かたすみ速報

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    タグ:高麗

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    1: 新種のホケモン ★ 2022/10/17(月) 14:11:49.41 ID:CAP_USER
    【略】

    ◆朝鮮民族が中国全土を支配した?

    11世紀頃、黒水靺鞨の女真族は強大化していき、完顔阿骨打という女真族の族長が1115年に金を建国します。金は内満州や外満州のツングース系民族の大半を統一し、モンゴル系の遼を滅ぼします。さらに北宋を滅ぼし、華北(中国の北半分)を征服するに至ります。金王朝は中国を支配した最初のツングース系民族の王朝でした。

    この金王朝の建国者の出自について、韓国の学者たちが独自の説を打ち立てています。10世紀半ばに完顔函普(かんぷ)という女真族の族長がいました。この人物は金を建国した完顔阿骨打の150年前の祖先に当たります。

    『金史』には、「金の始祖である函普は高麗に由来する」という記述があります。高麗は10世紀に王建(ワンゴン)が建国した朝鮮王朝で、新羅に続く2番目の統一王朝です。この高麗が英語のKorea(コリア=韓国)の語源となります。高句麗も高麗も同じもので、「句」の字を入れる「高句麗」という言い方が古い表現であるため、古代の高麗を「高句麗」と表記し、中世の高麗を「高麗」と表記して、一般的に使い分けています。王建は高句麗の後継者を自任し、国号にもこれを使ったのです。

    韓国の学者たちは、この高麗の出身である完顔函普は朝鮮民族であり、その子孫の完顔阿骨打がつくった金王朝は朝鮮民族が建国した国家であると主張しているのです。高麗の出身というだけで、なぜ完顔函普が朝鮮民族になるのか、その根拠は明らかではありません。完顔氏ら女真族は朝鮮人と密接に関係し、混血していますが、朝鮮民族という範疇には入りません。

    韓国の学者たちは、朝鮮民族の完顔函普の血を引く完顔阿骨打が中国に進出し、漢民族を蹴散らし、中国を征服したという民族の躍動史をよく認識すべきだと言います。また、完顔函普は新羅の王族だったという根拠不明な主張をする学者もいます。

    さらには、金王朝の後継である清王朝も同様に、朝鮮民族が建国した国家であるので、朝鮮民族が17世紀以降、中国全土を支配したことになるというのです。東洋大学校の金雲会教授は清の皇族姓の愛新覚羅について、「新羅を愛し、記憶する」という意味が込められていると主張しています。

    「愛新覚羅」は「アイシンギョロ」と読みますが、「アイシン」は「金」を意味します。「金」は満州語で「アンチュン」と発音します。「ギョロ」は黒竜江省にある女真族の祖先の土地の名です。かつての国名と土地の名を組み合わせて、「アイシンギョロ」としたものに「愛新覚羅」という漢字を当てたに過ぎません。「新羅を愛し、記憶する」という意味などありません。

    ◆『金史』の記述の謎

    しかし、問題はなぜ『金史』に金王朝建国者の始祖が高麗に由来するということが書かれているのかです。『金史』に記されている「高麗」は中世の高麗を指すものではなく、古代の高句麗を指していると考えられます。6世紀の南北朝時代から隋唐時代の中国史料で、高句麗は「高句麗」とは表記されなくなり、「高麗」と表記されるようになります。『金史』の「高麗」も高句麗のことだと考えられるのです。また、『金史』の中では、完顔函普に言及したところ以外にも「高麗」と記されている箇所が随所に見られますが、これらは高麗ではなく、「高句麗」を指していると思われます。

    満州族にとって、高句麗は満州全域から朝鮮半島北部につくられた栄光の古代国家と記憶されており、始祖が高句麗の出身であるとすることで、彼らの正統性を高めようとする狙いがあったと推察されます。

    さらに述べるならば、完顔函普が高句麗に関係していたということも信頼に値しません。女真族は靺鞨族の後裔です。靺鞨族は外満州にいた粛慎を始祖とします。一方、高句麗は扶余族が作った王朝で、扶余族は内満州にいた濊貊(わいはく)を始祖とします。両者は同じツングース系民族ですが、系譜が異なります。

    完顔函普が高句麗に由来する一族ならば、女真族は濊貊の子孫ということになってしまい、歴史の事実とは一致しません。『金史』に記されている一文をもって、韓国の学者たちが主張する「女真族の起源は朝鮮人だった」「金王朝や清王朝は朝鮮民族が建てた国家であり、朝鮮史の一部である」という理屈は通らないのです。

    また、清王朝の草創期において、朝鮮は女真族を「オランケ」(朝鮮語の「野蛮人」という意味の蔑称)と呼びました。朝鮮は、自らを中華文明の信奉者とする「小中華思想」を掲げ、女真族のような蛮族が漢民族に楯突くのは道理に反していると怒り、女真族と戦うことを宣言します。

