後も1972年に韓国の学者二人が「忠南扶余に長鼓墳がある」と主張した。韓国考古学界は蜂の巣を突付いたように沸き立った。緊急文化財委員会が招集されて二人の発表を聴取した。しかし、文化財委員の反応は冷たかった。雲をつかむような話だけに発掘調査する必要はない、と一蹴した。

    その12年後、1983年6月、カン・イング嶺南大教授がさらに一歩出る。「慶南固城(コソン)などと、全南羅州・霊岩・務安・咸平など様々な場所に長鼓墳が見える」と主張したのだ。国内学界では特に注目しなかった。もちろんカン教授は「‘前方後円墳’(長鼓墳)は日本の固有墓ではなく、韓半島から渡って発展したもの」と主張した。国内学界は特別な反応を見せなかった。

    日本学界は二つに分かれた。元老学者は主に日王家系で神聖視される墓の形態が韓半島に存在するはずがないと首を横に振った。しかし「韓半島長鼓墳」を任那日本府と連結する人々が現われた。一部は長鼓墳が特に固城など伽耶地域で確認されるというカン教授の主張に興奮した。それこそ任那日本府の決定的な証拠ではないか。

    そのような状況でもう一つの長鼓墳として知られた新徳古墳が初めて正式発掘された。果たして日本の古墳形式という長鼓墳だった。墓内部にも日本色が見えた。天井と4壁、扉の内側は全部朱漆がされていた。赤く塗られていたという事だ。出土した大型刃物は取っ手の穴が船山古墳(熊本県)の遺物と類似の形だ。墓では武寧王陵で使われたコウヤマキ製の棺の跡が見えた。金銅冠と金銅履き物の破片も数点出土した。

    このような状況で報告書をだしても日本の学界に利用されるだけではないか。実際、1994年5月20日の日本朝日新聞1面主要記事で「韓国光州の明花洞(ミョンファドン)古墳で前方後円墳に似た古墳が発掘された。日本文化もまた韓半島に流入したことを立証する」と報道している。

    朝日新聞の記事が報道された翌日(21日)、明花洞古墳を発掘した国立光州博物館に大統領府教育文化首席が電話してきて「私たちがあちら(日本)の支配を受けたという事か?何か対策が必要ではないか」と注文したのだ。当時は日本の近・現代史歪曲のために死にそうな時だった。

    イ・キファン京郷新聞選任記者

    京郷新聞(韓国語)
    https://m.khan.co.kr/culture/culture-general/article/202108240500001

    【【韓国】 30年前「隠蔽」された日本式古墳「長鼓墳(前方後円墳)」…もう話せる】の続きを読む

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    1: LingLing ★ 2021/08/13(金) 20:20:16.51 ID:CAP_USER
    「単独」 30年ぶりに任那日本府の亡霊から脱した新徳古墳
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    「咸平新徳1号墳は、倭人ではなく地域首長墓の可能性が高い」
    ●30年未公開発掘調査の結果、今月末に発表
    任那日本府説に利用される恐れから、30年間公開されることがなかった三国時代「新徳1号墳」の発掘調査結果が今月末に発表される。東亜日報が事前入手した発掘調査報告書によると、古墳出土遺物からは百済と倭の文化が混在した様相が確認された。調査結果を分析した韓日考古学者らは、20、30代の男性と推定されるこの墓の主人を、地域の首長である可能性が高いという結論を下した。これは、韓半島に進出した倭人が埋められたという任那日本府説の見方と反するものだ。

    1991年3月、盗掘の痕跡が発見され、初めて調査が行われた新徳1号墳は、日本の古代墓でよく発見される鍵穴模様の典型的な前方後円墳(前方は四角く、後方は丸い封墳を持つ墓)だ。新徳1号墳は、このような封墳の形のため、古代日本が韓半島南部を支配したという任那日本府説の根拠に使われる可能性があるという憂慮が提起された。しかし、調査の結果、副葬遺物から百済と倭文化が混合されていて、彼らと交流した栄山江一帯の支配勢力が墓を作った可能性が大きいと分析された。