    【続く】

    宇山 卓栄
    2022.10.17
    https://gendai.media/articles/-/101006?imp=0

    【「朝鮮民族が17世紀以降の中国を支配」説?韓国側の主張はいつも稚拙なこじつけに終始】の続きを読む

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    1: 昆虫図鑑 ★ 2021/07/16(金) 16:14:55.47 ID:CAP_USER
    mongoruteikoku
    (略)

     中国全土を征服したのはモンゴルが初めてだった。
     南宋は首都である臨安が陥落しても、幼帝と一部の臣下が現在の深セン市まで逃げて徹底抗戦した。最後は「崖山の戦い」(1279年)に敗れて滅亡したが、異民族の支配に対して徹底抗戦したという記憶は中国人に残ることになった。
     中国人は約100年間にわたってモンゴル人の支配下で暮らしたが、その支配を「紅巾(こうきん)の乱」という農民反乱によって覆している。農民反乱による王朝の崩壊は中国史の定番であるが、異民族支配に対しても農民反乱は有効であった。この反乱の中で力をつけた朱元璋(洪武帝)が明を建国した。

    ■ モンゴルへの降伏で決まった朝鮮半島の「国の形」

     モンゴルは朝鮮半島にも攻め込んだ。朝鮮半島に住む人々は、それまでも唐など中国王朝の脅威にさらされてきたが、なんとかその侵攻を防いでいた。付け根が山岳地帯である朝鮮半島は攻めにくい。モンゴルはそんな朝鮮半島に深く攻め込んできた。
     モンゴルの侵攻に対して高麗王室は「江華島(カンファド)」(ソウルの北西約50キロ、漢江の河口にある島)に逃げ込んで抵抗した。江華島と朝鮮半島との距離は1.2kmほどでしかないが、この水道をモンゴル軍は渡ることができなかった。モンゴル軍は海の戦いが苦手だった。
    そのために江華島に逃げ込んだ王室は無事だったが、数度にわたる侵攻によって朝鮮半島に住む人々は甚大な被害を受けた。その結果、王室は江華島に逃げ込んでも食料を確保することが難しくなった。このような状況の中で文官グループは、徹底抗戦を叫ぶ武官グループから政権を簒奪(さんだつ)して、モンゴルに降伏することを選んだ。その時に文官グループが作り上げた降伏文書が朝鮮半島の「国の形」を決めたと言ってもよい。
     文官グループは「文官は事大主義(強いものに従うこと)を実行しようと思ったが、武官がそれを邪魔したために降伏できなかった」と仲間を裏切るような卑怯な降伏文書を作成してモンゴルに降伏した。そのあり方は、徹底抗戦を叫んで滅んだ南宋とも、元寇を撃退した日本とも異なっていた。
     高麗が滅びた後、朝鮮半島は李氏朝鮮の時代になるが、李氏朝鮮では文官が武官の上に立って統治する体制が確立された。そんな李氏朝鮮は明や清に徹底的に臣従する政策を採用した。
     李承朝鮮の支配層は明や清に卑屈な態度で接する一方、国内に対しては徹底的に権威主義的な態度で振る舞った。文官は儒教(朱子学)を振りかざし、屁理屈をコネ回して民衆を支配した。
     安全保障を隣国に丸投げして、文官が民衆に対して威張り散らす体制を構築した国は李氏朝鮮ぐらいだろう。1897年に大韓帝国と名前を変えたが、李氏朝鮮は実質的には日本に併合される1910年まで500年以上も存続した。そのために、今でも朝鮮半島に住む人々の心の中には李氏朝鮮時代の記憶が鮮明に残っている。現代の韓国の政治や外交政策を理解するには、李氏朝鮮を理解する必要がある。時にヒステリックに相手を攻撃し、前言を翻しても平気でいられる体質は李氏朝鮮時代に培われたと考えられるからだ。

    ■ 「米国に勝利」につながるベトナムの戦い方

     ベトナムもモンゴルの侵攻を受けた。ベトナムは中国と陸続きであり元は3度にわたってベトナムに侵攻している。元はハノイを占領した。
     モンゴルが侵攻した時、ベトナムは陳朝であったが、モンゴル軍があまりにも強いので、皇族の中にも元軍に降るものが出た。そのような状況の中で、時の皇帝・仁宗は降伏したいと言い出した。その時、将軍の陳興道は廟議において「降伏するのならこの首を切ってからにしてほしい」と皇帝に強く戦いを迫った。このシーンはベトナム史の名場面として、今もベトナムの人々の間で熱く語り継がれている。
     仁宗は戦いを決意した。陳興道は弱気になりがちな仁宗を励ましながら、森に隠れてゲリラ戦を陣頭指揮した。
     元軍は圧倒的な戦力を誇りながらも、亜熱帯でのゲリラ戦に勝つことができなかった。熱暑に疲弊した元軍は一度撤退して陣営を立て直そうと考えた。その際に、紅河デルタの白藤江(はくとうこう)を下って撤退しようする元軍に対して、陳興道は下流域の河床に何本もの杭を打って待ち伏せすることにした。杭は満潮時には見えないが潮が引くと現れる。元軍の船が杭に挟まれて動けなくなったところを小舟に乗ったベトナム兵が襲いかかった。白藤江の戦いで元軍は全滅に近い損害を受けた。
     この民族の物語は、小国であるベトナムがなぜ強大な米国に勝利することができたかを考える上で重要である。

    (略)

    川島 博之

    https://news.yahoo.co.jp/articles/dd789b161fd44e68ffb277e115778326d8b26ed4?page=1

    【日本は撃退成功、アジア諸国は「元寇」にどう立ち向かったのか?】の続きを読む

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    1: すらいむ ★ 2020/09/17(木) 11:22:53.68 ID:CAP_USER
    genkousen
    CGで完全再現したらわかった! 元寇で押し寄せた蒙古軍船の弱点

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     ときは13世紀後半、の第五代皇帝フビライは、高麗を配下に収めると、その先の海上にある島国・日本に狙いを定め、1274年の「文永の役」、1281年の「弘安の役」と、2度にわたって侵攻してきました。
     1度目の文永の役では、博多湾に上陸した蒙古軍は、伝統にのっとり一騎討ちで立ち向かう日本の武士たちを、集団騎馬戦術と新兵器の「てつはう」でさんざんに打ち破ったといわれています。
     博多市街も焼かれ九州は陥落寸前となるも、なぜか蒙古軍はその夜、全軍が撤退して船に兵を引き揚げ、そこへ暴風雨が直撃して壊滅し、日本は救われた――これが歴史の教科書にも書かれているストーリーで、日本にはいざとなったら神風が吹くという「神国思想」が生まれるきっかけともなりました。
     しかし、なぜ蒙古軍が一夜にして撤退したのかは、じつはいまだに謎のままなのです。
     さまざまな説が唱えられてきましたが、科学的に考えると現実離れしたものばかりだと、映画『アルキメデスの大戦』で製図監修を依頼され、戦艦大和などの設計図をすべて描いた播田安弘氏は指摘します。
     船舶設計のプロフェッショナルが蒙古軍船の性能を緻密に検証し、CG上で再現して迫った文永の役の意外な真実とは? 人気のPS4ゲーム「Ghost of Tsushima」で再び脚光を浴びている"蒙古襲来"の、新しいかたちが見えてきます。
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    ■宗主元帝の無茶ぶり命令
     1274年、フビライはついに日本侵攻の号令を発し、元は高麗に対して、6ヵ月以内に大型軍船300隻、小型上陸艇300隻、水み艇300隻を建造するよう厳命しました。
     さらには大工や工夫として3万人以上を徴発させました。
     しかし、これだけの軍船をつくるのは、大型軍船だけに限ってみても、必要な木材の量、建造期間、船大工や人夫の人数を検討してみると、とても難しいことがわかります。

    (略)

    現代ビジネス 9/17(木) 10:01
    https://news.yahoo.co.jp/articles/c7114b4698770f02d6267af47e013e5ce680a07c

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    1: 蚯蚓φ ★ 2020/08/09(日) 23:08:07.06 ID:CAP_USER
    [ユン・ミョンチョルの韓国、韓国人再発見]
    麗蒙連合軍の日本列島攻撃(上)
    モンゴル帝国に敵対的に対応した日本
    クビライカン、日本征伐決定…高麗と麗蒙連合軍結成
    戦力上は麗蒙連合軍が優れていたが日本が勝利

    no title

    ▲1次連合軍が最初に占領した対馬の小茂田浜海岸。写真=ユン・ミョンチョル東国(トングク)大名誉教授・ウズベキスタン国立サマルカンド大教授

    歴史は事実を正確に知り、客観化することが必要だ。私たちが麗蒙(元蒙)連合軍の「日本征伐」と呼ぶ戦争を中国は「元日戦争」と言い、日本は「文永の役」「弘安の役」と呼ぶ。天皇の年号で表現する日本的な自意識と勝者の余裕が感じられる。

    1274年陰暦10月5日から10月20日まで、高麗軍1万4700人、モンゴル・漢軍2万5000人、900余隻の戦力が動員されて日本軍と戦争を行った。引き続き1281年陰暦5月21日から7月7日までモンゴル軍3万人、高麗軍2万7000人、江南軍10万人など4000余隻の多国籍軍が日本を攻撃したが失敗した。

    私たちは麗蒙連合軍が日本を占領しようとしたが、海岸で神風にまきこまれてほとんどの船が沈没し、軍人は全滅したが、高麗の船は丈夫で被害は少しだったと知っている。奇形的な国際戦の実状はどのようで、主体はどの国だったのだろうか?また、高麗の役割は何で、兵士と国民の被害はどれほどだっただろうか?