    ●墓の主人は20、30代男性
    国立光州博物館が日本の研究者たちまで立ち合わせた「新徳1号墳発掘調査報告書」を電撃発刊することにしたのは、6世紀の栄山江一帯の支配勢力の独自性が見える多様な考古学証拠が最近発見されたことによるものだ。任那日本府説の限界が明らかになったということだ。先立って、博物館はこの墓を1991年から2000年まで4回調査したが、当時は調査結果を公開してなかった。キム・ナクチュン全北大教授(考古学)は、「6世紀前葉、栄山江流域の現地勢力が重要な役割を果たした事実が明らかになって、任那日本府説によって歪曲解釈される余地が減った。新徳1号墳発掘調査報告書の発刊に日本の学者たちまで立ち合わせたのは、国内学界の自信感が反映された結果」と話した。

    報告書によると、神徳1号墳からは、墓の主の高い身分を示す金銅冠、金銅飾履、練理文玉、重層ガラス玉、大刀、鎧、兜、青銅雲珠などの様々な副葬品が出土した。墓から出土した歯6点の大きさと摩耗程度を分析した結果、20代後半から30代半ばの男性が埋められたものと推定された。

    キム・サンウン記者

    東亜日報(韓国語)
    https://news.naver.com/main/read.naver?mode=LSD&mid=sec&sid1=103&oid=020&aid=0003375015

    【【韓国】 30年ぶりに任那日本府の亡霊から脱した新徳古墳…地域の首長が埋められた可能性高く、副葬遺物には百済と倭の要素】の続きを読む

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    1: LingLing ★ 2021/07/31(土) 00:11:29.36 ID:CAP_USER
    霊岩郡、第18回「王仁博士追慕全国サイバー学生作文コンテスト大会」開催2021.07.30

    全羅南道(チョルラナムド)霊岩郡(ヨンアムグン)は、我が国の優秀な民族文化と学問を日本に伝えた王仁博士の学徳と儒風を継承発展させて、後学の文芸振興及び健全な文化風土を造成しようと、第18回王仁博士追慕全国サイバー学生作文コンテストを8月3日から9月8日まで公募する。

    王仁博士を称えるために用意された今回の作文コンテストの主題は、「王仁の夢」で、全国の小・中・高校生を対象に実施される。

    応募形式は、散文または韻文で作成して、郡ホームページおよび事業所ホームページから応募可能だ。

    賞は、分野別5つで計10名で、大賞2名に各100万ウォン、最優秀賞2名に各70万ウォン、優秀賞2名に各50万ウォン、奨励賞4名に各15万ウォンで選定して、9月中にホームページを通じて公開する予定だ。

    郡関係者は、「今大会を通じて霊岩の誇りである王仁博士の業績を全国の小中高校生に広く知らせると共に、学生の文芸創作能力を育てる機会を提供するきっかけになるだろう」と話した。

    スポーツソウル(韓国語)
    https://news.naver.com/main/read.naver?mode=LSD&mid=sec&sid1=102&oid=468&aid=0000781438
    霊岩郡庁舎全景
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    1: LingLing ★ 2021/07/16(金) 08:52:26.62 ID:CAP_USER
    日で「サケの神」になった百済人…酒杯が回るようにそう文化も発展する
    ミョンウクのホモマシジャクス
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    日本は近くて遠い国だ。地理的には近いが、情緒的には遠い国という意味だ。最近は、輸出規制にコロナまで重なって「遠い国」になったと話す人も多い。しかし、歴史的に切っても切れない隣国であることは確かだ。嫌だからといって引っ越すわけにもいかないからだ。

    古代史で日本と最も近い国は百済だった。日本は百済を特別待遇にした。代表的な例として、百済を「クダラ(くだら)」と呼んだ。学者によって異なるが、クダラの語源の一つは、「大国(大きな国)」だ。日本には「クダラ ナイ(くだらない)」という表現がある。クダラに「ない」という意味のナイをつけた。直訳すると「百済らしいものはない」ということで、「ださい」という意味だ。「百済らしくなければ、ださい」と言うほど、尊敬の意味を込めて百済を呼んだ。

    日本には百済と関連した地名も多い。奈良県の広陵町百済と滋賀県の百済寺町が代表的である。滋賀県には百済人の後孫が建設したという日本の重要無形文化財である「ペクジェサ(百済寺)」という有名な寺もある。現在は消失した百済の寺刹である梵閣「ヨンウンサ(龍雲寺)」に倣って創建された。