    4世皇帝に上がったクビライにモンゴル帝国が課した最大の課題は南宋の滅亡と東方の完全征服だった。日本列島は地政学的、経済的、文化的に価値はあまりなかった。ただし、一部の見解のとおり南宋を攻撃する時、外交的背後の役割程度であった。

    クビライカンは1226年、高麗に日本征伐の意図を宣言して協力を要求した。これに対し高麗は1268年6月、クビライと高麗の国書を日本に伝達した。しかし、予想とは異なり日本は敵対的態度を見せ、使節を抑留までした。3番目に派遣した使節もまた無視した。

    いよいよ遠征が決定し、高麗は正月16日に工事を始めて5月大晦日まで大船と小船合わせて900隻を作り物品も全て整えた。辺山半島地域と羅州の天冠山地域の木材を活用し、戦船300隻、高速攻撃船300隻、給水船300隻など900隻をわずか4ヶ月半に完成したのだ。高麗の造船能力がどれほど優れており、続く戦争でも国力、労働力などが残っていたことが分かる。
    (中略:元寇の詳細な状況を高麗軍の立場から説明。長文につき割愛。「驚くべきことに日本人は「神風」と「奇跡」と名付けたが、自然は二回とも日本を助けたのだ」)

    この戦争は軍隊数、戦力、戦争経験や技術、武器などだけ見れば麗蒙連合軍が勝利するはずだった。ところが日本が大勝利をおさめた。麗蒙連合軍の戦闘開始日の選定と艦隊運営方式、指揮権の葛藤など内部事情や国際秩序などの要因は正確には分からない。そのため、生半可な結論を下すことは難しいが、日本は明らかに地形と海洋環境、気候を有効適切に活用して勝利した。そして運があまりにも良かった。個人に運と運命があるように国と民族にも明らかに運というものがあり、歴史は必然だけでなく偶然にも予想外に多く作用される例を示した。

    (後略)

    オ・ジョンミン記者

    韓国経済(韓国語)
    https://www.hankyung.com/life/article/202008097328g

    【【韓国人は分析ができない】 麗蒙連合軍の日本征伐、戦力は上だったのに失敗した理由は?~国や民族にも運がある】の続きを読む

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    1: 蚯蚓φ ★ 2019/08/15(木) 00:01:59.85 ID:CAP_USER
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    帆船時代までは上陸作戦は危険な冒険だった。海兵小隊が2隻のボートに分けて乗り、ヤシの木の見える海岸まで漕いで行く上陸作戦ではなく、大兵力を動員して長期的な占領ないしは完全征服を追求するような上陸作戦だ。海辺で敗れるより、波が軍隊を飲み込んでしまう可能性のほうがより高かった。多くの人は地中海は内海なので、海が穏やかだろうと思いがちだが、そうでもない。ペルシャがギリシャを侵攻したとき、クセルクセスはサラミスの海戦で失った船よりも多くの船を嵐で失った。

    無事に海辺に上陸しても、この瞬間から軍隊は孤立する。モンスーンを利用した航海時代に、少しでも時間が経過すれば、後続や支援部隊は来ることができない。その時点からは孤立した地で、限られた物資を持って戦わなければならない。このような困難を考慮すれば、13世紀末、クビライが高麗軍まで動員して試みた日本上陸作戦は、世界史に残る大胆な試みだった。さらに、モンゴル軍は海戦には門外漢である種族だった。

    1274年の侵攻は、麗元連合軍2万3000人を動員した。1281年の第2次侵攻は、4万ウォン余りの麗元連合軍に900隻の船、中国軍10万人に船がなんと3500隻だった。さらに、中国軍は急造した不良船に乗って、中国本土から出発して東シナ海を経て九州に来る長い航海だった。

    この戦いで高麗軍はよく戦った。モンゴル軍は名声が顔負けするほど適当に戦い、中国軍は戦うこともできず水葬された。日本を悪く思う人は、台風さえなかったら歴史は変わったはずだと残念がっている。しかし、すべての失敗がそうであるように、失敗の原因も半分は人災だ。決断力不足、消極的態度、予想外に強い日本の抵抗など複数の判断ミスがあったが、日本に関する情報が大きく不足していたのが、すべてのミスの始まりだった。戦争では情熱と名分、欲望ではなく、冷たい理性が支配してこそ勝つ。ところが我々は名分を理性で置き換えて、すでに敵味方を分けている。孫子の兵法の1枚でも再読するようお勧めしたい。

    キム・ソンギョン記者

    東亜日報
    http://www.donga.com/jp/List/article/all/20190813/1816396/

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