    百済の酒も日本に大きな影響を及ぼした。 日本最古の歴史書である『古事記』によると、応神天皇という日王は、須須許理という百済人が醸した酒を飲んで、こう言った。「須須許理が醸した芳醇な酒に酔ってしまった。無事平安な酒、笑いを誘う酒に私は酔ってしまった」。この逸話は日本酒の歴史で、比較的大きな事件として、日本サケのソムリエ教科書にも登場する。

    以降、573年、京都の佐牙神社という場所で須須許理を日本サケの神として祀った。須須許理は、日本平安時代に書かれた「延喜式」という文献によると、須須保利という名前でも登場する。この単語は、日本の南側の地域で、麹と大豆、玄米食酢を入れた発酵および漬物食品の名前として使われる。在日同胞出身であるチョンデソン佐賀県立大人間文化学部教授は、著書『日本に渡った韓国の食べ物』で、サケの語源は韓国語の「サクタ(※)」と書いた。 「サクタ→サクア→サカ→サケ」になったという説明だ。
    ※「朽ちる」、「すりきれる」、「腐る」、「発酵する」など。

    日本で「サケの神」になったもう一人の韓半島人がいる。日本古代歴史の土台を築くのに重要な役割をした秦氏族だ。日本書紀によると、秦氏族は百済のクンウォルグン(弓月君)の後孫だった。彼らは種籾を伝えてあげて、貯水池と田をつくり、日本国宝第1号の弥勒菩薩半跏思惟像がある広隆寺という寺も建てた。何よりも酒造りの技術が優れていた。秦氏族を称える神社は、国家指定重要文化財の松尾大社だ。日本サケ醸造所の代表と技術者らは、毎年ここに来て、この一族を称える。自分たちの酒蔵に位牌を奉って、酒造りを始める時に、酒の神の秦に礼をしたりもする。

    我々は2000年前、日本に酒造りの技術を伝えた。我々の先祖は日本でサケの神になった。だからといって、優越感を持ってはならない。日本のサケはすべて我々のものだと言うのも、時代にそぐわない。彼らは、彼らなりに文化を発展させてきたからだ。文化は誰かの所有物ではない。人類が共有しなければならないものだ。酒が私に知らせてくれたもう一つの価値だ。

    世宗サイバー大バリスタ&ソムリエ学科兼任教授

    韓国経済(韓国語)
    https://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=103&oid=015&aid=0004578717


    【【韓国の妄想】 日本酒:「サケの神」になった百済人…我々は2000年前、日本に酒造り技術を伝えた】の続きを読む

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    1: LingLing ★ 2021/06/28(月) 19:15:12.59 ID:CAP_USER
    5世紀、百済甲冑が千字文伝来されたばかりの日本系統?
    ・文化財庁国立羅州文化財研究所の甲冑を再現後、
    帯金系板甲・衝角附冑の兜、「倭系甲冑」と表現
    ・史劇の日本のものと似て「日本の甲冑の元祖も百済?」

    5世紀百済南部地域甲冑再現
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    5世紀百済南部地域、軍士の甲冑
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    1600年前、百済南部勢力は近隣の伽耶、新羅、倭などと競争または協力して勢力拡張を図ったが、当時、兵士たちが着ていた鎧と兜が発見されて、文化財庁国立羅州文化財研究所が再現を試みた。

    6月27日、羅州文化財研究所(所長イ・ウンソク)によると、5世紀の甲冑である帯金系板甲は、横長の鉄板と三角形状のかたちの鉄板に穴を開け、鹿の皮ひもで連結した。

    三角板革綴も三角形の鉄板を皮ひもで繋いだ形の鎧であり、衝角附冑(三角板革綴衝角附, 兜)は前面が前方に突き出た鳥の嘴の形をしていた。

    文化財庁は報道資料を通じて、「倭系(日本系)甲冑(甲玉と兜)」という表現を使った。

    百済が、日本に千字文を教えてあげた時期は4世紀後半で、統治構造などを定立してあげた時期は5世紀、仏教を教えてあげた時期は6世紀という点などを総合的に考慮すれば、百済が日本の文物を逆輸入したという感じを与える「日本系鎧と兜」という表現が一見、歴史的脈絡と食い違う感じを受ける。

    これについて、国立羅州文化財研究所側は、「高興野幕古墳から発見された三角形鉄板甲冑遺物の製作時期でいうと、日本国内で発掘された似たような遺物よりも、時期的に遅いと思われる。副葬品も日本で発見されたものと類似したものがあった。伽耶は、最初から別の形の鎧(縦長板甲)を使ったことが分かる。5世紀は、南部地方と日本間の交流が活発だった時期だった」と答えた。

    三角形鉄板の鎧と衝角附冑の兜を、誰が先に開発して常用化して、どのように伝えられたかは、野幕古墳の鎧発掘の件だけでは確認できない。

    今回再現した高興一帯の鎧と兜の格好は、最近の史劇で見る日本式と似ているのは事実だ。戦争の武器体系は、国家の体系が定立されて以降、高度化するものであるが、当時、我々が文明をほぼ一方的に日本に伝達してあげた点からすると、史劇に出てくる日本軍の鎧兜が、ひょっとして元来は百済のものではないかという気もする。

    もちろん、当時両国の友好関係を考慮すれば、日本が自生力を持って、後に開発した多様な文物を百済南部地域の戸長と将兵が輸入して使用した可能性もある。当時、二つの共同体が兄弟のような同盟だったなら、文物開発の先後は何ら意味がなかったのかもしれない。

    ヘラルド経済(韓国語)
    https://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=103&oid=016&aid=0001853461

    【【韓国】 文化財庁が「倭系」と表現した百済甲冑…千字文など、我々が文明をほぼ一方的に日本に伝達したから百済が元祖では?】の続きを読む

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    1: LingLing ★ 2021/06/23(水) 21:07:06.12 ID:CAP_USER
    「基層民の本当の相扶相助、村契がまさに住民自治」

    朝鮮時代の「村契」から住民自治の原型を取り戻して、各地域だけの歴史・文化的伝統と遺産を、住民自治を通じて活かすべきだという主張が提起された。住民自治実質化の新たなページを開く韓国住民自治中央会第2期定期会議が6月18日~20日、済州パーリープラスホテルで開かれた。

    「住民自治、愉快な反乱をしよう」というキャッチフレーズに合わせて、今回の定期会議は住民自治の理論的向上はもちろん、現場で基礎となる役立つ実行プログラムとして進められた。定期会議二日目の最初のプログラムは、パク・ギョンハ中央大歴史学科教授(郷村社会史研究所長)の「朝鮮後期の住民自治組織村契と済州道の郷会」講義だった。

    郷村専門研究学者のパク・ギョンハ教授は、「郷約は郷村規約の略字で、国家が郷村民を統制するための道具として、美風良俗の伝統を活用したと見るのが適切であると思う。両班が下層民を支配するために活用した。水平的な郷会組織もあった。それがまさに『村契』だ」とし、「郷約を30年以上研究してみると、概ね4つの性格に分類されるが、△士族の郡単位である郷村統治の道具である『郷契』、△郷会の村単位である『洞契』、△首領の郷村統治とも言える『洲県郷契』、△基層民たちの水平的郷契である『村契』がそれだ」と説明した。パク教授は、「洲県郷約の場合、李栗谷の書院郷約が代表的だが、行政的国家機関といえる。官の支援がなければ郷村自治は実現しないという趣旨で制定され、制度は良いが、運営主体によって大きく異なった」と付け加えた。(中略…)

    パク・ギョンハ教授によると、「村契」は村ごとに名前は違うが、似たような機能をしており、規模は10~50戸前後の両村(両班がいる村)対民村の割合は約2:8程度だった。主な機能としては△村の大小事を決める生活共同体△「トゥレ」に代表される労働共同体△小正月に村の守護神を祭る祭祀共同体などだ。(中略…)

    続けてパク教授は、「済州道では、村契を郷会と呼び、この郷会が村の守護神に対する祭祀を主管する。特色は、1つの村で2つの村の守護神を祀って、祭壇の1つはポ祭壇と呼ばれ、儒教式の里社之神に対して祭祀を行う。もう1つは、本郷堂といって無教式の本郷之神を祀る。この本郷神は、儒教伝来以前の村契形成時からの土俗神」と話した。

    続けて、「済州市では、儒教式の里社神が、陰事的要素の本郷堂をなくしたり儒教的表皮で覆ったりして一つの村の守護神にしたのではなく、郷約における里社神と村契における本郷神を一緒に致祭することで、支配階層の儒教的イデオロギーと儒教以前からの基層民の土俗信仰が対立・葛藤の関係ではなく、調和・融合していたことを示している」と説明した。 これについてパク教授は「一つの村で儒教的儀礼と土俗的村の守護神を共に治めるということは支配層の理念に溶けていない、すなわち基層民の影響力の程度を示している」と評価した。

    次に、30年間の踏査写真を見せながらパク教授は、「村の祝祭という伝統を再照明して、住民自治会が主管しなければならないが、最近の地域祝祭はどれも同じ様子だ。その地域の歴史的伝統をいかさなければならない。その村の人々のための祝祭、精神的一体感を得るための行事として、村の人々が主人公となる村の精神を取り戻すべきだ」と強調した。

    パク教授はまた、「百済の人々が、日本に行って古代国家を作って、私たちがやっていた村の祝祭文化も伝えられ、日本の「マツリ」が世界的な祝祭になった。しかし、我々はというと、この美しい伝統を迷信だといって、すべて無くした。先祖たちの伝統文化として再照明する努力を、住民自治会が中心となってやらなければならない。その地域住民の文化自治、経済自治などを作っていく精神的遺産を継承することが本当の自治であり、意味があるのではないか。歴史と文化を基礎に住民自治をしてほしい。村の歴史と文化を基礎とすれば長く続き、誰も反発できないだろう」と強調した。

    オンライン中央日報(韓国語)
    https://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=102&oid=025&aid=0003111945
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    (参考)
    基層民:国の基層をなす民。一般人、庶民。
    村契:一般の村における住民相互間の協同のための自治組織。

    【【日本はもっと前からあるぞ韓国】 地域ごとの歴史的伝統、朝鮮時代の「住民自治」を活かすべき。百済が日本に伝えた祝祭「マツリ」は世界的になった】の続きを読む

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    1: LingLing ★ 2021/06/21(月) 07:22:30.14 ID:CAP_USER
    ■「百済人霊魂こもったリミックス」ヤマハのストーリーテリング

    武士(※武士のこと、以下「武士」。)の刀に見立てたリミックスフォージドアイアン
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    武士たちの殺生用刀の製作は、アイアン製作のアイディアとして活用されたという
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    [ヘラルド経済スポーツチーム]ヤマハゴルフを輸入するヤマハが、人気ブランド「リミックス」と関連した興味深いストーリーテリングを出した。日本の匠人が丹精込めて作るブランドだが、刀を作る人の由来と結びつけた点は興味を引く。

    ヤマハ本社がある日本静岡県の浜松は、今は工業都市としてよく知られているが、地理的にかつて日本刀を製作した五大門派の中の一つで、日本初期の鉄製刀剣製作技術は百済から渡った刀鍛冶たちによって日本に伝わった。

    リミックス製作で、大和伝は最も長い歴史を持つ。仏教文化が繁栄した国の時代(710~794)から製作が始まった。一直線の形をした刀で、主に戦闘をする僧侶のために作られた。相州伝の剣は、戦国時代(1467~1615)を経て、多くの大名や侍が愛用した。伝説の名人、相州政宗が登場する時期でもある。彼の手がけた剣はすべて国の名品だった。

    五大門派のうち最も遅く現れた岐阜県の美濃伝は、室町時代(1336~1573)末期に大和(奈良県)から移住した刀鍛冶たちによって形成された。その中には百済から渡った実力が優れた刀工(刀を作る人)の子孫がいた。当時、最高の刀鍛冶と呼ばれた関野孫六に大きなインスピレーションを与えた刀剣製作の匠人でもあった。

    美濃伝では、戦闘用刀を大量に生産するシステムを備え、ここで作られた刀剣は中国の明国に輸出されたこともある。岐阜県は、1500年代の武士たちの主な活動舞台として、数多くの日本刀がここで誕生したわけだ。500年以上を超える(26代目)間、家柄で代々刀を作ってきたケースもある。

    日本では刀を作ることを、「神が降りた神聖な作業」と考える。石炭や薪がいたるところに置かれている作業場だが、注連縄を配置したり、ここで仕事する人たちは皆、真っ白な作業服を着ている。剣を作ることは神聖な仕事であるため、作業する間に浄潔な精神を保つためだ。

    日本の自尊心であり、心臓と呼ばれたほど象徴的だった。日本人は、このような美濃伝の名刀が、百済から渡ってきた刀鍛冶の後孫によって作られたということを隠したかった。月明かりひとつ差さない暗いある日、日本人刀工たちはその匠人を消すために集まった。

    匠人は、暗い作業場で最後の焼きなましをしていた。焼きなましは、刃が赤くなる様子を目で確認しながら作業するために、必ず暗い所でしなければならない。温度が800度を一気に超えると、刃に傷が残って剣を破棄しやすくなり、800度にならなければ、焼きなましがきちんと行われてない。温度計がなかったその時代、最上品の刀を作り出すために、800度を維持するということは、匠人の腕でなければ真似することすら難しい作業だった。

    汗を流しながら、焼きなましをしていた匠人の後ろに、血気盛んな日本人刀工数名がゆっくり近づき始めた。すると、火の中をのぞき込んでいたその匠人は急に身を起こした。まるで、自身の死を予見していたかのように、身なりを整えると、目を閉じた。刀工たちが、振り回した刀は彼の首を切り、匠人の白い服は赤く染まった。

    明くる日、この知らせを耳にした妻もまた静かに目を閉じた。頬の上に熱い涙が流れた。しばらくすると、彼女は懐の中の短剣(脇差)を取り出し、自決してしまった。この短剣は、彼女が二十歳になったばかりの頃、夫である刀工がプレゼントしたものだった。彼はなぜ、幼い妻に短剣をプレゼントしたのだろうか。もしかして、こんな時が来ることも予見していたのだろうか。

    (つづく)

    ヘラルド経済(韓国語)
    https://sports.news.naver.com/news.nhn?oid=016&aid=0001850343

    【【捏造大国】韓国エージェンシーのストーリーテリング…日本刀製作技術を伝えた「百済人の魂が入ったアイアン」】の続きを読む

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    1: 蚯蚓φ ★ 2021/06/17(木) 00:20:37.49 ID:CAP_USER
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    ▲『天皇は百済語を話す』(キム・ヨンウン著|ハノル社)

    「日本天皇の主張のように、天皇になぜ百済の血が混じったのか、古代韓国・日本語と修辞で解明した本」。

    2001年12月23日、日本の第125代アカヒト元天皇(訳注:アキヒト(明仁)上皇の間違い)は第50代天皇人、桓武天皇の生母が百済武寧(ムリョン)王の子孫だと続日本紀に記録されており、韓国との縁を感じると発言した。2013年、奈良県で開かれた国際大会でも続日本紀を引用してもう一度この話をした。

    この本は続日本紀に記録された何行かの文章とアカヒトのいくつかの発言が全てではない。言語と記録、修辞を通じて読者がわかりやすく解説する。

    日本という島が形成された時に入ってきた南方系と北方系のうち特に韓半島を通じて入ってきた北方系が新羅語ではなく、高句麗、百済語と類似の古代日本語を駆使し、高句麗系修辞と日本修辞の類似点まで加えた。

    古代史の前漢が呼んだ倭は百余りの小さな都市国家の通称で、そこから頭角を現わした南方系と推定されるヤマト王朝と九州で国を建てたとされる百済・北方系と類推されるクノグク(狗奴国)を通じて百済との関連性を説明する。

    韓日関係は単に日本の帝国主義から始まったわけではなく、6~7世紀に百済の王家と宮中では百済語を話をした飛鳥王朝が白村江の戦いで全国民の0.36%にもなる3万2000人を出兵させて戦い、ここから壬辰倭乱を経て、日帝まで形成されたと主張する。

    東京で生まれ早稲田大学出身で日本をよく知る著者、金容雲(キム・ヨンウン)が日本王家のルーツ、文法・音韻とさらに方言・修辞に至るまで様々な見解から天皇の血統に百済の血が混じっていることを明らかにする。増補版

    著者キム・ヨンウン漢陽大名誉教授は韓国を代表する数学者で日本文化比較の大家だ。東京生まれで早稲田大、米国オーバーン大学院を経てカナダのアルバータ大学でそれぞれ理学修士と博士学位を受けた。米国ウィスコンシン州立大助教授、日本の神戸大学と東京大学、日本国際文化研究センターなどで客員教授を歴任した。

    国内では数学史学会会長、漢陽大学大学院長などを歴任し、数学文化研究所長に在職した。著書は「韓国人と日本人」シリーズ、「韓日間のからまった糸」「日本語は韓国語だ1,2」の他に多数の数学関連著書がある。

    ヤン・ヒョンモ記者

    スポーツ東亜(韓国語)
    https://sports.donga.com/Section/article/all/20210616/107467626/2

    【【いつもの韓国の妄想】様々な視点から天皇の血統に百済の血が混じっていることを明らかにする、金容雲著『天皇は百済語を話す』】の続きを読む

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    1: 蚯蚓φ ★ 2020/09/15(火) 13:23:24.24 ID:CAP_USER
    百済東城王の死で王位に上がった武寧王は蓋鹵王の息子であり昆支王(困支)の養子だ。462年、倭地にある奈良百済に行く途上にある各羅島で生まれ、名前は隆だ。生まれた後も続けて奈良百済で成長したので日本語でシマ(島)またはサマと呼ばれた。それで彼を斯麻王とも言う。

    これは倭地にもう一つの百済があったことが分る部分だ。それが奈良百済だ。奈良百済は近肖古王(クンチョゴワン)の時に建国されたが当時、近肖古王は大陸百済、韓半島百済、倭地の奈良百済の三地域を統治した大帝国の皇帝であった。

    大陸と韓半島は距離が近いが倭地は大陸から遠く、当時は海上交通が発達していない時代で倭の奈良百済を自治的に統治する王を置いたが、これを天皇と呼び総督の様なものだった。サマは生まれるとすぐに生母とともに大陸百済に戻ったが、政治的状況が非常に不安で奈良百済にある昆支に再び送られた。

    このように百済王室が王子を勝手に倭地の奈良百済に送ったり連れてきたりしたのは、奈良百済が百済が支配する領土だったからだ。百済は王子だけでなく、百済の文物を倭の奈良百済に伝達するために百済住民を大挙移住させた。403年(応神14年) 2月、百済の縫衣工女が奈良百済に渡り、これが日本列島で衣縫の元祖だ。

    工女が一人で行ったわけではなく大移住集団の一員として行ったが、移住集団は日本列島全域120余りの県に散って暮らしながら百済の文物を伝播した。

    当時、倭は衣服もない新天地島で、このような先進文化を持つ百済の大民族集団が移住した事実はすなわち百済が日本列島を開拓し、さらには日本列島全域を建設したことを立証する。

    文字もなく衣服もない原始生活をする原住民世界に文字や各種の技術、馬など高度な先進文化を持つ百済の大移住集団が日本列島に上陸したとすれば、当然この集団から統治者である王や天皇が出なければならない。史録によれば、倭の奈良百済・応神天皇も百済住民大移住集団から出た天皇であり、同時に奈良百済初の天皇だった。

    475年、高句麗の攻撃で百済の都城が崩れ蓋鹵王が捕えられて死ぬ時、彼の王子はみな死んだがサマ(島)は倭の奈良百済にいたので死をまぬがれて王位に上がることができた。
    (中略:半島百済の歴史)

    倭地の奈良百済も小王国と戦って領土を拡張しながら日本国建設の土台を用意していった。この時、奈良百済の領域は四国島と向かい合う本州の凸のように出ている奈良県が中心だった。

    このような記録を見れば日本の文物は百済が伝播したことは明らかに見える。

    クォン・ウサン命理学者・歴史小説家
    no title


    釜山経済新聞(韓国語)
    http://www.bseconomy.com/news/view.php?idx=36358



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    1: 蚯蚓φ ★ 2020/09/12(土) 19:46:09.20 ID:CAP_USER
    no title

    ▲ホン・スンジュ歴史コラムニスト.(c)ブレーキニュース

    百済は温祚(オンソ)が建ててその血統が万世一系に続いたわけではなく、一つの王暦の中に二つの王権勢力だった温祚系と沸流(ピリュ)系の王たちが混在して現れる。

    日本でも同じように日本書紀に出てくる天皇派閥は百済系一つの万世一系と見られるが、実は新羅系(天武天皇)と高句麗系(顕宗)の王統が混ざっている。一方、日本で新羅系が現れる代表的な事件は大化改新および壬申の乱に続く天武天皇の登場が挙げられる。ここでこれに対する歴史的背景を一度見てみることにしよう。

    まず645年に倭列島で起きた政変を大化改新という。これは百済系蘇我氏の勢力が大きくなるとすぐに中大兄皇子がこれを排除するために藤原鎌足と共に倭列島奈良飛鳥地域に新羅勢力を引き込む。

    この時、新羅からは大海人として出てくる新羅貴族キム・タチュク将軍が率いる新羅支援軍を派遣して奈良飛鳥軍を制圧し、蘇我入鹿大臣を除去する。この事件で百済系、皇極女王(義慈王(百済最後の王)の妹)が退いて孝徳天皇が新しく即位する。

    その後、金春秋(キム・チュンチュ)が倭列島に入って唐の高向玄理(たかむこ の くろまろ)を国博士にたて唐留学生と僧侶が主導して新羅式政治改革を推進したことを意味する。

    一方、羅唐連合軍によって百済が660年に滅亡した後、鬼室福信と黒歯常之将軍によって多勿戦争が3年間行われる。この時、倭列島から百済王として来た扶余豊王(義慈王の息子)を軍事支援した中大兄皇子(義慈王の別の息子、扶余勇)が最終的に663年、白村江戦闘で大敗して百済復国が失敗に終わる。

    これで中大兄皇子が668年に第38代天智天皇(日本書紀式の名前)として即位する。その2年後、670年ごろ日本(ヒノモト)国を建てるが、これは<日が昇る地>という意味で百済人が自らを呼んだ国名だった。すなわち日本は天から落ちた別個の国ではなく百済貴族と流民が倭列島に逃避して建てた<もう一つの百済国>の別称だった。

    その後、先に日本を建てた百済系天智天皇が672年に急死するとすぐに王権をめぐり新羅系大海人(日本書紀では天智の弟)と天智の息子、大友王子(後に弘文天皇で追認)の間に権力闘争が起きた。これを壬申の乱という。新羅の将帥、大海人が大友王子をはね除けて第40代天武天皇(673~686)に即位するとそれは百済系政権から新羅系政権に変わったことになる。

    一方、天武天皇当時、日本書紀を作成し始めたが百済勢力が日本に来たことを隠すため、前部に神代記を隠喩的に記録した。また、このような側面から見る時、日本万葉集(759年ごろ作成)のルーツが新羅郷歌からきたという主張にも一理あるように見える。

    (訳注:固有名詞が日本語読みではなく、漢字の韓国語読みハングルで書かれている。例えば大友王子はテウワンジャ、大海人はテヘインなど。さらに一般的な歴史認識と異なるので誤訳している可能性がある。)

    *筆者/ホン・スンジュ歴史コラムニスト.失われた韓国古代史研究会長.

    ノーカットニュース(韓国語)
    http://breaknews.com/sub_read.html?uid=754947

    【【韓国の妄想炸裂】 天皇家は百済系の万世一系と見られているが、実は新羅系-高句麗系が混ざっている】の続きを読む

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    1: Felis silvestris catus ★ 2020/08/18(火) 18:42:40.69 ID:CAP_USER9
    kawakatu

    政治知新
    @seijichishin

    静岡県の川勝平太知事「藤原氏の先祖は韓国人!」「不比等の父の鎌足は出自が不明です。私は、百済最後の義慈王の子で、日本に人質として来ていた余豊璋が鎌足だと思います」との珍説を駐日韓国大使に大披露!! seijichishin.com/?p=44667 #川勝平太 #静岡知事

    のりぞー
    @sarasarachazuke
    6 時間
    返信先: @seijichishin
    イカれてますね。リニア云々の問題よりも、こちらのほうが問題でしょ?静岡県民さん大丈夫?
    https://mobile.twitter.com/seijichishin/status/1295545226392526848?p=p 

    【【無知なパヨク】静岡県知事・川勝平太「藤原氏の先祖は韓国人!」との珍説を駐日韓国大使に大披露! ネット「イカれてますね】の続きを読む

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